6-4希求
嫗の言は、揶揄でも、呆れでもなく、単なる感想というふうで、だからこそ惑った。同時に心中に過ぎるものがある。
――里が豊かになれば争いは起きない。俺たちは正式な夫婦になる。お前は、俺を一変させた。他の誰ぞに光れば、殺してやる。安是の薬は毒だ、寒田を殺す。何度も何度も何度も何度も、繰り返し。必ず、迎えにくる。暗紫紅が燃えた背、滲む脂汗、眉間の渓谷、乱舞する蛍火、飛び散った血の雨、真っ逆さまに月陰へ落ちた姿……
脳裏に映し出された夫は千変万化、万華鏡のごとく、くるくる変わる。そして。
――かすみ燃ゆ 焔の娘 我が妻よ 夢も現も 君とあらん
「……燈吾を、救いたい」
芳野嫗に聞かせるとも無く、呟きが漏れた。
今の燈吾は本来の燈吾ではない。頭痛に苦しみ、あんなにも安是と寒田の共栄を望んでいた夫が、凶刃を振るった。
燈吾を〈妹の力〉の支配から解き放ちたい。そのためなら安是を救ってやっても構わない。どうしても必要ならしようがない。なんでもはできない、だからこそできる限りはする。でなけりゃ。
――あにい様を新都にお連れします。
向けられた真っ直ぐな眼差しが心中を射る。どうして信じられるのでしょう、乾いた声音が責める。なんでも致しますと深々と伏せられた後頭部が控えめな光を放つ。
救わねば、盗られる。小色に言わせれば盗ったのはこちらなのだろうが。
今更ながらに、小色に暇を出したことが悔やまれた。もし、あの兄妹が、自分が預かり知らぬまに行き逢ってしまったら。
「〈妹の力〉を祓い、寒田男を救えたとして」
妄想とも呼べる想像から引き戻された。
辺りはすっかり闇に沈み、遠雷が轟く。草木はしなり、山が胎動し、烈風が押し寄せ、蓑笠の紐がほどける。
「寒田男が手に入らなかったら、そなた、どうする」
蓑笠は巨人の手に摘まみ上げられたように、闇夜へと消え去った。
足を止めて芳野嫗を見る。だが、老女は構わずにさっさと先を往く。しんがりの安是男に追いつかれ、足を速めた。嫗の肩へと手を伸ばし、
「どういう意味」
「そのままの意味よ」
「寒田男をくれてやろうと、あんたは言ったはず」
「あの〈寒田の兄〉は少なくとも安是人を二人は殺した。だが、安是はこれについて不問に処す」
つまりは放任する。これ以上に何を望むかと、嫗は言外に言う。
確かに、最善であり最良だ。安是に期待などしない。燈吾と夫婦になり、祝福され、暮らし、同じ墓に入る――安是で。あまりに現実味のない話だ。
かすみは歯噛みした。施しを当て込んでいるともとられかねない己の言葉に嫌気が差す。
だが、同時に不可解だった。寒田男が手に入らなかったら。なぜ、そんなことを問う。自分を利用したくば鼻先に人参をぶらさげておけば良い。それを揺さぶる利点がわからない。嫌がらせならばともかく。
「……あんたの娘のことを言っているの?」
自死したという、川慈に光り昇らせていた娘。名前までは知らない。ふと気付く。阿古はオクルイとなり、里を出奔した、なのに嫗の娘はなぜ自死したのか。その順序が逆なのか。あるいは、阿古の出奔が、彼女の死に繋がっているのか。
「なんのことかわからぬ」
空とぼけたのか、本当に意味がなかったのか、会話はそこで打ち切られた。濡れ落ち葉に滑らぬよう、俯き加減に進む。川慈の家は目前であり、緊張が走った。嫗の川慈への気色悪い気遣いが感染したのか。
「川慈、おまえ、川慈か?」
先導の里男が声を上げた。同時に嫗の背が遠のく。かすみが小走りになっても追いつかないほど速く。
川慈は家屋の前に座り込んでいた。雨ざらしも気にも留めず、ただ、家を見上げて、しょげた犬そのままに。
どうした、おっかあに追い出されたか、燐のことで責められたか――軽口にも答えない。
「腰が立たぬのか?」
嫗の問い掛けに、川慈はかくんと上半身を前に揺らした。と、やにわに老婆の袂を両手で掴む。抱き上げてもらうのをせがむ童のように。
そして、腹があいた、と言う。
大人四人が川慈を囲み、全員が黙り込み、次に吹き出した。かすみは呆れるより他ない。嵐の夜に駆けつけ、その結果、腹が空いたとは。赤子の喃語じみた口調も殴り倒したかった。だが、嫗だけは川慈の前に屈み込む。あやすように。
馬鹿馬鹿しくなり、輪から外れようと一歩脇へ退いた。川慈の家くんだり来て、結果がこれ。〈白木の屋形〉から離れたことが落ち着かなかった。燈吾は、小色は、今どこにいるのか。
と。ずぬり、とした草履越しの感触が伝わる。
暗がりの中、足元を見下ろせば白っぽい何かが蠢いている。肥え太った山蛭か。気色悪いが、山ではよく見るものである。
山蛭は伸びをするようにふくらはぎへと這い上がろうとする。足を振れば、追いかけてくるかのように立ち上がった。何なのか理解できないまま、蹴り払う。と、触れた箇所からそれは裂けた。いや、逆だ。撚り合わされていたものがしゅるとほどけ、散らばったかと思えば、各々が先から地面に潜り込んだ。蚯蚓じみた、けれどもっと素早い動きに身の毛がよだつ。
……束ねられた白銀の糸。
田畑で、山路の途中で、娘宿の作業場で、黒沼の草庵で、その白糸は手足に、首に、巻き付いていた。それがオクダリサマの兆候なのだとしたら、なんとおぞましい。
自分がそそけ立つ横で、大人三人と呆けた男の問答は続けられていた。嫗はあくまで童に問い掛ける調子だった。
「腹が空いたのか?」
――ちがう。
「では、腹が痛いのか?」
――腹があいた。
「空いた?」
――腹があいた。目があった。わらっていた。
「……佐和はどうした?」
「佐和は、」
川慈は妻の名を口にし、訥々とした言葉を途切れさせ、正気付いたのか早口になる。
「――佐和が中にいる。助けてくれ」
「助ける?」
不可解を解きほぐそうとする嫗の問い掛けに、川慈は、みふね、と呟きを返す。そして喰らいつかんばかりの勢いで嫗に顔を寄せ、
「あいつ――あいつを殺してくれ、もう一度!」




