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防波堤のその先へ


 数日後。

 気持ち良いくらいに、カラッと晴れた日。

 夏の空は、どこまでも高く、青い。


 「お、来てるな」


 海の上に現れた道のような、真っ直ぐな防波堤ぼうはていをひたすら歩いた先に、そいつはいた。

 リコーダーの動画を送信してから、俺たちにメッセージのやり取りはなかったが、ここに現れたということは、そういうことだ。


 「エルーナ」

 「清鷹くん……」

  

 水着だから、いつでも海に入れる。


 「性欲せいよく

 「……」

 「あったよ。俺にも。お前が泣くほど嫌いな、男の性欲」

 「……」

 「菜穂と入れ替わった日の夜にさ。自分の身体を改めて、もう一度確認したんだ。その時、部屋にあった鏡で……多分初めて、女子のはだかを見た。ぶよっと太ってるから、スタイルとか全然よくないんだけど、その姿を見て興奮してた。ダメだと自分に言い聞かせたけど、おさえきれなくて、胸を触った」

 「……」

 「でも、それで興奮できたのは……入れ替わり三日目くらいまで。四日目には、興奮しなくなってたんだ。おかしいなと思って、目の前の鏡にいろんな姿を晒したけど、気持ちは全然高まらなかった」

 「……」

 「見慣みなれてしまったせいだと思った。その時は。きっと、他の女を見たら興奮するって」

 「……」

 「水泳部に乗り込んだ時、女子更衣室を使えって言われてさ。水泳部の女子たちが着替えてる様子が、そこで見られたんだけど……俺の気持ちは、何一つ動かなかった」

 「……」

 「今になって分かった。心の中にあった男の欲望は、つごとに、どんどん消えていってるんだ。鏡で見てた菜穂の裸も、今はもう自分の裸としか思えなくなってる」

 「……」

 「俺はいずれ、心まで山野辺菜穂になる」

  

 精神に入り込んだ異常いじょうを、身体が正常せいじょうに戻そうとしている。

 この身体にとっての正常とは、「私が菜穂であること」。


 「菜穂に近づいてるから、どんどん泳げなくなって、菜穂に近づいてるから、お菓子を食べたいという欲望が、どんどん強くなる。なりたくなくても、強制的にそうなるんだ」

 「じゃあ、私も……」

 「うん。お前はこのまま、信朋とかいう盗撮ヤローになる」

 「……!」

  

 俺の前にいる男は、一瞬だけ大きく目を見開いて、そのあとくやしそうに泣いた。


 「うぅっ……。ううぅ……」

 「逆らえないはずだ。女のお前が、男の性欲になんて」

 「あ……あの時はっ……お菓子を食べようとする、君をっ、止めたくてっ……」

 「分かってるよ。そうしてくれと頼んだのは俺だ。つらい思いをさせて悪かったな」

 「違うっ……。私がっ、自分で、やめないといけなかったの……。で、でもっ……君に抱きつくと、良くない感情が、湧いてきてっ……」

 「やわらかいからな。この身体は」

 「ご、ごめんなさいっ……本当に、ごめんなさいっ……。あんなことは、もう二度としないようにっ……」

 「それは無理だ」

 「え……!?」

 「どうしても、心は身体に従おうとするんだ。俺がお菓子を食べてしまうのと同じように……お前はいずれ、その欲に飲み込まれて、身近みぢかにいる女をおそう」

 「……!」

 

 そいつは涙をこらえながら、奥歯をギリギリと噛んで、俺をにらんだ。

 

 「しない……!」

 「する」

 「しないっ……!!」

 「する」

 「そんなこと、私が絶対にさせないっ……!!」

 「するよ。盗撮事件を起こすほど、理性りせいの働かない男の身体だ。お前じゃ止められない」

 「だ……だったら……!」

 

 こらえきれなくなった涙が、溢れる。


 「だったら……、ぐすんっ……私は、どうすればいいの……?」


 一粒ひとつぶ二粒ふたつぶ。大粒の涙が、ボロボロと。

 これじゃあ、ダメだ。エルーナには、いつも笑っていてほしい。

  

 「だから、俺がいるんだ。お前の一番近くに、これからもずっと、俺がいる……! 一人じゃどうしようもないことでも、二人ならっ!!」

 「……!!」


 びっくりして、涙が止まった。

 良かった。


 「お前だって、俺に助けを求めていいんだよ。二人で支え合おう」

 「そ……それって、どういう意味……?」

 「たとえば……女の身体を見たり触ったりしたいなら、ここにあるのが、お前の役に立つし」 

 「はあぁ……!? やっ、やだぁ……!!」

 「え?」


 しかし、また表情がゆがんだ。


 「違うっ、違うよ……。 お菓子を食べるのを止めてほしいんであって、お菓子になってほしいわけじゃない……」

 「え……。でも腕力は、男のお前の方が強いし。"男の戦略"は、今の俺にはキツいかなって」

 「そんなの分かってるよ!! でも、私が今かけてほしかったのは、そういう言葉だったの!!」 

 「じゃ、じゃあ……そうする。俺が力ずくで押さえてやるから、心配するなよ。エルーナ」

 「もう遅いよっ!! そんなこと、できないくせにっ!! もうっ、何にも分かってないぃぃ……!!」

 「あれ……? あれ? 上手くいかないぞ……?」


 涙は止んだが、俺が思ってた反応と違う。

 ビシッとカッコよく言葉が決まって、「えへへ。ありがとう、清鷹くん……」って、言われるはずだったのに。どこで、何を間違えた……?

 

 「はぁ……。なんかもう、最悪……」


 そして、ついさっきまでヒステリックにわめいてたエルーナは、一転いってんしてずいぶんと落ち着きを取り戻した。


 「気持ち、めちゃった……。清鷹くんが、ショボい発言ばっかりするから」

 「う……!」

 「でも、これが清鷹くんだから、しょうがないかぁ……。女の子としゃべるの苦手な人だから、しょうがない」

 「うるせぇ……」

 「泳ぎ以外なんにもできない水泳バカが、今はもう、ただのバカになっちゃったね。それでも続けるの? 水泳」

 「ああ。泳ぎたいから泳ぐ。それだけだ」

 「ふふっ……。私もそれくらい、フルートバカになりたかったな。でも私は、そこまで真っ直ぐにはなれない」

 「エルーナ……」

 「繊細せんさいな息使いと、指使い……。少しでもズレれば、全く違う音になってしまう。吹奏楽部から追い出されて、フルートはあきらめたけど……もしあの時、フルートに触れていたら、かつての音色がもう二度と取り戻せないという残酷ざんこくな現実に、耐えられなかったかもしれないって、今は思ってるよ」

 「お前はお前だろ。俺は水泳を続けるから、お前もフルートを続けろ、なんて言わないよ」

 「ふふっ……」


 エルーナは、やっと笑ってくれた。

 楽しく、愉快に。彼女はそれが似合う。


 「……もう取り消せないよ。あれだけ大声で、ずっと私のそばにいるって、言ったんだから」

 「望むところだ。俺はお前に、命を救われてるからな」

 「大袈裟おおげさ。私、君にそこまでのことはしてないよ」

 「何いってんだよ。自殺じさつを止めてくれただろ」

 「えっ……!?」

 

 初めて海に来た、あの日の夜。

 たしかに俺は自殺しようとしていた。


 「あ、あの時って……ただ、海に泳ぎに来ただけじゃないの?」

 「危険な夜の海だぞ。練習するつもりなら、昼に来るよ」

 「じゃあ……本当に、自殺するつもりで?」

 「海に飛び込んで、溺れそうになって、それでもまだ身体が泳ごうとしないなら……生き延びようとしないなら、そこで死んでもいいと思ってた。泳げない俺は、俺じゃないから」

 「そんな……」

 「だから、本当は海に沈んでるはずなんだけど……一つ、計算違いが起きた。誰かさんのせいでな」

 「あっ。私……?」

 「そいつは、いつまでもどこまでも付いてきて、俺にペチャクチャ話しかけてきたんだ。覚えたばかりの日本語で」

 

 エルーナは、吹奏楽部を追い出されてから俺に出会うまでの間に、必死に日本語を勉強してたんだ。

 通訳無しで、日本人と普通に会話できるように。

 

 「うん……。テレビや新聞でね。爆発事故の新聞記事を見つけたのは、新聞に書いてある文字をすべて読み取るっていう練習をしてた時だよ」

 「すげえな。そこまでの努力ができるなんて」

 「ふふっ。必死に、必死に、必死にね。フルートと同じくらい、頑張ったよ。だって、この国で生きていくには、それしかないと思ったから」

 「そのおかげで……バカ一人の命が救われたんだ。今度またもう一度溺れても、お前は俺を助けてくれるんだろ?」

 「うん。何度でも。君が何度溺れても、私は何度でも助けに行く。絶対に失いたくない、大切な人だもん」

 「そうか。じゃあ……」


 タッ、タッ、タッ。

 俺は走り始めた。正面にいる、エルーナに向かって。


 「え……!? ちょ、ちょっと待って! いきなりすぎないっ!?」

 「いくぞ! 海にべっ!!」

 「きゃあーっ!!」


 防波堤の先っちょから、俺とエルーナは、ぴょーんと跳んだ。

 そして、ドプンッ!! ドプンッ!! と、水面から高い飛沫しぶきが二つ上がった。 


 「ごぼぼ……!」

  

 「つめた……!」と言ったつもりだったが、口からはポコポコとあわが出た。


 「……」

 

 海は昼でも、水が冷たい。

 相変わらず泳げないけど、目や鼻はもう痛くない。日々の練習は、俺を海の中で目を開けられるくらいには変えてくれた。

 つまり、菜穂が成長して、新しい能力を習得しゅうとくしたんだ。俺はいずれ、身も心も菜穂になるけど、そうなったら菜穂として進んでいけばいい。何もできないゼロの状態から、新しく積み上げていけばいいんだ。

 

 これからも挑戦ちょうせんし続けたい。エルーナと一緒に。


 「ごぼーぼ……」


 「エルーナ……」と言ったけど、やっぱり口から出た言葉は、泡へと消えた。  

 沈んでいく俺を心配して、エルーナがこちらにもぐってきて来てくれたんだ。助けるのも上手くなって、かなりスムーズになってきたな。

 

 「……」 


 ほら、手を差し伸べると、しっかり握ってくれる。

 こんなに優しい奴、一生大切にするに決まってる。だから、このまま抱き寄せて、耳元で本心をはっきりと伝えても……泡になって消えていくから、れくさくならないかもしれないな。


 *


 「あっはは! あははっ! あはははっ!」

 「はぁ……はぁ……。おい、何笑ってんだよ……」

 「なんで海の中で言ったの!? もしかして、水泳部だから!? ダッッッッッサ!!」

 「あぁ!? き、聞こえてたのかっ!!?」

 「あっははは、おなかいたーい……! 普通に言えばいいのにっ! あははっ!!」

 「笑うなっ!! バカにするなっ!! こっちはマジメに……!」

 「ふふっ、ふふふっ……。まあ、そっちから先に言ったから、50点くらいはあげる。でも、100点以外はさい提出ていしゅつね。はい、今の告白はナーシ」

 「なっ……!?」

 「ほら、もうすぐ夏休みだよ? いろんな場所で、いろんなシチュエーションで、いろんな愛の言葉を、私に聞かせてね」

 

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