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2-3安是男

 あばらやの前に並べられた桶を蹴倒し、薄っぺらな戸板に唾を吐き捨てる。

 川慈(かわじ)は苛立ちを隠さぬ連れを咎めはしなかった。

 寄り合いだ付き合いだのと言い訳をして、その証拠として二人の供を連れ、なんとか都合をつけてやってきた里唯一の娯楽に「今日は気が乗らない」とぬけぬけと言い渡され、自分とて腹が立っている。


(りん)の奴、図に乗ってやがる」


 連れ立った三人のうち、一番若年の那鳥(なとり)が怒りを露わにした。

 燐は安是の里たった一人の商売女で、川慈は月に一度、彼女の元へ通っていた。

 四十手前の川慈には妻子がいる。女房に不満があるわけではない。しかし、初々しい光を昇らせ、頬紅などはたかずとも頬を朱に染めた姿はもう十数年も前のこと。生活を共にしていれば、徐々に色が抜けてゆくのは止めようがない。

 それに、二人きりで家にいるのは気が滅入りがちだ。倅らは成長し、家に寄り付かなくなった。あの年代は、同世代でつるんでいたほうが楽しいと川慈自身、経験的に知っている。

 つまるところ、女房も自分も気詰まりなのだ。おそらく、女房は川慈に負い目を感じている。川慈は、女房に負い目を感じさせていることに、負い目を感じている。

 その負い目を多少なりと軽くするため、燐の元に通っている――とは、ていの良い言い訳だろうか。だが、女房もそう感じているからこそ看過しているのではないか。

 歪んでいると思う。安是の川慈と同年代の夫婦は大なり小なり、こうした鬱屈を抱えていた。

 まったく、呪いだ。里にかけられた呪い。女がかけた呪い。男が抜け出せない呪い。苦々しく思う。

 一月ぶりに足を運んだあばらやで、しかし燐は客を拒絶した。月水(つきのさわり)ではない。

 普段は陽気で、男っぽい気性の燐が、こと商売に関して気まぐれを起こすのは珍しかった。

 今日はそういう趣向かと那鳥と二人で挑めば、肉を噛み千切る勢いで腕を噛まれ、挙げ句、舌を噛み切って死んでやると騒ぐ始末。生娘のような物言いに呆れ、同時に――那鳥は気付いていなかったようだが――胸に粟立った白光に気付いた。

 燐の肌は白い。肌に溶け込む仄白い光は、明かりを灯した屋内ではわかりにくい。燐が真実、誰を想っているのか、肌を合わせた男衆で知らぬのは那鳥ぐらいなものだろう。なんとはなしに、気を削がれて、川慈はあばらやを後にしたのだった。

 けれど、このまますごすご帰って、女房に冷たく見られるのは面白くない。酒盛りもするつもりだったから、まだ宵の口を少し過ぎた頃だ。どうしたものかと思案したその時、那鳥が黒沼へ行こうと言い出した。


「この前、見たんだ」

「何を」

寒田男(さむだおとこ)を」


 川慈ともう一人の連れだった同年の男――佐合(さごう)は、足を止め、顔を見合わせた。


「ちらと見ただけだけど、あれは確かに寒田の男だ」


 穏やかではない話だ。安是と寒田の足跡を知る者であれば、〝ちらと見ただけ〟ぐらいの根拠で軽々しく口にはできない。那鳥はことの重大さを理解していない。


「どうして言い切れる」

「面を被っていたから」


 意味が飲み込めず、眉根を寄せて若者を見る。那鳥は頭の後ろで手を組み、


「顔を隠すってのは、見つかっちゃまずいってことだろ。なら、寒田しかありえない」


 得意げに言ってくる。

 川慈は黙り込んだ。それだけで寒田と決めつけるには短慮過ぎる。だが、あり得なくはない。

 しかし、見つけた時に報せたら良いものを。問い質せば、あの時は寒田とは思い付かなかったのだ、そうあっけらかんと答える。


「……こんな夜中に山を踏み荒らして、山姫の機嫌を損ねるぞ」


 山に入り、半時。少し間を置いて後ろを歩く佐合が低い声音で呟いた。 


「黒沼を守るのにどうして罰があたる? 山姫は寒田嫌いだろう」


 那鳥は、途中、猟師小屋に備えてあった猟銃――油屋から買った軍用の払い下げ品だ――を取ってきており、肩に担ぎ直しながら軽く返す。

 里の若者は山姫を迷信として軽く見ている。一方、佐合は里で随一の腕を持つ細工職人であり、縁起やしきたりを重んじる。

 川慈自身は、山姫を特に畏れるわけではない。ただ在るものだと思っている。怖いのは、山姫を取り巻く人の方だ。人外の力を前にした時、人は人の(のり)を見失う。

 燐を(おとな)うのに、佐合を誘ったのは川慈だった。この生真面目な幼なじみは、自分からは決して遊ばず、休みもろくに取らない。十九年前から――これも呪いの一つだ。事情を知る川慈は折に触れて佐合を連れ出すようにしていた。負い目がないと言えば嘘になる。


「山姫は神じゃない。山姫は山女だ」


 珍しく佐合が言葉を続けた。


「……山姫か。一度、山姫本人にお目にかかってみたいものだがな。どれほどの別嬪か」


 ぼんやり川慈が呟くと、那鳥が訊いてくる。


「山の神は醜女ってのが相場だろ」

「だから山姫は神じゃない。山女だ」

「物の怪みたいなもんか?」

「違う。山女は山女だ。山女は背が高く、色が抜けるように白い、髪くるぶし丈の女だ」


 ……ちょうど、あの女のように。


 佐合の説明に、思い浮かぶ女があった。燐ではない。少し似た雰囲気があったかもしれないが。

 記憶の闇から浮かび上がる白い肌。肩を滑り落ちる黒打掛、焦らすように開かれる脚。その中心は赤く、熱く、とろける蜜を湛えていた……

 へえ、と那鳥が間の抜けた声を上げ、川慈は正気づく。眼前の茂みを掻いて、女がひょいと現れるわけでもない。

 危ないと思った。燐のところで発散できなかったとはいえ、思い出すなんて。心の居場所を少しでも渡せば、我が物顔で居座り続けるに違いない。


 下げている提灯の明かりは弱々しいが、慣れた道のため、道中に苦労はなかった。しかし、小さな光は、山の闇をいっそう大きく膨れ上がらせるようで、心許ない。

 那鳥はまだあれやこれやと佐合に質問していた。山姫は何喰うの、とか、昼間は寝てるの、とか、山男はいるのか、とか。

 最近の若い者は、と古老じみた小言を言うつもりはなかったが、那鳥の物知らず加減には正直呆れてしまう。安是での暮らしが、何の犠牲の上に成り立っているのか知らないし、知ろうともしない。黒山の恩恵とて当然という傲慢さがある。なんの後ろめたさもない。

 いや、違うかと思い直す。自分らの代が口を噤んでいることを、彼らの無知のせいにしてはそれこそ傲慢だった。

 そして思い起こせば、那鳥の代よりも自分たちのほうが余程傲慢だった。若衆に文句を言われながらも、今はもう使われていない〈白木の屋形〉のあく洗いを取り仕切ったのは、後ろめたさの表れだろう……

 別嬪といえばさあ。物思いを吹き飛ばす、明るい、というよりも何も考えていない声が夜陰に響く。


「娘宿で、誰が一番美人だと思う?」 


 もう山姫からは興味を失ったのか、そんなことを訊いてくる。


「次の満月は秋祭だろ。誰を相手にするか迷ってんだ」


 再度、呆れるしかなかった。誰を相手にするも何も、安是の祭りでは、男の意向は無いも同然。そもそも女が光らねば、男は手出しができない。


「駒は顔は良いが色黒だ。第一、真仁にぞっこんだ。下手に手を出しゃ、古老にちくるし。花乃は可愛いが、まだ乳臭いし、親父がうっとおしい。色香なら叶が一番だけど、歳上だしなあ」


 那鳥は次々に娘の名を挙げる。顔付き、肉付き、肌の色つや。性格、家柄、頭の良し悪し。一体、どこでどうして知り得たのか、こと細かく述べてみせる。独自の女への見解をふまえ、延々小一時間は喋り続けていた。

 お前なあ、と年輩者らしく嗜めようとした。安是の女を甘く見ると、手痛いしっぺ返しを喰らうと。だがしっぺ返しどころか、闇夜で後頭部を殴られた衝撃を受けたのは川慈自身だった。


「なあ、阿古(あこ)ってそんなに美人だったのか?」


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