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婚約破棄って、マジ?
ヴィナスの態度は、どう見ても嘘をついていない。それがすごく嫌だった。
「私、何かしましたか?」
自分の声が弱々しくなっているのが自分でも分かった。
「いや」
「理由を教えていただけますか?」
「君に興味がなくなった」
ヴィナスのその氷のように冷たい言葉が鋭いナイフのように私の心に突き刺さった。
痛くて苦しくて、声が出てこない。
…………何この感情。
私のことを見つめる優しい目はどこにもない。あの甘い表情はどこに行ったのだろう。
何か事情がある、と思いたかった。もしかしたら、本当に何か事情があるのかもしれない。だけど、そんなことを考えられないぐらい私の頭の中は真っ白だった。感情が追い付かない。
「ここに君を呼んだ理由はそれだけだ」
私はもうヴィナスの顔を見ることができなかった。視線を下に向ける。指の先まで冷たくなり、微かに震えている。
………………エルヴィ、しっかりしなさい。
心の奥底で自分を鼓舞した。何度もそう言い続けた。
しっかりしなさい、しっかりしなさい、しっかりしなさい、と。
『今度は僕が守るから』
突然、幼い頃に「おねえちゃん」と慕っていた子の声が耳に響いた。私が薄れていく意識の中で、最後に聞いたお姉ちゃんからの言葉だった気がする。
…………あの子は間違いなくヴィナス・ジェガナだ。
私はその時、そう確信した。
あの時、私が出会った女の子も、どこまでも澄み渡った紫色の瞳、眩いばかりの絹糸のような金髪、目を奪うほどの美しさだった。
暗黒の森の正反対側にある私の家に近い方の森は安全で、幼い頃の私はそこをよく遊び場として使っていた。父に「日が沈む前に帰宅すること」という約束をして、いつも森の中で遊んでいた。
母は「女の子なのだから、もっとおしとやかに」といつも私を叱っていたが、父は私を自由に育てていた。むしろ、活発なのは良いことだと褒めてくれさえした。
兄は勉強で忙しくて、呑気な私は散策していた。冒険者みたいで楽しかった。
そして、そこで一人の女の子と出会った。こんな綺麗な子がこの世に存在していいのかと幼いながらに思ったのを覚えている。その子を「お姉ちゃん」と慕い、仲良くなった。
…………なんて懐かしい思い出。
どこかポカンと空いていた心が熱を帯びて埋め尽くされていくようだった。じわじわと満たされていく。
まだ完全に記憶は思い出せない。だけど、落ち着きは取り戻した。




