8-1比翼
黒狐の面を放り捨て、重ねられた唇は熱く湿っていた。喰らうようにして、味わうようにして、燈吾は口を吸ってくる。
その快楽に身を委ねそうになるが、今は流されてはならない。早く逃げねば、炎にまかれてしまう。安是人に見つかれば自分は捕らえられ火付けの拷問を受け、〈寒田の兄〉である燈吾は捕らえられる前に有無を言わさず殺されるだろう。燈吾を猟銃で狙い撃ちされた時の心臓が凍った恐怖が甦った。
顔をわずかに背けて耳元に囁きかけようとしたが、良人はかすみの頬を両の手で挟み込み、逃そうとしない。
前に宴を催して閨に呼び寄せた時、ねだったのは自分の方だった。だが、今、頑是無い子どものごとく求めるのは燈吾で、求められたなら、かすみはその熱情をはねのけられない。当然だ、ずっとずっと欲しかった、乾いていた、飢えていたのだから。かすみは呆気なく陥落する。
男の肌はしなやかだが、覆い隠された肉は女のそれとは明らかに違って硬い。なのに、唇は、舌は、口内は、とろけて熱く柔い。その無防備さ、矛盾、無為が己に捧げられることに、背筋から尻の窪みにかけて、一斉に暗紫紅の花咲く思いだった。
長い口付けの後、辺りに視線を這わせれば、暗紫紅の光と火難の炎、そして青白の蛍火が混濁しており、いつかの娘宿の娘遊びを彷彿させた。
なれど、このまま夢見心地でいるわけにはいかない。燈吾と心中するつもりはなく、なんとしてでも安是、妹姫〈寒田の兄〉、そして阿古から逃げ果す。だが。
行きましょうと促すが、裏腹に足が動かない。上半身だけが逸って吊り合いがとれず、燈吾の胸元の合わせに縋り付く。動くはおろか、立っていられない。
「腰が抜けたか」
面目次第もなかった。たかが接吻だけで、下肢が感じるほどに昂ぶっているなんて。そんなに良かったかと耳に落とされ、睨み付け、焦りのあまりつい怒り口調で良すぎだと返せば、燈吾はさも嬉しげに笑った。
笑うところではない、どうやって逃げるのだ、火事に乗じる手は一度しか使えない。せめて燈吾だけでも逃がすか、路銀として拝借した簪や帯留めを渡しておこうか、落ち合う場所は、さまざまな思考が巡る。
その間も夫は笑っていた。ときめく心に蓋をして、何を暢気にと胸を叩こうとすれば逆にその腕を捕られた。一瞬、身体が浮遊したかと思えば次には軽々と抱き上げられ、夫はいくぞといとも軽く宣言する。そして、夜を翔んだ。
――巨人の膂力、韋駄天の神速、天狗の跳力。
四晩目の宴で燈吾の、〈寒田の兄〉の人あらざる力は見知っていた。だが、まさか自分を横抱きにしたまま木の幹を駆け上がり、枝から枝へ跳び、葉を潜り抜け、天辺へと登り着くとは、誰が予想しただろう。
青白の蛍火と暗紫紅の光を撒き散らし、庭で一番高い紅葉の古木から、火の手上がる〈白木の屋形〉を見下ろす。
屋形は炎に貪られ、見る間に黒い骨と化す。煙の間を人々が右往左往し、幾人かはかすみと燈吾の二人に気付いたようだったが、逃げ出すのに精一杯で、こちらに頓着しない。指揮を執る者がいないのか、まさに蜘蛛の子を散らす騒ぎだった。
己が放った火が、意志持つ獣となり、里を喰らう。俯瞰はそんな妄想を膨らませた。
「……怖いか?」
顔が強張っている、そう頬にかかる赤黒毛を指先でそっと掻き分けられる。否と答えつつも、眼下の光景から目を離せなかった。
川慈は不在なのか。隈を貼り付けた中年男を思い浮かべると、偶然と言うべきか、走る男を見つけた。
川慈は誰かを背負うている。小柄な女――芳野嫗だ。〈白木の屋形〉で療養していたとは知らなかった。寝首をかかれぬよう、自分には隠していたか。
彼女の無事については、安堵なのか苛立ちなのか、複雑だった。身に受けた屈辱は忘れない、八つ裂きにしてやりたい、死ねばいい。だが、嫗は有用だった。自分には決して里人の人心は掴めない。寒田への融通の着服についての内偵も彼女の慧眼があってのことなのだろう。けれど同時に、ことかすみに関わるオクダリやオクルイについては矛盾がある。二輔の話ならば、おしらの方から〈白木の屋形〉を閉じるよう申し伝えてあったはずだが、彼女は先代の意に反した。なるほど、確かに妹姫と〈寒田の兄〉は三十年の時を経て現れた。だが、安是と寒田の和合が実現していれば、妹姫が目覚める可能性も低かったのではないか――
唐突に燈吾がかすみを抱きすくめた。応えて両腕を首に巻き付ければ、燈吾はかすみを抱えたまま跳ねた。間を置かず、闇夜に銃声が響く。
「あれぐらい、どうともない」
別の枝に降り立ち、揺れが収まり、燈吾は呟いた。気負いなく、虚勢なく、ごく自然に。
〈寒田の兄〉――この人は、自身の人あらざる力についてどう思っているのか。いつから、どうして、なぜ。黒沼のほとりで落ち合っていた頃、そんな素振りは無かったし、気付かなかった。喉元から出掛かった言葉は、しかし、低く心地良い声音に遮られる。
「――天に在りては願わくは比翼の鳥と作らん、地に在りては連理の枝と為らん」
呆気にとられて見上げれば、〝比翼連理〟という言葉を知っているかと問うてくる。
否と答えれば、こんな時、こんな場所、こんな状況下で夫は教えてくれる。閨であり、学び舎であった草庵でまどろんでいた時と同じ調子で。
「〝比翼〟は雌雄ともに目と翼が一つずつで、二羽が常に一体となって飛ぶという中ツ陸の伝説上の鳥だ。〝連理〟は、根元は別々の木で、枝や幹が途中でくっつき木目が連なったものを指す」
まるで俺たちではないかと笑う。できるならば、二人で空を謳歌する比翼でありたいものだな、と。
海。咄嗟、二輔から聞いた大海原が胸一面に広がった。燈吾と共に何一つ遮るものないという青の原を見られたなら。
逃げましょう、夫の胸に顔を押し当てる。とても顔を上げては言えない。燈吾がどんな表情をするのか、怖かった。あなたの夢は知っている、草庵で幾度も語ってくれた、安是と寒田を豊かにして和する、後の世の自分らを生み出さないためにも。そして、自分と、里での暮らしを一番に考えてくれていると語ってくれた。他の誰でも無いあなたが語るなら、それは尊く、意義がある。だのに、だのに、その夢を冒涜する。
「……遠いどこかへ。全部捨てて。遥か海まで」
絞り出し、やっとで紡いだ希いは、我ながらか細いものだった。
「それも、悪くない」
対して、夫の返答は軽かった。かすみは燈吾の面を凝視する。彼は嘯くふうでも、茶化すふうでも、誤魔化すふうでもなかった。子どもの駄々に根負けした、困ったような大人の表情。でも言葉通り、その甘えすら愛おしんで、悪くないという。
再びの銃声に、燈吾は悠々と飄々と軽々と夜を舞う。その滞空の最中、本当にと問えば、お前が望むなら、傍にいるのなら、と返してくる。
まだ火の獣が脚を踏み入れていない屋形の中央の屋根に降り立ち、燈吾は周囲を睥睨した。
蛍火を纏い、暗紫紅の光を抱き、取り囲む炎と舞い踊る火の粉、夜闇すら彼のために用意された舞台のごとく。いや、畢竟、この男を中心に光も炎も熱も巻き起こる、そんな錯覚すら覚える。
そして、彼こそが〈白木の屋形〉の支配者であるように宣する。
「今宵、里とは今生の別れだ」




