12-5母子
脈絡無くさまよい浮かんだ、蜻蛉じみて儚げな薄緑の鬼火。一瞬、燈吾と見間違ったそれ。
続いて膨れ上がった剣呑な気配、山刀を振り上げた男の血走った眼、重なり合った銃声、あまりに濃い硝煙と血臭と怨嗟――
〈白木の屋形〉の寝所で寒田長を自称した客人らをもてなした一幕がありありと甦った。
「……直、松?」
直松――川慈からその名を聞かされたのは一度きり。どうして思い出せたのか、自身、わからなかった。
元々は寒田長の補佐だったという。安是長と結託して融通を横領し、なれど安是長に裏切られ、寒田長を騙り〈白木の屋形〉に襲撃をかけ、挙げ句、返り討ちにされた愚かで不運な男。
寒田男らの遺体は倒れ伏しており、記憶は目を見開いたまま仰向けになった与一に成り代わる。夫に似た若衆の、その虚ろなまなこを。
小結は、直松の縁者なのか。
「自業自得よ、あの男は!」
徐々に高まってきていた空腹感も手伝い、声を荒げた。あれは後味の悪い捕り物だった。なれど、責められる謂われはない。
そも、あの男らが横領を始めたからこそ、融通が行き届かず寒田の不満が高まり、妹姫が目覚め、燈吾は〈妹の力〉による呪いに囚われたのだ。
ふいに己の思考のおかしさに気付く。
女は妹姫に違いない。だが、薄緑の鬼火の主、直松の縁者というのなら……なにゆえ〈妹の力〉を目覚めさせる必要があったのか。困窮ゆえに安是を逆恨みした、という理由付けが成り立たない。
小結は赤子を抱いたまま静かな表情でこちらを見上げていた。
化粧気のない、乾いた面。自分よりも歳下でありながら、諦観した寒田娘と印象が似通っている。
違います、と小結は首を横に振る。何にかかった否定なのか測りかね、何が、と返す。
「直松ではありません。でも、やはり直松は安是に行ったのですね。ならば連れがおりませんでしたか」
連れ――確かにいた。かすみは記憶を辿る。直松には付き人がいた。まったく印象に残っていないが。
「この子の父です」
小結が身を乗り出し訊いてくる。
「行方を知りませんか、何か言っておりませんでしたか、生きておりますか……?」
その急き込んだ勢いに、気圧されるようにして首を横に振った。女の顔が歪む。
「まだ、名前すらつけていないのに」
赤子に添えられた手に、声に、睫毛に震えが走る。
直松には確かに付き人がいた。なれど、その男の顔も声も恰好も、何一つ覚えていなかった。
――夫は直松に従っていただけです。
親を早くに亡くした人で、直松は叔父で面倒みてもらっていて逆らえなかったから。
親に恵まれなかった子は不幸です。
あたしには親がいますが、実の親じゃない。もらわれ子です。寒田では末娘隠しによくやる手でした。
裕福な家で末娘が生まれたら、その後に貧しい家で生まれた歳下の娘を引き取って、見かけ上、実の子を末娘でなくす。最近じゃ、滅多に妹姫は現れていない。だから妹姫の危険性は同じだろうけれど、体裁が整えば、よしとした。
もらわれ子は十を過ぎれば奉公に出す。でもあたしがもらわれた先じゃ、たまたま弟が生まれたから、そのまま下女のように働かされた――
突然始まった昔語りを遮らないのには理由があった。小結が着物をはだけ、赤子に乳をやり始めたから。
半生の中で赤子との接点はほぼない。狂女の世話はしてきたが、赤子相手には勝手がわからず、ただ眺めるしかできなかった。
「この子は二人目の子です。一人目は、虚弱で、あたしの乳の出も悪く、死なせてしまった。一年前のことです。夫もあたしも、次の子こそは健やかに育ててやりたいと願っていた。だから余計に、夫は直松に異を唱えられなかったのでしょう」
赤子は作り物めいて尖った唇を一心不乱に動かしている。唾液か乳か、たっぷり水気を含み、口元がつややかに光る。
「止めるべきでした。止めようとした。でも……所詮は女の浅知恵だった」
朝だというのに室内は薄暗い。殊更、母と子は白く浮かび上がって見える。
――小色にも気の毒なことをしました。
赤子が紅葉めいた手を伸ばして母の髪を引っ張ろうとするのをやんわりと止めながら、小結は言う。
「あれは気の毒な娘です。寒田の女一人一人を訪ね歩き、あたしを突き止めた。寒田で妹姫と口にするなんて狂気の沙汰というのに。
あの子が兄に抱いた想いは辛い境遇ゆえ。だからこそ、静かに、熱く、激しく、止められるものではなかった。惨い幕引きになるとわかっていても」
初めて妹姫という名が上がった。
小結と赤子を凝視する。そう、間違いなく小結は妹姫であり、自らそれを認めた。
「あたしを殺しますか」
小結はこちらの視線を弾き返すように白皙の面を上げる。
「この子も殺しますか。遺されたとて妹姫の子、それも末の娘です。生きていても辛い目に遭うばかりでしょう」
射貫かれて言葉を喪った。
その裏で素早く算段する。
気配を探れば、外には人の気配が満ちていた。寒田者が取り囲んでいるに違いない。一方で産屋内には小結と赤子の他はいない。正統なるオクダリサマとして研ぎ澄まされた五感でも、罠らしきものは感じられなかった。
妹姫を殺すか――もちろんだ。
そのために地を這い、泥を啜り、血を流させ流して、光を燃やし、幻視に惑い、半狂いとなりながら寒田へやってきた。燈吾――病み窶れ、音も無く泣いた夫を解き放つため。
「死になさい」
どんな理由があろうとも燈吾の病を治す、それが自分にとっての最優先事項だ。なれど――
「それが嫌なら〈寒田の兄〉を解き放って、今すぐに!」
居丈高に言い放ったその真逆に、小結に縋りたかった。
――燈吾を救って。土下座でも、芸でも、もてなしでもなんでもする。どうか、どうか、どうか――
妹姫が燈吾に〈妹の力〉の呪いをかけたのは間違いない。
だが、奇妙な話で、妹姫の実在に、憎悪を抱くのではなく歓喜していた。もしか、これこそ落人が狂女に抱いた感情だったのかもしれない。唯一のよすが、神と崇め奉りたくなる、どうか救けてと祈りたかった。
おくびにも出してはならない。安是の優位性を保たねば、立場は逆転してしまう。なれど、なれど、なれど――
「承知しました」
「……できるの?」
間の抜けた声音に、〈寒田の兄〉本人に呪を施せばおそらくと小結は頷く。
思わず、本当に、とごく普通の里娘のような物言いをしてしまう。
「意地を張ってもしようがありません。あたしは妹姫、あなたはオクダリサマ、力の差は歴然というより、そういうからくりになっているのですから」
ですが、と乳を呑んだ赤子の背を叩きながら続ける。
「〈妹の力〉を解いたところで、あたしたちの身の置き所はありませんね。里には、あなた様が産屋を訪れたことで、あたしが妹姫だと喧伝されてしまった。妹姫の身の上で、夫を亡くし、子を抱えて死ぬも同じです」
「寒田長とは話をつけてある。妹姫はいない、私は寒田に迷い人を届け、地揺れの被害の検分をしに来ただけ、あんたと赤子は暮らしていける、建て前はある!」
口早に言い募った。
燈吾を解き放つには、どれほど事が上手く運ぼうとも、最低一人の犠牲は必要だと考えていた。
妹姫自身だ。安是と寒田の和合の絶対的な障害。だからこそ、犠牲となる妹姫は元からいないという前提を寒田長に共有させた。
だが、本当にこれ以上の犠牲がでないなら。
「私は安是と寒田の和合を目指してきた、寒田が駄目なら安是で暮らせばいい。安是長は、今は代理で能なしよ、丸め込むのは容易い。燈吾が治ったなら私が助力する、一人で赤子を育てるのが辛いというなら、襁褓替えも、洗濯も、子守もする。だから、どうか」




