9-2再会
硬い何かを踏んだ次の瞬間、左脚に走った激痛に引き倒され、意識が飛びそうになるのを辛うじて堪えた。
獣に襲われたかと見やれば左足首に何かが巻き付いている。白銀の髪が、皮膚を破り肉にまで喰い込んでいる――阿古?
焦って引き抜こうとするが、それはびくともしない。まさしく獣の顎を思い起こさせる丸い鋸のような形状をしていた。
「西つ国式の獣用の罠です。無理をすれば足が千切れますよ」
その声音は、ある意味、もっとも怖れていたものだった。芳野嫗より、阿古より、〈寒田の兄〉より、なお。彼女が虚空から現れ出たかに感じられたが、実際には樹影に隠れていただけだろう。
肩口で切り揃えた黒髪、子どもじみた姿。けれどその白い面は老成して見えた。
「〈白木の屋形〉の納戸にあったものを拝借しました。何を目的としていたかはわかりかねますが」
小色、その名を呼び呻く。兄を慕って追いかけ、安是へ潜り込み、かすみが放逐した下女。
「お久しゅうございます、オクダリサマ」
恭しく頭を下げる。けれど眼差しに親愛の情はなく、ただ黒々とした沼に似て、燈吾と兄妹なのだと感じさせた。
「あにい様をお迎えに参りました」
〈寒田の兄〉、寒田の娘、末の妹――直線で結べば、ひどく単純な解が導き出される。
「おまえが……おまえが、妹姫なの⁉」
激痛と恐怖と怒りに、自然と声はいきり立つ。対照的に、ぬるく気味の悪い風に黒髪を靡かせながら、小色は否と静かに答えた。
「わたくしはお力にお縋りしたまで。恐れ多くも、妹姫様に託宣を賜り、この場に参じております」
慇懃な言葉遣いに、怖気が背筋を這う。おかしい。だってこの娘は言っていたではないか。
「何故妹姫なぞに縋るの、おまえは妹姫のせいで疎まれ、蔑まれ、邪険にされていたのでしょう、それに〈妹の力〉など迷信だと、」
「燃やし尽くされるとわかっていて、どうして手を拱いていられるでしょう。選択の余地などありませんでした。なれど、今は後悔しております。もっと早くお会いすれば良かった、帰依すべきだったと」
聞き逃せない言に目を見開く。もっと早くお会いすれば良かった――妹姫はいる。特定されている。小色は知っているのだ。
どこの誰なのか教えなさいと問い質そうとして。差し向けようとした短筒が、手元から消えていることに愕然とした。
「オクダリサマの贋物は、あちらのウドの茂みの奥に落ちているはずです」
指差す方をつられて見るが、中が見通せるはずもない。しかし、小色にはこちらの心が見透せているのか、
「妹姫様の予言にございます。〈白木の屋形〉の表門より西南西へ数えて千歩、ウドの茂みとマツの木の間に罠を仕掛ければ必ずやオクダリサマを足止めできるとのお言葉、かように叶いました」
そんなことを抑揚無くのたまう。
〝なら、死んで〟――己の放った暴言に涙を浮かべた娘は、印象を異にしていた。どこか巫女めいた超然とした雰囲気を醸している。
オクダリサマ、小色が歩み寄ってくる。退こうとするが、左足が置いてかれる。ゆすり動かしても鉄の歯は獲物を離さない。
小色に屈み込まれ、赤黒毛が逆立つ思いだった。
妹姫でもなく、〈寒田の兄〉でもなく、ただの娘に過ぎない。それがどうしてこんなにも恐ろしいのか。理不尽を感じる奥底に、下女であった小色への侮りが働いているのを認めないわけにはいかなかった。おそらくは、佐合が、芳野嫗が、安是人らがかすみに対して抱くそれとよく似た。
「あにい様を解き放ってくださいませ。あにい様のご病気にはわたくしが付き添います」
「〈妹の力〉は燈吾を苦しめている、妹姫に縋って、どうして治せるというの!」
もう一つの可能性を無視して、吠えた。吠え立て、耳を塞ぎたかったのかもしれない。
無闇に牙を剝く犬に、小色は身を引き、距離を空けた。
「オクダリサマは、勘違いなさっております。わたくしがお救いしたいのはあにい様だけではございません」
未だ暗紫紅の焔消えず、燃ゆるかすみを見下ろし、小色は告げてくる。
「燃やし尽くされるのは、オクダリサマ、その御身にございます」
燃やし尽くされるは、かすみの身。
自分を案じているというのか。はっと、嘲笑する。
「お前に何がわかるというの!」
小色は寒田の末娘。家人に、寒田人に、奉公先の人々に、辛酸を舐めさせられてきたのだろう。だが彼女は生まれてこの方、兄の庇護を受けてきた。その真綿に包まれ、真っ直ぐな、真白い心を育んできた。最愛の兄の情人にも尽くし、その身を案じる。そうして当然のものとして兄を奪い返そうというのか。
生まれた時から狂女の娘で、光らぬ身を蔑まれ、寒田男に燃ゆれば色狂いと打たれた。十七で燈吾と出会い、初めてぬくもりを知った。その先の熱情も快楽も安らぎも。
奪われてなるものか、盗られてなるものか、一欠片たりとも譲らない。
「燃やし尽くされるというなら、いっそ共に――、」
死んでしまえば。
声は空気を震わせる前に己の脳に届き、出口を失った。何を言わんとした、自分は。あれほど尊い夫を、いっそ。
「……いっそ共に、なんです?」
柔らかな問い掛けだった。あるいは穿った見方をするのなら、満足げな。
束の間、静寂が満ちる。裏腹に咬まれた脚がどくどくと脈打つ音が喧しい。目蓋の裏、明滅する蛍火。燈吾は迎えにきてくれるだろうか。まだあの大男との決着はつかないのか。
〈寒田の兄〉はもう一人いた。二人いっぺんに挑まれたら、きっと敵わない。無事なの、怪我をしているの、もしかしたらもう既に――比翼連理。だったら生きている意味はない。
「妹姫様はあにい様を憐れんでくださっています」
艶やかな漆黒が、夜闇にも紛れずに揺れる。自分が持ち得ないその髪色。小色は匂い立つような微笑を浮かべていた。実際、甘い芳香が漂っていた。清涼というよりも、蠱惑的な、焚きしめたような女の匂い。この娘は、こんなにも大人びていただろうか。
「本当はもうお気付きになられているのでしょう? 寒田と安是は本来交わらない、水と油。共にあろうとすれば、互いを傷付け、喰い合い、灼き尽くす。いっそ、と思われるのも無理は無きこと。あにい様を解き放つと同じく、オクダリサマも自由になられるべきなのです」




