夜の海に飛び込んで
俺の後ろを、謎の男子生徒がついてくる。
太くてボサボサの眉と、団子みたいにぷくっと丸い鼻が特徴的な、気弱そうな男子だ。身体は男子高校生にしては小さく、筋肉がついているわけでもない。
見た目だけでいえば、あらゆる点がかつての俺とは真逆。だからと言って、別に見た目だけで人を嫌いになったりはしないが、今までこういうタイプとは接点を持たなかった。
「え!? 待って!! どこに行くの!?」
「……」
今は誰かと話す気分じゃない。話したいこともない。
とりあえず無視して電車に乗ったら、そいつも同じ方向の電車に乗ってきた。
「ねぇ、さっきから私のことずっと無視してるけど」
「……」
「ちょっとだけ、話をしようよ。ねっ? きっと同じ境遇の人だからさ」
「……」
境遇。そう言われたら、だいたい分かる。
ただ、傷の舐め合いなんかをする気はない。俺は気持ちの切り替えが早いのだ。これは、スポーツをするうえで必須とも言える資質だ。
「もしかして、ウザいと思ってる? 『俺に付きまとうなー』とか、思ってる?」
「……思ってる」
「あ! 今しゃべった! やっぱりしゃべるじゃん! そのままもっとしゃべって!」
「……」
「あ……口が閉じちゃった。ハマグリみたいに。そうそうハマグリといえば、蜃気楼っていうのは昔……」
ちょっと待て。なんなんだ、こいつは。
「それからアサリなんだけどね、お味噌汁に入れるとすごくおいしくて……あ、お味噌汁といえば、赤味噌と白味噌のどちらを使うかって話でね」
「……おい。しゃべるな」
「だって、そっちがしゃべらないから」
「俺が黙ってると、お前はずっとしゃべり続けるのか?」
「うーん……大変だけど、がんばってみるよ。天照大神の岩戸開きみたいに。楽しく、愉快にっ」
「……バカかお前」
「上半身裸で水泳部に参加した人には、言われたくありませーん」
「……!」
少なくとも、傷の舐め合いをする気はないらしい。
でも、別の意味でしゃべりたくはなくなった。
「はぁ……もう降りる」
「じゃあ、私も降りるっ」
俺たちは、「偶然にも」同じ駅で降りた。
ここは海が見える駅……のはずだが、夜なので波の音しか聞こえない。人気のない夜の海は、想像していた以上に不気味だった。
「もしかして、海に来たかったの?」
その通り。
そしてここに来たからには、やることは一つだ。
「……!」
まず、海岸を目指して走った。全力で。
ついでに、ウザいおしゃべり男を振り切ってやるつもりだったが、そいつも目的地までしっかりついて来やがった。
「はぁっ……はぁっ……!」
「ふぅ……。無理だよ、その身体で走って逃げようなんて。それで、ここで何するの?」
「チッ……!」
「きゃっ!? え、何……? 服ぅっ!?」
バサッと。全部脱いだ。
そして、脱いだブラウスもスカートもリボンタイもパンツもブラジャーもハイソックスも、全部まとめて、おしゃべり男の顔面に投げつけてやった。
「よし……行くぞっ!」
すうぅぅ……と、大きく息を吸って、止めて。
ドプンッ。
「わっ! まさか、飛び込んだのっ!?」
夜の海は、水が冷たい。
塩水のせいで、目や鼻が痛い。
でも、岸から遠くへ、泳がないと。1mでも、前へ進まないと。少しでも多くの水を掻いて、昨日までの自分を超えないと。
泳げない俺なんて、俺じゃない。
*
「ゲホッ、ゲホゲホッ!! ゴプッ……」
「はぁ、はぁ……大丈夫? やっぱり、その身体だと泳げないんだね」
塩水をたくさん飲んだ。鼻がツーンとする。
準備体操もろくにしなかったので、手足にビキビキと痛むほどの異様な疲れを感じる。思いつきで動くと、やっぱり期待した結果にはならないな。
俺はおしゃべり男に助けられて浜辺へと生還し、アザラシのように横たわった。
「ふふっ。アシカみたい……」
「はぁ、はぁ……セイウチ……かもな」
「トド……とか? オットセイかも」
「うるせえ……。ゲホゲホッ! 黙ってろ」
必要以上に、お腹や太ももに脂肪がついてしまっている。身体の線が丸くて、ぽっちゃりした……女子。
それが、今の俺だ。
「山野辺菜穂」
「……」
「でしょ? 君の……今の名前」
「……」
「菜穂ちゃんはたしか、クッキング部の一年生。お菓子作りが得意な、大人しくて優しい女の子。そんな子が、ある日とち狂って、水泳バカになった」
「狂ってねーよ……。俺は、俺だ……」
「じゃあ、君の本当の名前は……」
頭が、やけに重い。長い髪が濡れたせいだ。
でも、俺がこんなに髪を伸ばしたわけじゃない。
山野辺菜穂が……元々この身体の持ち主だった女子が、長い髪だったんだ。
「井津……清鷹……。高校二年生で、水泳部の男子だった。あの日が来るまでは」
あの日。
赤い光を見てしまった日。
朝の4時12分に起きて、カーテンを開けたら、その光はいきなり俺の目に飛び込んできた。
「そして気がついたら、知らない女の部屋にいて……この姿になってた」
「うん。私も同じ」
「つまり、あの日……赤い光を見た人たちの心と身体が、ランダムに入れ替わったってことか」
「それで間違いないと思う」
そう言うと、おしゃべり男は小さな新聞記事を挟んだクリアファイルを取り出した。
「『風城山第八研究所、謎の大爆発』。おそらく、この爆発事故のせいで、一瞬だけ赤い光が外に漏れた。そして、その光を目撃した人だけが、無差別な精神の入れ替わりに巻き込まれた」
「記事になったのは、事故のことだけか……。俺たちみたいな入れ替わり被害者については、全く書かれてないな」
「うん。被害者が少ないみたいだからね。世間的には、この事件の裏の出来事なんか、誰も知らない」
「そうか……まあ、説明しても信じてもらえないだろうな」
俺は、突然この姿になった。だから、また突然元の姿に戻れるかもしれない。
現実逃避のようにそう思って、今まで積極的に元に戻る方法を考えなかったが……希望がかなり薄まったように感じる。
「清鷹くん。入れ替わった直後に、病院へは行った?」
「ああ、無理やり連れていかれそうになったよ。『うちの娘が急におかしくなった』って、山野辺菜穂の両親にな。でも、俺はまず水泳ができるか確かめたかったから、それを拒否して大暴れした」
「うわっ、水泳バカ」
「うるせーな。それで、警察まで来る事態になって……とりあえず、気持ちが落ち着くまでしばらく学校を休ませようってことになったんだ。そして、『俺は井津清鷹だ!』とか言って喚かずに、山野辺菜穂らしく普通の女子高生として生活できるなら、病院には行かなくていいことになった」
「まあ、それは正解かな。私はパニックになって大騒ぎしたから、近所の病院まで連れて行かれて、検査を受けさせられたよ。そしてその後、『特別設置病棟』ってところに案内されて……強制入院の寸前まで行った」
「特別設置病棟?」
「そこにはね、私たちと同じ……入れ替わりの被害者たちが、何人も閉じ込められていた。ようするに、爆発事故の後に『突然頭がおかしくなった人たち』を、永久に封印しておくために作った施設ってわけ」
「そうか……。誰かが、あの事故の真相を、隠そうとしてるんだな」
「私も身の危険を感じたから、すぐに治ったふりをして、なんとか強制入院を回避したの。そして、なるべく騒ぎを起こさないようにして……今ここで、知らない男の子の身体で生きてるって感じ」
そいつは、無理に笑顔を作って笑った。
結局どうしようもない、というのが俺たちの現状だ。入れ替わってしまった人たちを全員集めて、もう一度あの赤い光を見れば、元の身体に戻れるかもしれないが……一体どれほどの時間と労力がかかるだろう。
「……お前、名前は?」
「身体の方は、信朋。心の方は……エルーナ」
「えぇっ!? お前っ、中身、外国人なのかっ!?」
「半分ね。半分イギリスで、もう半分は日本人」
「つまり、ハーフの女か。なんだびっくりした」
「ハーフじゃなくて、ミ・ッ・ク・ス! 今はもう……純和風の人になっちゃったけど」
「じゃあ、エルーナだな。お前は」
「ふふっ……嬉しい。その名前で呼んでくれるんだね」
清鷹とエルーナ。
俺たち二人の、本当の名前だ。
「どうするんだよ、エルーナ。これから」
「正直、あんまり考えてなくて……。とりあえず、同じ境遇の人を見かけたら、どんどん友達になって、励まし合えればいいかなって」
「なんだよそれ……。ショボいな」
「ショボ!? 私のやってること、ショボいのっ!?」
もちろん、全然ショボくない。エルーナのやってることで、救われる人は必ずいる。
でも俺は、そういうお友達作りなんかには、興味ないってだけ。
「そんなにヒマなら、俺を手伝えよ。エルーナ」
「えっ……? 清鷹くんを?」
「ああ。俺は、水泳がしたい。もう一度、泳げるようになりたいんだ」




