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11-6惑い

 山姫が下れば、山嵐が起きて里を荒らし、女が消える。

 遥野郷に古くから残る伝承が頭を過る。

 正面から打ち付ける風と雨礫に目を(すが)め、息を詰め、立ち竦む。ここ数日、灰白色だった天は暗く濃い黒紫が渦巻き、時折、空を割るような稲光が走った。

 あつらえたような天候だった。折しも修羅は組み上がり、あとは阿古を呼び寄せ、堰き止めてある原木を一気に落とすのみ。

 

 午過ぎ。悪天候にも関わらず、男衆は完成した修羅の滑走路に沸き立った。今日は早朝から多くの男手が集まり、作業を行っていた。彼らは立ったまま、若衆に持ってこさせた酒を酌み交わし、笑い合う。 

 安是男らはどこか浮き立ち、満ち満ちていた。この苦境において、団結、協力、精励こそが打ち勝つ力と言わんばかりに。それはある意味正しい。正しい、が。

 かすみにもなみなみと酒が注がれた椀が差し出された。黒沼の水面を思い起こさせる、酒の表面。十年前、狂女であった阿古を突き落とした黒沼に似た。


 四十前後の者たちは、けりをつけようとしている。安是の悪夢を討ち取る。その機会を二度も逸していたからこそ。

 およそ二十年前、娘らは立ち上がり、安是男を独占する悪夢を追い詰めた。だが、結果、正統なる白木の巫女を死なせ、同時に妹姫〈寒田の兄〉から安是を守護するオクダリサマを喪った。

 山姫の依り代となり、なれど黒沼問いという正当な儀式を経なかった阿古はひどい気狂いに陥りながらさまよい、一年後、孕み腹を抱えて戻ってきた。それから八年としばらく阿古は里で暮らしている。

 八年は長く、けりをつける時間は十二分にあったはず。だが、彼ら――少なくとも、美舟を始めとする阿古の私刑に参加した娘ら――は、依り代となったと思われる阿古を始末するに躊躇った。

 もうオクダリサマは必要がないのではないのか。なれど、再び己の手を汚すのは恐ろしく、厭わしい。妹姫が蘇る可能性もある。だから、阿古は〈白木の屋形〉に迎え入れられもせず、殺されもせず、生家で養われてきた。だが、十年前、阿古は姿を消す。他の誰でもない実の娘の手によって黒沼へ落とされて。

 そして十年ぶりに姿を現し、次期オクダリサマであるというかすみの求めによりいくらかの正気を取り戻した阿古は、己を私刑にかけた元娘らの女の部分を抉り、白蛭を這わせ貶め、残虐に弄り喰い殺した。

 そしてようやく安是人は、妹姫〈寒田の兄〉の脅威に勝る、阿古を殺す大義名分を手に入れたのだ。

 つまりは、全てが後手に回り、さらには先々に考えを巡らせていない頭の悪い対応なのだ、この阿古討伐は。そして自分はこの計略を活かさねばならない。

 かすみは里男から椀を受け取り、一息に呷った。



 阿古の餌になるにあたり、寄り合いにて燈吾を所望した。

 山姫は安是女の光を辿り、山を下る。安是女は、恋しい男に光昇らす。道理であったが、当然ながら反対され、先に地下牢を暗紫紅で満たした例があったため一人で光れと古老らに言われた。だが、さすがに美舟は異を唱えなかった。想う男がいればこそ、安是女ならばこそ。


 夕暮れ間近となり、風がさらに重く強く吹き付ける。


 燈吾が修羅落としの場へと運ばれてくる――木製の、人一人が膝を抱えて座るのがやっとな檻に入れられて。随分と長く離れていた気がするが、実質二日だ。黒沼での祝言以来、より別れがたくなっていた。

 檻が置かれたのは滑走路の直線上。つまりは、実際に修羅落としが行われたなら、次々と原木が雪崩れ落ちてくる。かすみはその間で阿古を待ち構える。すなわち、阿古を呼び寄せ、ぎりぎりまで引きつけねば、阿古にではなく燈吾へと原木が直撃する配置だった。

 檻の中の燈吾は項垂れ、後ろ手に縛られ、身動きしない。指――燈吾の手は無事なのか、手当されているのか。無上の男の粗末な扱いに、皆殺せと胸が煮え立つ。

 斬り取られた指は手布に包んで懐に隠し持っている。あの手紙と一緒に――妹の力、とくべからず候。胸の痛みと殺意と共に、不可解な一文が甦る。

 矢も楯もたまらず、暗紫紅の光を自然と立ち昇らせ、駆け寄ろうとして未だ治り切っていない足に激痛が走った。


「止めよ」


 いつの間にか傍らに来た美舟が、杖を突き立てたのだった。叫ぶのは我慢できたが、呻きは漏れる。


「反感を買う行動は慎め。おまえが阿古を使役して里女らを殺したと思う者もおるのだ」


 風雨の中、白髪をこけた頬に貼り付かせ、美舟はこちらの呻きなどお構いなしに続ける。


「うまくことを為せば、寒田男は返してやる。どこへなりとゆくがいい」

「……誰が信じるというの」


 そもそも、考えたくはないが、燈吾の生死すら確認できていないというのに。


「阿古を討ち取れるものなら安いものよ。だが、子は為すな。安是にとっての驚異となるゆえ」


 黙したまま、黒山を見上げる美舟を見つめる。 


 〝お前との子が欲しい〟 


 黒沼の巨樹絡み合う根の上での祝言を挙げた。好いた男に子を乞われた、この幸福。

 美舟の目は血走り、ぎらぎらと異様な輝きを放っていた。阿古、阿古、阿古を討ち取れと息巻き、他の里人同様、興奮状態にある。

 実際に首尾良く阿古を始末できたとして、一体何が残るというのか。阿古殺しはすでに八歳の自分が行い、なれど何も得るものがなかった。だというのに、安是人は阿古さえ亡き者にすれば全てが収まる、という勢いなのだ。


「あんたは、川慈と話したの」


 ――美舟として、と言外に問う。


 彼女はただ一言、必要ないと言い捨て、場を離れた。



 号令を下せば、何十本、百もの原木が雪崩れ落ちてくる。かすみは黒山の斜面に設えられた関門を仰ぎ、睨めつけた。

 取り決めでは燈吾の檻は修羅落としが雪崩れ込む寸前に移動させる手筈となっており、檻の下には丸木が数本並べられ、檻には縄が結わえられている。原木が落ちる寸前、安是男らが曳くのだ。かすみ自身は自力で原木を避ける予定だった。

 だが、安是人らが燈吾を救ける理由がない。隙あらば共に始末される。ここで彼らの頭からは、妹姫〈寒田の兄〉への脅威は消えているのだろう。阿古と、その娘さえ殺せば道は拓かれると信じている。

 燈吾は〈寒田の兄〉という業は背負えど、安是での扱いは自分たち母娘に巻き込まれたに過ぎない。

 いつか見た夢だ――金色に波打つ稲穂の海を暗紫紅の炎が灼き尽くす。比翼連理。枝が絡みつき、雁字搦め。あにい様を解き放つと誓ってくださいますか――


 ――来たぞっ!


 安是男らの警戒と緊張と興奮を孕んだ声が上がる。


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