7-3茅屋
寒田と安是の咎人を捧げ、妹姫の怒りが収まったか。
客人をもてなした翌日。妹姫の心内などがわかるはずなく、彼女に伝わったかも確証なく、けれど確かなのは安是人の不安が解消されていないということだった。不安は不穏となり里を包み、不信となって広がり〈白木の屋形〉に押し寄せていた。
さもありなん、安是長が姿を消し、芳野嫗は出て来ず、山姫は一向に下らない。せめて芳野嫗が目覚めたならば安是長の所行をあきらかにできようが、今は誰も耳を貸さないだろう。
――先晩、銃声が聞こえた、見知らぬ男らが〈白木の屋形〉へ入り込んだ。いやオクダリサマの手引きだ、あれは寒田男とできている、〈白木の屋形〉には寒田との合い子がいるらしい、色狂いの子は色狂い、そもそも本当にオクダリサマか――虚実入り交じった噂が飛び交う。
里人は表門を叩き、声を荒げる。警護に当たる者たちの疲労も濃く、そも彼らも里人であり、里には身内がいる。〈白木の屋形〉の結束は泥舟であった。
里人を鎮めようと出て行った川慈にさえ、彼らは辛辣な言葉を浴びせた。女房を喰い殺されたばかりの同輩に。お前は阿古に執心していた、かすのみの色香に騙されておるのではないか、邪魔になった佐和を獣に襲わせたのだろう――
感情は、流れであり、波であり、渦である。宥める言葉も、とどめる術も、堤を作る余力も、今は無かった。
「オクダリ、しばらく〈白木の屋形〉を離れろ」
川慈の頬は削げ、目の下には隈が浮き、唇はかさついていた。
いつまで、と問えば、芳野嫗が起き上がり差配できるよう恢復するまで、と答える。それはもっともな話であったが。
「いや」
詰めかけた里人からの叫びに消されただろうが、表情で察したのだろう。川慈は眉を顰める。
感情の波によって決壊すれば、為す術無く押し流される。百も承知であった。だが。
――かすみ燃ゆ 焔の娘 我が妻よ 夢も現も 君とあらん
『……必ず、迎えにくる』
青白の蛍火を撒き散らし真っ逆さまに月陰へ落ちた燈吾が焼き付いている。夫は約束を違えない。燈吾が来るというならば必ず。
川慈は目を吊り上げ、声を落とし、凄味をきかせ、
「嫗が目覚めるまでお前を生かすのが俺の役目だ、勝手はせさん」
凄味をきかせたところで、川慈は川慈。露ほどにも恐ろしくない。
知ったことではない――そう返そうとして、表門から響くどぅんという鈍い音に遮られた。
今、自分たちがいるのは根城にしていた寝所と続く化粧の間ではなく、居間だった。先の部屋は血と死臭が満ち、使用できない。居間は寝所よりも表門に近く、外から伝わる音が大きい。表門を丸木かなにかで突き破ろうとしているのか、鐘を突くようにどぅん、どぅん、どぅんと打音が鳴り続く。
口惜しいことに、一打響くごとにびくり肩が上がってしまう。里中から悪意が押し寄せ恐ろしくないわけがない。初めて挨拶伺いに引っ張り出されたあの日、逃げ出さなかったことを心底悔んだ。あの絶望は心身に刻まれている。生きてならばこそ。なれど。
頭痛に悶え苦しみ月陰に消えた燈吾、どうして信じられるでしょうと諦観した小色。
今、〈白木の屋形〉を離れるわけにはいかない。少なくとも明後日の夜半までは――
「ワカオクサマは、オクダリサマとしての責任感が強くなられましたなあ」
感心、感心と今まで黙していた二輔が火鉢に埋めたとち餅の塩梅を見ながら妙な感想を述べてくる。
小色が姿を消してから、かすみの雑事はこの老爺が請け負っていた。食事、着替え、髪結い、化粧にいたるまで。
ただの我が儘だと吐き捨てる川慈に、わっしにいい考えがありまさあ、と朗らかに笑う。
「〈白木の屋形〉の庭には納屋がありましてなあ。狭いですが、暮らすには困りやせん。ほとぼりが冷めるまでお隠れになってはいかがでしょう」
――〈白木の屋形〉の居間には娘宿の娘を暮らさせて目眩ましとしなせえ。なに、美味いもん食わせて、絹の着物の一枚や二枚くれてやれば黙っておりましょうて――
朝もやいの中、最低限の荷物を携え、小さな背を追いながら、二輔の言葉を思い起こす。
あの後、川慈との口論が続いたが、結局、二輔の案を受け入れた。あるいは、川慈は諍いを続けるほどの気力が無かったのかもしれない。仕事があれば立ち回れるが、なすべきことがなければ、今も内に篭もっていただろう。面目を立たせるためには死んだ心をも蘇生させる。小心な男らしかった。
早朝の木漏れ日は白く清浄だった。〈白木の屋形〉の庭は広く、樹木が茂っており、見通しが悪い。だからだろうか、以前歩き回った時には納屋の存在には気付かなかった。
「納屋といいますか、わっしの常の住処でさあ。暮らしに必要なものは揃っとります。まあ、〈白木の屋形〉内に手前の家を建てるのは不遜なんで〝納屋〟と呼んどりますが」
そして進んだ先、黄色から橙色に染まったトチノキの傍らに納屋――茅屋が建っていた。無骨ではあるが、頑丈そうな造りで。納屋や小屋というより、普通の家屋よりも一回り小さいぐらいの印象を受ける。かすみが生まれ育った生家とよく似たつくりだった。
ぴるる、ぴるると可憐な鳴き声に目をやれば、山雀が小屋の裏手にある柿の木の実を啄んでいた。柿の木――それも生家と同様だ。八歳の子どもが浅知恵を働かせて、草履を根元に並べたあの木と。
ふいに朝の清涼な空気に混じって肥じみた匂いが鼻を突いた。牛馬小屋でもあるのか。だが、視線を巡らせど、それらしきものは見当たらない。
「水を汲んできまさあ、先に入って火を熾しておいてくだせえ」
二輔はすたすたと裏手へと回っていく。今日は地下足袋を履いており、平衡感覚がとれているようだった。




