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異世界(へ送る)トラック運転手ですが、人生に疲れています

作者: 遠野さつき

「いくぞオラああああ!」

「ばっちこーーーい!」


 元気よく叫び、俺を迎え入れるように腕を大きく広げるお客様目掛けてアクセルを踏む。唸るエンジンの重低音はまるで死神の笑い声のようだ。


 迫る巨体に臆することなく、お客様は不敵に微笑んでいる。


 残り五メートル、三メートル……。人形を使ったリハーサル通り、俺が操る愛車のハニーちゃんは的確にお客様を跳ね飛ばした。


 見事な放物線を描くお客様から吹き出した鮮血が、雲ひとつない青空に虹を作る。


 ハンドルを大きく左に切って車体を止めたと同時に、牛乳パックが潰れたような音が周囲に響く。腹から腸を出して地面に落下したお客様の周りには、じわじわではすまない量の血が広がっていた。


「た、大変だー! きゅ、救急車ー!(棒読み)」


 ご依頼のオプションサービスをこなすため、慌てたふりをしてハニーちゃんから降りる。俺にはよくわからないが、漫画やアニメと同じシチュエーションで旅立ちたいというお客様は一定数いる。


 まだ息のあるお客様に近寄るのはいつだって勇気が必要だ。恐る恐る見下ろすと、お客様は潰れたトマトみたいな顔で満足そうに微笑んでいた。


「あ、ありがとう……ござい……ました……。これ、で……俺も……自由、に……なれ……」


 お客様からふっと力が抜ける。その場に残るのは物言わぬ亡骸と、俺と、ハニーちゃんだけ。後数分もすれば医者が死亡確認に訪れるだろう。


 この世で最も汚くも尊い虹は、お客様の門出を祝うようにひっそりと消えていった。



 ***



 二千百年。少子高齢化が極まりすぎて財政がにっちもさっちも行かなくなった日本は、かねてから秘密裏に研究していた別次元への扉を開く技術を完成させたと同時に、『異世界移民推進法』を強引に可決した。


 この法律の骨子は一つ。異世界へ移民を推し進める。ただそれだけ。


 希望するものは、特に審査もなく異世界で新たな人生を送れる。代償はこの世界での死のみ。ただ、自殺はできず、別次元への転送装置を積んだトラックに轢き殺されなければならない。


 お国からは、トラックが対象者に衝突したときのエネルギーを扉を開く動力にするため――というもっともらしい説明があったが、単純に手っ取り早いからじゃないかと思っている。対象者に転送装置を背負わせて飛び降りさせても壊れちまうもんな。


 要は、俺の仕事は公務員の肩書を背負った死刑執行人というわけだ。いつだって汚い仕事は下っ端に回ってくる。異動の内示が出た時はどんなパワハラかと思ったもんだぜ。


 とはいえ、異世界への移民を希望するやつなんて滅多にいないだろうと思っていた。だって、トラックに轢き殺されるんだぜ? 配属当時はコーヒー飲んでるだけで給料もらえるなんて楽だな、なんて同僚と笑っていたのに、今では連日人を轢き殺し続けている。


 これはきっと、平成の時代から異世界転生ものの物語が脈々と受け継がれてきたという下地があったのに加えて、予想以上にみんな未来に絶望していたからだ。


 どれだけ声を上げたところで誰にも聞いてもらえず、上位数パーセントの恵まれたやつらに押さえつけられて甘い蜜を吸い上げられるだけ。それなら別の世界で心機一転した方がいい。そう考えるやつの方が増えたってことだ。


 奇しくも光の速さでAI技術が進歩したおかげで、世界には人間よりも有能なロボットやアンドロイドがあふれ返り、人間がいなくても必要なインフラを保てるようになった。命の価値はますます曖昧になり、もはや誰も生きる意味なんて見出せなくなっている。


 今日の客もその類の人間だ。何不自由もない家庭に生まれ、いい大学に行き、可愛い彼女までいるらしいのに、ただ息苦しさから解放されたいという理由だけで異世界行きを選んだ。


 ただ、彼らは気づいていない。逃げた先にあるものが本当に救いなのか、受け入れる側の世界が心から笑みを浮かべて両手を広げているのか、誰も知らないということに。


「お疲れ様です、(とどろき)さん。今日はもうお仕事終わりですか?」

「おー、珍しく人数少なかったからな。久しぶりに定時で帰れそうだぜ」


 レトロな事務服を着て愛想良く微笑む山梨ちゃんに相槌を打ち、ガタついた椅子に座る。


 いつからあるのかわからない『異世界移民推進課』と仰々しい書体で書かれたプレートの下には、書類が乱雑に散らばった机や、化石化したFAXが並んでいる。


 平日の昼間だからか、思ったよりも人の姿はない。まあ、進んで来たくなる場所でもないよな。歩けばきゅうきゅう音のなる緑色の床に、ところどころ壁材が剥がれたボロボロの建屋。地方の役場なんてこんなもんだ。


「あ、あの。もし予定がなければ、ご飯でも行きせんかっ?」

「え? はは、そんな気を遣わなくていいよ。山梨ちゃんもたまには早く帰んな」


 気を遣ったわけでは……と、山梨ちゃんが眉を下げる。彼女は今年配属されたばかりの新人で、こんなおっさんにも優しい。同僚たちが次々と心身を壊して辞めていった今、俺の唯一の癒しだ。


 でも、それに甘えちゃいけない。山梨ちゃんは若干二十ニ歳のうら若き女性。俺はそろそろ胃袋に衰えを感じてきた三十四歳のおっさん。きちんと線引きしないと何とかハラスメントに抵触してしまう。


「……今日の方、安らかに旅立てましたか?」

「うん。痛みは薬で取ったし、自分の望むシチュエーションを叶えられて満足そうだったよ。お客様のあんな笑顔、見るのも久々だな。死に際にお礼言われたし」


 山梨ちゃんが淹れてくれたコーヒーを啜りながら話す俺に、山梨ちゃんの形のいい眉がまた下がる。これ以上、下がっちまったら床に落ちちまうんじゃねぇかなあと思いながら、紙コップを机の上に置く。


「悪いことは言わねぇから、旅立つ人間をいちいち気にかけるのはやめな。心が持たなくなるぞ」

「でも、異世界への移民を選択する前に、役場として何かできたことはなかったのかなって考えちゃうんです。それに、お客様なんて……。市民の方ですよ」

「お客様だよ。金払ってんだから」


 そう。異世界に行くのに審査はいらないが、オプションサービスを希望するなら別料金が必要だ。トラックに轢かれる痛みを取りたい場合、即死させて欲しい場合、自分が望む死に際を演出したい場合、遺族へ遺言を残したい場合――様々な理由で客は金を払う。


 国が国民相手に商売するという悪辣さに異を唱える人間はもういない。この世界の倫理はすでに破綻している。モヒカン頭で暴れ回るやつらがいないのが不思議なぐらいだ。


「それにしても、わかんねぇな。親がいて、綺麗な家もあって、十分若くて未来もあるのに、それでも異世界に逃げたい気持ちってのは」

「……外から見ると恵まれているように見えても、内ではわからないものですよ。たとえ大勢に囲まれていて、たくさんお金を持っていても、満たされない人もいます」

「そういうもんかね。それでも俺は羨ましいけどな。俺には親も学も若さもねぇし、住んでるとこもボロアパートだしよ」


 山梨ちゃんの眉が限界まで下がった。口もへの字で今にも泣き出しそうだ。


 あーやばい。余計なこと言った。どうフォローしようかと考えた時、タイミングよく終業のチャイムが鳴った。これ幸いと、そそくさと席を立つ。


「一服して帰るわ。どうせ課長は今日もサボりで戻ってこねぇから、山梨ちゃんは先に帰んな」


 作業着のポケットから煙草のケースを取り出しながら歩き出す。山梨ちゃんが、轟さん、と呼び止める声は聞こえないふりをした。



 ***



 今日も今日とて人を轢き殺す。相変わらず死にかけの客や物言わぬ客を直視するのは怖ぇが、慣れればそう悪くもない職場だ。


 遺体の処理は専門の清掃業者がやるし、遺族への報告や事後処理もそれ専門の部署がある。人が足りないから滅多に有休は取れないが、給料はほどほどにもらえ、一日のノルマさえこなしてしまえば後は何をしても自由。公務員なので余程のことがない限りクビにもならない。


 人を殺す仕事なんて……と数少ない良識人とはなかなか良好な関係は築けないものの、親に捨てられてまともな人生を送れなかった俺には過ぎた待遇だ。


「さて、一服するか」


 愛車のハニーちゃんを綺麗に洗車した後、喫煙所で煙草を燻らすのが俺の日課だ。


 禁煙が推奨されて久しいが、役場の裏手にあるおかげで咎めるものは誰もいない。いるのは山梨ちゃんがこっそり餌付けしている野良猫ぐらいだ。


 じじ、と微かに赤く光る先端から立ち上る煙は火葬場の煙とよく似ている。それを眺めながら、ぼんやりと呟く。


「……人間、配られたカードで勝負するしかねぇんだよな」


 ただ、勝負ができるのは予めカードを手にしている人間だけで、世の中にはカードがあることすら知らずに一方的に殴られるやつも、どう欲しても手に入れられずに歪んだカードを自作するやつもいる。


 今日の客もそうだった。子供の頃から馬鹿がつくほど真面目で、出会う人間全てに利用され続けて絶望し、異世界なら望むカードを手に入れられると信じて旅立っていった。


 最近、特にこういう手合いが多い。この調子で送り続けていたら、いずれ誰もいなくなるんじゃないかと思う時もある。……だが、まあ、きっと大丈夫だろう。


 電子煙草が広まっても紙巻き煙草が残り続けたように、この世界で生き続ける人間もいるはずだ。


 たとえ、俺みたいに人殺しに手を染め、染みついた死臭で鼻が麻痺していても。


 飯も、煙草も、味がしなくなったのはいつ頃だろう。この仕事を始めた頃はまだ美味しいと感じていたはずだ。今では何を食べても全く心が動かない。まるでロボットかアンドロイドになったみたいに。


「そろそろ戻るか……。山梨ちゃんに飲み物でも買っていってやろう」


 短くなった煙草をすり潰し、自販機でいちごオレを買って役場に戻る。その途端、耳をつんざく叫び声が閑散としたホールに響き渡った。


「あんたじゃ話にならないわ! 責任者を呼びなさいよ!」


 異世界移民推進課の窓口で山梨ちゃんに掴みかかっているのは、ケバケバしい服を着た中年女性だった。その脇には涙で頬を濡らした若い女性もいる。


 一瞬でクレームだとピンときた。異世界に行くのに家族の承諾はいらない。だから、本人が異世界に旅立った後に遺族が知ることも往々にしてある。


 そのために専門部署の人間が懇切丁寧に報告しに行くのだが、中にはそれに納得できずに役場に乗り込んでくる遺族もいる。今回もそのパターンのようだった。


 警備員はまだ来ていない。課長は相変わらずサボりで不在。本来ならただの下っ端の俺が出しゃばるのは悪手だが、困っている山梨ちゃんを放っておくわけにもいかない。腹を括って、中年女性を引き剥がす。


「責任者は外出しています。彼女は新人ですので、私がお話をお聞きします」


 時代が何度移り変わっても、ある程度年齢のいった男には大人しく従う人間は多い。山梨ちゃんにはあれだけ叫んでいた中年女性も、俺の姿を見るなり静かになった。


 そのまま別室に連れて行こうとしたところで、そばにいた若い女性が何かに気づいた様子で立ち止まる。どうしたんだろう。さっきよりも顔が青いような……。


「ちょっと待って……。あなた、運転手じゃないの?」


 わなわなと唇を震わせる女性の目線の先を追う。ダサいブルーの作業着の袖に飛び散る黒ずんだ血痕。しまった。ハニーちゃんを綺麗にすることに頭がいっぱいで、自分の汚れを落とし忘れていた。


「何が異世界よ! あんたのやってることはただの人殺しじゃないの! 返してよ! 拓海を返して!」


 金切り声を上げる女性に胸ぐらを掴まれる。それに触発されたのか、中年女性も再び喚き出して現場は騒然となった。俺の背後には震える山梨ちゃん。周囲には逃げ出す市民の皆様。とても収拾がつけられない。


 揺さぶられた弾みで、脇に抱えていたいちごオレのパックが床に落ちる。ぐしゃり、とトマトが潰れたような音がして、ピンク色の液体が無情に床に広がっていく。


 それからはもう大変だった。警備員に取り押さえられた女性たちは警察に引き渡され、俺はこういう時ばかり上司面する課長から事情聴取を受けることになった。


 とはいっても、何かお咎めを食らったわけじゃない。ああいうトラブルはこの仕事にはよくあることだし、役場としても貴重な運転手に辞められるのは困るから、立場も弁えずに中年女性に触れてしまった件を軽く注意されただけだ。


 形ばかりの謝罪をして会議室を出る。入り口を閉めた後の役場は薄暗い。唯一明かりがついた異世界移民推進課の窓口には、事務服を着たままの山梨ちゃんがぽつんと座っていた。今日の騒動の報告書を書いていたんだろう。


「轟さん、お疲れ様です」


 俺に気づいた山梨ちゃんが、いつも通りの優しい口調で労ってくれる。でも、その表情は暗い。それもそうだよな。新人の山梨ちゃんには強烈な体験だっただろうし。


「今日は庇ってくださってありがとうございました。私、固まっちゃって何もできなくて……」

「初めてなんだから仕方ねぇよ。俺こそ、もっと上手くやれたらよかったんだけどな。もう落ち着いた?」


 山梨ちゃんがこっくりと頷く。


「轟さんこそ大丈夫ですか? 随分長く課長と話していましたけど……」

「大丈夫大丈夫。別に怒られたわけでもねぇし。あんなのよくあることだから」


 笑いながら、山梨ちゃんが仕上げた報告書を見る。


 案の定、あの女性たちは異世界へ旅立った客の遺族だった。中年女性は母親、若い女性は恋人だったそうだ。よくあるのは妊娠した恋人から逃げるために異世界行きを選ぶ場合だが、そうじゃないようで少しだけ安心した。


「……どうして、あれだけ想ってくれる家族や恋人に何も言わずに旅立っちゃったんでしょう。何か事情があったのかもしれないけど、せめて事前に一言あれば……」

「? 何で相談しなきゃダメなんだよ。死ぬのに承諾が必要か? 未成年ならともかく、もう一端の大人なんだぞ。生きる権利があるなら、死ぬ権利だってあるはずだろ」

「え……?」


 山梨ちゃんの眉が大きく下がる。顔も青ざめ、笑みの形を保っていた唇も震え出した。何かまずいことを言っちまっただろうか。今回は特に心当たりねぇんだけどな。


「轟さんは……。轟さんは黙っていなくならないですよね……? ねえ!」


 ひどく取り乱した山梨ちゃんが、報告書を持つ俺の腕に縋り付く。


 当たり前だろ、といつもの俺なら言っていただろう。でも、必死な顔で何度も俺の腕を揺する山梨ちゃんの姿があの遺族たちみたいに見えて、どうしてだか答えられなかった。



 ***



 あまり遅くなっても物騒なので、後ろ髪を引かれた様子の山梨ちゃんを無理やり帰らせ、喫煙所で煙草を咥える。相変わらず何の味も匂いもしない。


 満点の星をたたえる夜空に向かって伸びる煙を眺めながら、今日の騒動を反芻する。


『人殺し!』

『あんたのせいで』

『あの人を返してよ!』


 この仕事をしていて何度も何度も叩きつけられた言葉だ。いつだって、右から左に聞き流してきた。なのに、どうしてこんなに耳に残っているんだろう。


 三木拓海――トマトみたいに潰れた顔で『これで自由になれる』と笑って死んでいった客。山梨ちゃんの報告書によると、三木は異世界に行く前に身の回りのものを全て処分していたらしい。唯一残したメモにはただ一言、『もう疲れた』と書いてあったそうだ。


 疲れた。それでやっと俺は三木の気持ちがわかった。そう、人生に疲れたんだ。生きるというのは、常に溺れているようなもんだ。苦しくて、辛くて、それでも泳ぎ続けなければ水面に出られない。


 中には生まれつき酸素ボンベを背負わせてもらってるやつや、ボートで運んでもらうやつもいるが、そんなのは少数派だ。大抵の人間は、泳いで、泳いで、泳ぎ疲れて死んでいく。


 俺も、山梨ちゃんも、いずれは死ぬ。冷たい(世界)の中で。


「もう泳ぎたくねぇなあ……」


 口から離した煙草から灰がこぼれ落ちた。視界の先には切れかけの電灯に照らされたハニーちゃんがいる。何十人、何百人も屠ってきたとは思えないぐらい綺麗だ。でも俺の手は? たとえ何度洗ったって、この作業着の袖に染みついた血痕みたいに消えやしない。


 ……そういや、創作ではトラックの運転手が異世界に行ったやつもあったな。ハニーちゃんに乗って電信柱に衝突すれば、俺も向こうに行けんのかな。


 誘われるようにハニーちゃんに乗り込み、エンジンをかける。体に伝わる振動と重低音。それは、まるで心臓の鼓動のように思えた。


「向こうに着いてもトラックの運転手やってたりしてな」


 その時はまたハニーちゃんと仕事するか、と嘯いてアクセルを踏み込む。電信柱まで十メートル、五メートル……。衝撃に備えて目を瞑ろうとしたその時、暗闇の中から小さな影が飛び出してきた。


「やめてください!」


 咄嗟にハンドルを切り、急ブレーキをかける。日頃念入りに整備している成果か、ハニーちゃんは俺の命令を忠実に聞いて、あわやというところで大惨事を免れた。


 シートベルトの下の心臓がバクバクしている。ブレーキにかけた足が震えている。固まった手をハンドルから何とか引き剥がして、飛び降りるようにハニーちゃんの外に出た。


「何してんだ! 危ねぇだろうが! 車の前に飛び出すなって、ガキでも知ってることだぞ!」


 我ながらガラの悪い怒声にも怯まず、山梨ちゃんは一直線に俺に向かってきて汗臭い胸に飛び込んだ。そのまま涙と鼻水だらけの顔を擦り付け、「よかった。間に合った」と何度も呟く。


「異世界に行くなんてやめてください。お願いです。ここからいなくならないで……」

「お前に関係ねぇだろ! 死ぬのは権利だってさっきも言ったじゃねぇか!」

「それでも! それでも嫌なんです! 轟さんが死ぬなんて嫌!」


 ぶんぶんと首を振って叫ぶ山梨ちゃんに、徐々に頭が冷えてくる。次に生まれたのは戸惑いだ。俺と山梨ちゃんはそこまで親しいわけでもない。それなのに、どうしてここまで嫌がるのかわからない。


「何でそんなに? 俺がいなくなっても、別に困らねぇだろ? 人手不足だって言っても、また補充されるだろうし、次に来るやつの方が仕事がやりやすいかもしれないぞ」

「轟さんがいいんです。轟さんじゃないと嫌なんです。私、私、轟さんのことが……」


 その続きは聞こえなかった。


 ひっ、ひっ、と激しくしゃくり上げるたびにぽろぽろとこぼれ落ちる涙は、大粒の真珠みたいだ。この仕事についてから……いや、物心ついてから、こんなに綺麗なものを見たことがあっただろうか?


 恐る恐る、震える頬に手を伸ばす。勇気を出して涙を拭っても、山梨ちゃんは血で汚れたりしなかった。


 人生は苦しくて辛い。また泳ぐのやめて、向こうに行きたくなる日が来るかもしれない。


 けれど、今は。今ばかりは、確かな現実が――人生がここにあった。

どれだけ辛くとも、人生は続いていく。最後までお読みいただきましてありがとうございました!


↓以下、人物まとめ


轟一成とどろきいっせい

人生に疲れたトラック運転手。本人は疲れたと思っていなかったが、遺族に詰め寄られてついにぷつんと切れた。物語終了後もトラック運転手を務めているが、精神は安定した模様。一回りも下の恋人ができて、人生もそう悪くねぇなと思い始めた。


山梨緑やまなしみどり

新人事務員。轟のことが大好き。歳の差は気にしない。母親と弟がいるが疎遠。『恵まれているように見えても内ではわからない』と言ったのは、思春期の頃に父親を異世界転送で亡くしているから。物語終了後は轟をベッタベタに甘やかしまくっている。


***


さて、ここで怖い話をひとつ。こちらから異世界に行く人はあれど、向こうから来た人はいません。次元の扉とやらも誰も見たことはありませんし、誰も漫画みたいな異世界に送るとは言っていません。つまりそういうことです。

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異世界転生の常識を壊すほどの衝撃と皮肉に満ちた傑作でした。『転生=夢の救済』という前提を逆手に取り、疲れた人々が“選んで”死に、“希望”として異世界を目指す姿は、現代社会に対する痛烈な批判にも見えます…
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