溺れてしまう
練習の日々が始まってから、今日で一週間が経った。
「あー……。泳げねー……」
ファミレスのテーブルにほっぺたを載せ、俺は落ち込んでいた。
「うーん。何度やっても、水の中でジタバタしてるだけだね」
「イメージでは、泳げてるんだけどな。自身の浮力、手足の長さ、肺活量と体力……。どれもなんだか計算が合わなくて、思った以上に前に進めてないんだよな」
「へぇ……頭でしっかり分析できてるんだ。さすが元競泳選手」
「全国6位のな。ナメるなよ俺を」
「ふふっ。でも、まだ一週間だよ? 焦らないで練習を続ければ、コツを掴めるようになるって」
「そのハズなんだけどなぁ……」
ちょうどテーブルに運ばれてきたプリンアラモードを受け取り、俺はスプーンなどが入った食器ケースに手を伸ばした。
すると、エルーナはスッと手のひらを差し出し、俺の手の甲に重ねた。
「待って」
「え……な、なんだよ」
「そのデザート、5個目だよ。大丈夫?」
「あっ……!!」
ハッとして、俺は食器ケースから手を離した。
また、無意識のうちにやってしまった。
「本当にお菓子が好きなんだね。菜穂ちゃんは」
「あ、ああ……。この身体は、な……」
エルーナは少し目を細めて、わざと冷たい口調で言った。
俺は目を合わせることができず、今の自分のふくよかな女体を見降ろしていた。
「心で、止められないの? 身体の衝動は」
「やってるけど、難しいんだよ。こいつ、お菓子にはすぐ手が伸びるから」
「でも、デザートは注文しなければ食べられないよね。君も少しはそれを許してるってこと?」
「べ、別にっ、許してないぞっ! ただ、いつもこのファミレスに来るのは、練習のあとだから、疲労とか空腹とかで、フラフラで……! ガッツリご飯を食べたりはしないから、その分デザートを多めに食べても、調整はできてるっていうか……!」
「そうやって、自分に言い訳してたんだろうね。菜穂ちゃんも」
「なっ……!?」
今のエルーナの言葉が、どうやら刺さったらしい。
俺の心臓は、大きくドクンと鳴った。
「い、いや……違う。俺は違う……」
「このままだと、ずっとその体型のままだよ。多分、泳げない原因のうちの一つに、その運動に不向きな身体も関わってると思う」
「分かってる。だから、もう言わなくても……」
「そういえば、昨日も食べてたね。その前も、その前も、私とファミレスに来た時は、いつも同じくらいの量」
「違う、やめろっ……。や、やめ……て……」
焦りは、混乱を生む。
まるで、自分が責められているみたいで、じっとりと全身を包む嫌な汗と、激しい動悸が止まらない。
「計画していかないとだね。これからは、ダイエッ……」
「やめてっ!!!!」
ファミレスの店内に、少女の悲鳴混じりの大きな声が響いた。
「!!」
声を出したのは……俺。俺の口からだ。この身体になってからの、一番大きな声が、俺の意思を無視して勝手に飛び出した。
やっと呼吸ができるようになって、今度は俺が自分の意志で、のどの奥に溜まっていた息を吐き出した。
「はぁっ……はぁっ……」
「清鷹……くん……?」
顔を見合わせて、目を丸くしていた。お互いに。
今、ここで声を荒げたのは、確実に……菜穂だ。
「あっ……。え、エルーナ……? 今の、って……」
「う、うん……。とりあえず、涙を拭いて?」
涙。言われるまでは、自分でも気づいていなかった。
甘い物が大好きな、山野辺菜穂。お菓子が関係すると、俺の意思を超えて動こうとする。ただ……彼女も、それなりに苦悩はしていたハズだ。体重計、ダイエットの本、体脂肪を分解するサプリメント……全部、菜穂として生活する中で、俺が見つけたものだ。今、俺の目から溢れ出した涙は、きっと彼女が今まで流してきた涙と、同じものだと思う。
「いや、でも……。そうだとしても、だ。エルーナ」
「うん。清鷹くんだもんね。今、その身体を使っているのは」
「まず謝る。ごめんな。お前の言ってることは正しいよ」
「こっちこそ、ごめんね。君を苦しめるようなこと言って」
「よし、じゃあ……」
俺は、俺だ。山野辺菜穂と身体は同じでも、その中にある心が違う。
どうしたいかは、俺が決める。
「俺は、お菓子の食べ過ぎをやめて、水泳ができる身体に作り変えたい。だから手伝ってくれ、エルーナ」
*
「ただいま。……あ。今日は友だちが泊まるから」
「あっ、あのっ! お、お邪魔……しますっ……」
急遽、俺はエルーナを自宅(山野辺菜穂の家)へと連れて帰ってきた。
菜穂の両親は、「男友達をいきなり連れてきて、自分の部屋に泊めると言い出した娘」を見て、複雑そうな顔をしていたが、何か文句をもらう前に、俺はさっさとエルーナを自室の中へと招いた。
「一応、ここが……今の俺の部屋」
「わあぁ……! かわいいっ! お菓子の部屋っ!」
大きなドーナツ型のクッション。
黄色く光るプリンのようなランプシェード。
ティラミスにそっくりなティッシュ箱。
ベッドの上の布団は、白地にカラースプレーのような柄が描かれており、モチーフがソフトクリームだと分かる。
そして窓には、ショートケーキやモンブランなど、メルヘンチックなケーキ模様のカーテンが掛かっている。
「俺も最初はびっくりしたけどな。まぁ……慣れたらなんとも思わなくなるよ」
「いや、もっと感動した方がいいよっ!? きっと、毎日の生活を楽しくするために、一つ一つのデザインにこだわって、好きなものをたくさん集めたんだと思うから……! 女の子として、こういう努力は尊敬するもんっ」
「でも、この部屋テレビないし。ゲームもないし、少年マンガも置いてないから、すっげぇ退屈だぞ」
「バカっ! そんなのいらないよっ!」
エルーナはテンションがブチ上がったらしく、ベッドの縁にお尻でワンバウンドしながら腰を降ろし、そばにあったドーナツクッションを手に取ると、ぎゅーーっと抱き締めて幸せそうな顔をしていた。
「うふふ〜。うふふふ〜」
「なんだその笑い方」
「あ……でも、すっごい誘惑の部屋だね。ここ。お菓子を食べちゃいけない人にとっては」
「まあ、お菓子の形してるだけで、食べられないなら別にいいんだ。無意識に口に入れることもないしな」
「うん? ということは?」
「ああ。これを見てくれ……」
俺は菜穂のスクールバッグを開け、逆さまにひっくり返した。すると、そこから透明な袋でラッピングされたクッキーやチョコレートなどのお菓子が、ドサドサと落ちてきた。
「わ。清鷹くん、どうしたのこれ?」
「最近、クッキング部の女子たちが俺のところにやってきて、お菓子を渡してくるようになったんだ。『菜穂ちゃん、早く元気になってね』っていうメッセージも添えてな」
「そっか……。事情を知らない人たちからすれば、菜穂ちゃんはしばらく学校を休んで、そのあと部活に来なくなったわけだから、心配するよね……」
「これだけじゃなくて、菜穂の両親からも……ほら、勉強机の上に」
「あっ! ここにもお菓子っ!」
クッキーの丸い缶。キャラメルコーンが入った袋。今日はこの二つが、「かわいい一人娘、菜穂ちゃんのおやつ」。
幼い頃から、たくさんの愛情とお菓子を与えられて、ここまで育ったんだろう。これがもう日常になっているらしく、おやつを断ろうとすると、逆に体調不良を疑われて、病院に連れて行かれそうになった。
「なるほど……。これは全部合わせると、大変な量になるかもっ」
「もったいないから、少しは食べるんだけど……それがやめられなくなって、いつのまにか全部食べてしまってるんだ。それで、後悔する」
「じゃあ、もし食べすぎてたら、私が止めてあげるね。はい、もうおしまいっ! って感じで」
「それは素直にありがたいな。でも……目が覚めてる時ならまだしも、『寝坊助お菓子』の時は、言葉だけじゃ止まらないかもしれない」
「うん? 何それ」
『寝坊助お菓子』。俺が名前を付けた。菜穂のクセの中で、一番厄介なのがこれだ。
一日の中で、どうしても意識が薄くなるタイミングがある。それは、熟睡が終わった後だ。まだ頭がボーっとして、起きてるか寝てるか中途半端な状態の時にも、菜穂の欲求は働く。
「ようするに、寝ボケてお菓子を食べてるんだよ」
「え……なんか、面白そう。ちょっと見てみたいかも」
「いやぁ、あんまり笑えないと思うぜ。行動がめちゃくちゃだから……この前なんか、お菓子の袋に頭突っ込んでそのまま寝てたし」
「えっ!? ヤバっ!? 死ぬじゃんそれっ!」
食べてる最中に二度寝してしまうこともあるから、完全に目が覚めた時にどうなってるかは俺にも分からない。
「だから、まずはこれをなんとかしようと思うんだ」
「じゃ、じゃあ……寝る前に、お菓子を全部隠したり、捨てたりするっていうのは?」
「隠すのはムダだった。俺が隠しても、菜穂が勝手に見つけてしまう。捨てるのは……心が痛むから、あまりやりたくない」
「それなら、私が代わりに全部食べる! にしても、この量はちょっと多すぎるね……。うーん、どうすればいいのかなぁ?」
「……となると、やっぱりここは"男の戦略"で行くしかないな」
「うん? "男の戦略"? なにそれ」
「ようするに、力ずくだ」
俺は腕まくりをして、エルーナに俺の力こぶ……はないので、ぷにぷにの二の腕を見せつけた。
*
「よーし、電気消すぞ。おやすみー」
パジャマに着替え、布団も敷いたので、パチンと消灯。
部屋主の俺は床で、客人のエルーナはベッドの上。
「『男の戦略』って……結局、腕力で止めろってこと?」
「そうだ。俺がお菓子を食べそうになったら、バシンとひっぱたいて、目を覚まさせてくれ」
「野蛮。っていうか、私あんまり暴力とか得意じゃないんだけど」
「じゃあ、押さえつけて動きを止めるだけでいい。力はお前の方が強いから、難しくないはずだ」
「理屈では分かるけど、スマートじゃない。……あのね、女の子って繊細だから、男子のそういう雑で荒々しいところが、すごく嫌なんだよ。清鷹くんって、あんまりモテなかったでしょ」
「うるせー。今は俺が女で、お前が男じゃねぇかよ……」
ふわあぁ……と、大きなあくびが出た。
練習で疲れが溜まっているので、俺はいつも布団に入るとすぐ眠ってしまう。
「ねぇ、清鷹くん。今まで、好きになった女の子は、どういう子だった……?」
「ごめん、今かなり眠い……。頭が、回らん……」
「あっ……こっちこそ、ごめん。そういう空気じゃなかったね……」
「それじゃあ、悪いけど……俺より早起き……してもらうぞ……。そして、俺を……しっかりと……見ててくれ……。お菓子……食べない……ように……」
「うん、分かった。おやすみ」
そして俺の意識は、どんどん夢の中へと吸い込まれていった。
そのあとも、エルーナが何か少ししゃべってたような気がするが、記憶に残っていない……。
*
「ん?」
海が見える。少し遠くに。
気付けば俺は、真っ白に凍てついた氷の世界にいた。
固くて平坦な氷の床の上に、俺はごろんと寝そべっている。
「なんだここ……!? 北極!?」
口から出た声は女のもの。さらに、長い髪が頬をくすぐる。
つまり、この氷の世界でも、俺は菜穂になっていた。
「あ……夢だな、これ。それにしても、夢の中でもこの姿なんて……ん!?」
立てない。胴体から下の感覚が、いつもと違う。
恐る恐る身体を見降ろして見ると……なんと、プリーツスカートの下から先は、尾ヒレのある別の生き物の半身になっていた。
「うわあっ!? に、人魚だっ!?」
足を動かそうとすると、代わりに尾ヒレがバタバタと動いた。
最初は人魚になったと思ったが、よく見ると少し違う。そこにあるのは、魚のようなヒレやウロコじゃない。乳牛みたいに、白い肌に黒い斑点があって、ぶよぶよとした脂肪がついてて……水族館なんかで、見たことあるような。
「あ……もしかしてこれ、アザラシ?」
予感は的中。
足だけじゃなく、手もアザラシのヒレになっていた。
「げっ……!! なんだよこの変な夢っ!!」
前ヒレは、うちわみたいにパタパタとしか動かない。
手足の形が変わったので、フンッと踏ん張っても、起き上がれない。アザラシとはこういう生物だと、教えられているかのようだった。
「でも、アザラシなら……泳ぎが上手いんじゃないか?」
今の自分が、泳げるかどうかを試したい。アスリートとしての切り替えの早さで、俺は視界の奥にある海を目指すことにした。
アザラシがどうやって歩くかは知らないので、横にゴロゴロと転がって進む。しばらくそうしていると、何か自分よりも小さいものに、ボスッとぶつかった。
「痛てっ。なんだ……?」
身体をそちらに向けると、ちょうど目が合った。
白くて、フワフワで、丸い。マスコット的な愛嬌を持つ、小さな生き物。
「あっ! アザラシの……赤ちゃん……?」
動物番組やSNSなんかでたびたび取り上げられる、のんびりとした癒やしの小動物。それが今俺の目の前で、相変わらずのんびりとしていた。
「う……。なんだ、この変な気持ち……」
その時、今まで感じたことのない感情が、身体の奥底から湧き上がるのを感じた。
一言で言うなら……かわいい。女子を見て男子が思う「かわいい」とはまた別の、自分よりか弱い存在に対して、愛おしくて守ってあげたいと思うような、そういう「かわいい」。
「くそっ……。かわいい、な……」
前ヒレでパンパンと叩くと、向こうも小さな前ヒレでパンパンと叩き返してくる。
抱き寄せたくなって身体を寄せると、向こうも小さな身体をグイグイと寄せてくる。
そういった仕草の一つ一つが、菜穂の身体の中にある本能的な何かを、強烈に刺激した。
「おいで……。ほら、こっち」
自分でもびっくりするような、優しい女性の声が、口から出た。
俺の言葉が分かったのか、アザラシの赤ちゃんもモゾモゾと動き出し、より一層甘えようとしてきた。
「え……」
モゾモゾ、モゾモゾと。少しずつ。
ふわふわな毛玉のような赤ちゃんは、俺の襟元を入り口にして、服の中に侵入してきた。
「ま、まさか、こいつ……!」
何かを探している。俺の服の中で、クンクンと鼻をしきりに動かして。
本当のママならきっと、お腹が空いた赤ちゃんの衝動も、すんなり受け入れたのかもしれない。
「違う……! 俺は違うんだっ! お前のママじゃないっ! おいっ、早く出ろっ!!」
追い出そうにも、今の俺にはパタパタと動くだけのヒレしかない。
抵抗は全くできず、相手の思うがままに身体を許すしかなかった。
「や、やめっ……」
そして、ひやっと冷たい濡れたものが、俺の素肌に触れた。
*
「……っ!?」
バチンと、完全に目が覚めた。
カーテンから漏れる光が明るい、ここは山野辺菜穂の部屋。北極からお菓子の部屋に、やっと帰ってこられたのだ。
「はぁ……はぁ……」
汗をだらだらとかいている。心臓は痛いくらいにドキドキしている。起き上がることはまだできない。
少し痺れた腕を、肩に力を入れて持ち上げると、前ヒレではなく人間の手のひらを見つけることができたので、俺はひとまず安堵した。
「変な夢……だった……。ん?」
モゾモゾ、モゾモゾと。何かが動いている。
悪夢はもう終わったはずなのに。
「え!?」
俺は思わず、自分の身体を見降ろした。
するとそこには……赤ちゃんアザラシとは違う、黒髪の頭があった。俺はパジャマの前ボタンをしっかり閉めて寝たはずなのに、いつのまにか大きくはだけていて、露出された胸の谷間に収まるかのように、その頭が埋まっている。
「はぁっ……はぁっ……!」
熱くて荒い吐息が、胸をくすぐる。
「エルーナ……?」
「はっ……」
上から聞こえる俺の声に気付き、そいつはバッと顔を上げた。
「清……鷹……くん……」
顔が赤い。ほっぺたまで真っ赤だ。
そして、俺と同じくらい、多量の汗を流している。まだ呼吸は荒く、半開きの口からはモヤのような息が漏れている。
表情は、喫驚と絶望。できれば目を覚まさないでほしかったと、言いたげな顔。
「お前、何やって……」
「あっ……あ……あぁ……」
動揺しすぎて、まともな言葉を話せていない。今まで見たことのないエルーナだ。
寝ている俺に覆い被さったまま、何もできないでいる。
「……!」
何を思ったのか、エルーナは少しだけ身体を押し付けてきた。
顔色は変わらないので、彼女の意思じゃないことは分かる。何かに突き動かされて、エルーナはこんなことをやらされているのだ。おそらくその正体は……「満足するまでやらせろ」と、収まりがつけられなくなった、男の欲望。
「ふーっ……ふーっ……」
「エルーナ……」
瞳から零れ、頬を伝った。
「ご……ごめんなさっ、いっ……」
やっと自我を取り戻したのか、エルーナは俺に重ねていた身体を離した。
しかし、落ち着いて話すような余裕はないらしい。「あれだけ偉そうなこと言ったくせに、私は自分の欲求を全く制御できませんでした」と、恥じる気持ちが、顔に表れている。俺はそれを責める気はないのに、エルーナは自責の念に耐えられない様子だった。
エルーナはそばにあった自分のバッグを掴むと、そのまま立ち上がって、すぐに部屋を出ようとした。
「ま、待てよっ! エルーナっ!」
声だけの制止。そんなものに力はない。
俺をその場に置き去りにして、エルーナは部屋を出ていった。