夏の雨
午後からは雨が降った。天気予報だと、明日も雨。
波が高くなるだろうから、しばらくは海に行けない。
ちなみに、屋内プールなんて贅沢な設備は、この高校にはない。俺が以前通ってた私立高校にはあったけど。
「……」
今は何をしているかというと……ただ、教室で窓の外を見て、雨が弱くなるタイミングを待っているだけ。とても退屈な放課後だ。
「菜穂ちゃん……。体調が良くなったら、またクッキング部で一緒に、お菓子作ろうね」
「ああ。いつもありがとう」
今日もまた、メガネをかけたそばかす顔の地味な女子が、俺に手作りのクッキーを渡しにきた。
「じゃあ、またね」
俺の体調を気づかってか、あまり話し込むことなく、そいつは去った。
しかし、教室を出る時に、ちょうど教室に入ってきた金髪の女たちに肩がぶつかったらしく、今はペコペコと頭を下げている。
「あいつ……弱そうだけど、良いやつだな。クッキング部は、ああいうやつばっかりなのかな」
言うなれば、身を寄せあって平和に暮らす、気弱な小動物たち。俺の精神が入り込む前の山野辺菜穂も、きっとその一員のアザラシだったのだ。
「そういう生き方も……あるのか」
みんな、自分が心地よく過ごせる居場所を見つけて、そこで楽しく暮らしてる。
今の俺の居場所は……少なくとも、この高校にある水泳部じゃなさそうだ。
「……」
スマホの画面を見たが、返答は届いてない。
無言の相手には、おしゃべりを続ければいい。誰かさんからそう教わったので、俺も実践しようとメッセージをいくつか送ってみたが、今のところ成果は得られていない。
「天照の……なんだっけ。なんて言ってたっけ、あいつ」
この雨が降り止んだら、もう一度、あの海で……。
「泳ぎたい」と同じくらい強く願う言葉が、今の俺にはあった。
ガコッ!!!
「……!?」
突然、教室内に響いた。
何かが机にぶつかった、大きな物音だ。
「きゃっ……!!」
「これくらいだっけ? あんたがぶつかってきたのって。うーん、もっと強かったかな」
「あ……あのっ……。ごめんなさいっ、ごめんなさいっ……」
「アハハッ、謝らなくていいよ。その代わり、やられた分だけやり返させてもらうから。復讐ってほら、スッキリするじゃん?」
さっきのそばかすメガネが、バカみたいな金髪女三人組に、くだらない因縁をつけられて絡まれている。どうやら、ぶつかった相手の機嫌が悪かったらしい。
「ん~~~~。無視は……できないか」
俺は別に正義感の男じゃない。とにかく水泳が最優先なので、他の面倒くさいこと(勉強とか)には、あんまり関わりたくないタイプだ。
でも、あいつは……菜穂の友達だ。
「ん……?」
スタスタと間に入って、俺は金髪女たちと対峙した。
「メガネはちゃんと謝ったぞ。もうそれくらいにしとけ」
「え? 誰?」
「誰でもいいだろ。ほら、早くどっか行けよ」
「あっ……! ああっ! こいつ、アレじゃない? この前、部活を追い出されたっていう……ウワサのぶーちゃん」
「ぶっ!? ぶぅー!!?」
ぶーちゃん。おそらくモチーフは豚。太ってるから豚。
俺は「いや、菜穂は豚じゃなくてアザラシだろっ!」と思った。
「ぶーちゃんって呼ばれてるの、知らないんだ。へぇ~」
「興味ねーよ。陰でいくらでも好きに言ってろ」
「ねー、なんで追い出されたの? 吹奏楽部で、何やらかしたの?」
「吹奏楽部……?? 水泳部じゃなくて、か?」
「えっ? あ……吹奏楽部を追い出されたのは、『信朋くん』とかいう男子だっけ。そっちの事件とゴチャゴチャになってるわ、あたし」
「え……!?」
名前が「信朋」という男子。俺と同じような事件を起こした。
そして……追い出されたのは、吹奏楽部。
「まさか……」
エルーナ。
「……!」
ゴン、ゴン、ゴンと。とりあえず、チョップを三発。
さっきから嫌なことばっかり言ってくる金髪女たちに、喰らわせてやった。
「痛った!? いきなり何っ!?」
「もうどっか行ってくれ。俺、ちょっと忙しくなったから。ほらほら、これでもう終わり。終わり終わり終わりーっ!!」
「は……? な、何言ってんの……?」
「終わり終わり終わり終わり終わり~~~~っ!!!」
「え……えぇ……?」
ケンカとかしてる場合じゃないので、とにかく勢いで押した。
金髪女たちは、急に大声を出し始めた俺にドン引きして、「こいつ、ヤバいよ……」と呟きながら教室を出ていった。
「……よし、次は」
「ひぃっ!?」
「お前だ、メガネ。お前に案内してもらおう」
「な、菜穂ちゃん? 目が、怖い……」
「俺を連れてけ。吹奏楽部について詳しいやつのところへ」
*
そばかすメガネに連れられて、俺は一年生の他のクラスへと赴いた。
そして、案内通りに進むと、俺の目の前には、おかっぱ頭で背の小さい女が現れた。
「え? 私に、何か用……?」
声も小さい。耳を澄ましていないと、聞き逃してしまいそうになる。
おそらくこいつも、クッキング部小動物チームの仲間だ。
「お前、吹奏楽部のことについて、いろいろ知ってるらしいな」
「う、うん……。一応、双子の妹が、吹奏楽部だから」
「じゃあ教えてくれ。『信朋くん』ってやつのことについて」
「ウワサ程度で……いいなら……、は、話せるけど……」
「それでいい。頼む」
そして小さいおかっぱは、吹奏楽部で起きた事件について、静かに語り始めた。
「まず……病院で検査を受けるために学校を休んだ、信朋くんって子がいてね。数日後、特に異常がなかったらしくて学校に戻ってきたの」
赤い光によって、集団入れ替わりが起きた後。
エルーナは、確かに病院で検査を受けたと言っていた。そして、異常がないフリをして強制入院を上手く回避した、とも言っていた。
おそらくはその後。
エルーナが俺と出会うまでの話だ。
「でも、行動はちょっとおかしくて……今まで部活に入ってなかったその子が、いきなり吹奏楽部が練習してる音楽室に現れて、こう言ったらしいの。『フルート、させて……ください……』って」
フルート。フルート……?
いや、楽器なのは知ってるけど。
いきなり出てきたフルートという単語に、俺はちょっとびっくりした。
「たまたま、そこには顧問の先生がいて、それを快諾した。信朋くんはまず仮入部という形で、見学を許されることになったの。信朋くんはそれでも嬉しかったらしくて、その日から毎日吹奏楽部に来た。そして、私の妹も含めた何人かの部員が、彼と仲良くなろうとして声をかけた……んだけど」
けど?
「声をかけると、様子がおかしかったんだって。『あ……ぅ……ちがう……です……』とか『え……はぃです……ね』とか、何を質問しても、上手く答えられないの。緊張してる……というより、まるで言葉を知らないみたいな」
エルーナはイギリス人ハーフ……じゃなくて、ミックス。
でも、日本語はペラペラと話せていた。むしろおしゃべりなくらいに。
「不思議に思って、吹奏楽部の先輩たちが信朋くんの過去の経歴を調べたら、その……えっと……」
「ん? どうした?」
「い、言っていいのかな……?」
「聞きたい。話してくれ」
「う、うん……。信朋くん、中学校時代に……と、盗撮で、停学になってるらしくて……」
「えっ……!? と、盗撮っ!?」
聞けば、女子更衣室内に侵入してロッカーにカメラを設置しているのがバレたらしい。
会ったこともない男だけど、俺はだいぶ信朋くんのことが嫌いになった。
「で、そうなると、病院で検査を受けたことにも、疑いの目が向けられて……。何かそういう……盗撮がやめられない精神病とか……」
「えっ!? 違うぞっ! 病院の検査は……関係ないんだっ! そんなことまで疑うのはやめろよっ!」
「で、でも、吹奏楽部の先輩たちは、信朋くんを完全に盗撮犯だと認定しちゃったの……! 本人に問い詰めても、『あ……ぅ……ち、ちがう……』としか言わないからっ」
「濡れ衣だ……! あいつが、そんなことするわけないのにっ!」
「そして、信朋くんはボロボロと泣き始めて……パニックになったのか、同じ言葉を何度も繰り返すことしかできなくなっちゃったの」
「同じ言葉……?」
「たしか、『私の名前は、豊沢エルーナです』って」
「豊沢……エルーナ……?」
「うん……。泣きながら、何度もそう言ってたって。怖いくらいに、何度も、何度も」
「それが、あいつの本当の……」
「やっぱりおかしな人だった、って。吹奏楽部の先輩たちはそう結論づけて、彼を追い出した。そして信朋くんも、もう吹奏楽部には現れなくなったみたい」
「そうか……。よく分かった。ありがとう」
メガネとおかっぱに別れを告げて、俺は元々いた自分の教室へと戻った。
そして、スマホを取り出すと、気になったワードを検索欄に入れた。
【豊沢エルーナ フルート】
……まあ、ヒットする確証はない。試してみるだけだ。
もしもエルーナが、俺と同じくらい実績のあるフルート奏者だったら、ネットの海のどこかにある小さな記事で、取り上げられてるかもしれないが。
「うえぇっ!? 世界3位ぃっ!?」
エルーナ・トヨサワ。英国の若き才女が、もう一つの故郷日本で奏でる音。
一発で、ドデカいインタビュー記事がバーンと出てきた。
「あ、あいつ……そんなにすごかったのか」
俺は国内6位。あいつは世界3位。
いや、俺はアスリートだし、あいつは芸術方面の人だし、競技が全く違うから。単純な比較はできないけど……。できないけど……。
「うるせーな……! 別に負けたわけじゃねーよ!!」
世界3位の前で、国内6位を自慢したことを恥ずかしく思いながら、俺は去年書かれたインタビュー記事を読んだ。
「えーっと。豊沢エルーナさん、高校一年生……。来日したのは高校生になってからなので、まだ日本語はほとんど話せない……。だから、いつも通訳の人間がそばにいる、と……」
通訳を雇えるってことは、やっぱり金持ちお嬢様なのかな。
「『ワールドコンクールで3位に選ばれたことは、とても嬉しく思います』……は、どうでもいいや。ここは無視して……『日本の好きな食べ物は、アサリのお味噌汁です。赤味噌と白味噌の二種類がありますが、私はどちらも好きです』……か」
人違いじゃない。俺の知ってるエルーナだ。
「あ……写真もあるのか」
最後に、俺は豊沢エルーナの写真を見つけた。
彼女が、誰からもエルーナと呼ばれていたころの、本当の姿……。
*
ピーヒョロ、ピーヒョロ、ピーヒョロロ~♪
おかっぱに頼んで、音楽室から楽器を盗……持ってきてもらった。
「いや、俺はフルートを持ってきてくれって頼んだよな? なんでリコーダーなんだよ」
「こ、これしか無理だよぉ……。妹のフリをして、楽器を盗むなんてっ」
「すぐ返すから大丈夫だ。よーし、縦笛なんか横にして吹いてやる。動画の撮影を頼めるか?」
「いいけど……。菜穂ちゃん、もしかしてリコーダーあんまり得意じゃない……?」
「ああ、下手だぜ。でも、やりたいからやるんだ。俺はいつだってそう生きてきた」
楽しく、愉快に。そうすれば、岩の扉も開くらしい。
ピーヒョロ、ピーヒョロ、ピーヒョロロ~♪