5-1情夫
〝 ……俺が変わってしまっても? 〟
夜明け前の草庵で、問答を交わしたことがある。
安是と寒田の禁忌とされる関係を不安になるかと問われ、否と答えた。そして次に夫はそんなことを問い掛けてきたのだった。
未だに、どんな意味があったのかわからない。あの時は、変わるはずないと一笑に付したが。
けれど、同時に胸に灯った想いがあった。
燈吾が変わったとしても、どれほど厭うても、自分は安是の女。暗紫紅の光が、何より己が身の恋情を照らし示す。その行末すら。
そして、この身が光り濡れるのならば、それは――
「燈吾、」
刃の切っ先を突き付けられたまま呼ぶ。彼は黒狐の面を被っていて、表情までうかがえない。その奥に潜む感情も。
青白の蛍火に刃の形状が浮かび上がる。幅広の山刀。燈吾は山刀の扱いに長けていた。獲った獣を捌くも、枝葉を薙ぎ払うも、草庵を手直しするも。
「……そうよ。殺した」
佐合は、かすみが天狼星と燈吾の蛍火を見間違え放った光を自身に昇らせたのだと勘違いした。安是男は度が過ぎた愚か者だ。もっとも、その自惚れに乗り、阿古の真似事をして息の根を止めた。
燈吾が憎い仇であるように視線で射抜く。無性に腹立たしくなって黒狐の面を剥ぎ取る。その拍子に、自ら刃を迎え入れて、切っ先が柔肌に沈むのも構わず。甘噛み程度の痛みだ。
面の下には、驚いたような、面白がるような、涼やかな目元があった。
いよいよ激しく暗紫紅の炎が燃え上がる。今は黒打掛もなく、真白の寝衣のみ。端から堪える気もなく。
四日四晩続けた宴には意味があった。
かすみ自身が〈白木の屋形〉から逃げるのは、監視があり難しい。ならば、燈吾に出向いてもらうしかない。
しかし、佐合に組み敷かれて絶体絶命に陥り悟ったように、燈吾に助けを求めるなどという愚を犯してはならない。最上の男を手に入れるためには、最低限、たった独り生き抜く強さが要る。
今のかすみには手札があった。オクダリサマという立場と、芳野嫗が用立てた金子。川慈や小色、二輔も使いようによっては、有用となる。
燈吾に安是に出向かせるには、かすみが〈白木の屋形〉にいることを知らしめ、次に安是での無事を確保しなくてならなかった。
その上で、来るか来ないかは賭けだった。
四夜目にして、燈吾は現れた。
宴が始まり、一時ほど過ぎた頃、目端に一人の男が引っ掛かった。いつもの書生姿ではなく、俯き加減でいかにも酔って寝入ったふうな里人姿。一体いつの間に紛れ込んだのか。
夫が目配せや仕草で合図を送ってくれたわけではない。だが、わかった。
この身が光り濡れるのならば、それは――燈吾しかありえない。天狼星との見間違えで懲りたのだ、疑り深くなった身体は用心しいしいけれど確かに反応した。
それからの半時は忍耐の時であった。今にも膨れ、溢れ、燃え上がりそうになる光を堪えて宥めて押し殺して。
そうしてようやく再会した背の君は、山刀を突き付けてくる。かすみは鋭い眼差しを返す。
「殺したのは安是男か」
「私にふれた。だから片を付けた」
ちゃらにしただけのこと。それでも苦いものが込み上げる。
くっと、男の喉が鳴り、喉仏が大きく隆起する。
「さすがは、物の怪の妻だな」
聞いた瞬間、もう、我慢ならなかった。
山刀を撥ね退け、空いた隙間を埋めるようにその首っ玉に抱きついた。自然と燈吾を押し倒す形になる。
懐かしい夏草の香りに陶然とした。わずかに身を離されたと思ったら、再び唇を支点にきつくきつく結びつく。このまま玉結びになってしまえばいい。舌が入り込み、絡み合って、互いの楔となる。青白の蛍火と暗紫紅の光気が混ざり溶け蕩ける。熱く、濃く、深く――
しかし、燈吾はこちらの両の腕を掴み、身を離した。
「一体、何が起きている?」
問う夫に、かすみは芳野嫗の昔語りを掻い摘んで話した。
安是と寒田の主従関係、山姫をくだらせて守られていた安是、無力な寒田が嘆願して得た〈妹姫〉の〈妹の力〉、それにより暴虐を働くようになった寒田の兄妹、兄妹を成敗するため安是では山姫のおくだりが待たれていること。
「この〈白木の屋形〉は山姫をもてなすための屋敷で、私は接待役――オクダリサマに選ばれた。里で一番光るから」
ほう、と燈吾は漏らした。子どもの手習いでも眺めて感心するみたいに。実際、
「それは、大したお役目だな」
そんなふうに嘯いてみせる。
安是で起きている騒動を燈吾がどう受け止めるか気にはなっていたが、やはり呆れているらしい。燈吾は先進的かつ合理的な考えの持ち主だ。彼は黒ヒ油や材木などの産業において、二つの里を融和させようとしているが、これでいっそ、安是から興味を失うか。
「察するに、オクダリサマとは神降ろしの巫女であろう。つまりは、依り代だ。山や海などの自然、あるいはそれらを転化させた神、その大いなる力を人の身に宿そうとする。ならばこの屋形はある種の社であり、もてなす、というのは、神の居心地を良くし、神降ろしの状態を長く維持することを指すのだろうよ」
夫は自分の想像をやすやす超えてきた。まさか、寒田者に山姫について見解を示されるとは。今まで聞いた中で最も飲み下しやすい。だが、疑問が残る。
「でも、巫女はすでにいる。芳野嫗が」
「役割分担があるのかもしれん。神主と巫女のように」
なるほどと思いつつ、やはり納得がいかなかった。というよりも反感がわく。どうして巫女たる嫗が自分に説明しないのか。要は、軽く、安く、かすのみ風情と扱われているから。
「芳野嫗には身体を検められた。念入りに」
「巫女の処女性か」
「身籠ってないか調べられた。安是と寒田の合の子が産まれたなら、安是も〈妹の力〉の支配下になる恐れがある。安是の血を穢すなとさんざ痛め付けられた」
しばし黙して燈吾を見据えた。涼やかな目元はよくよく見れば、落ち窪んでおり、薄墨を刷いたようにうっすら隈が浮かんでいる。
ふと思う。夫はここ数日、どこで何をしていたのだろうか。
燈吾はついと目を逸らし、立ち上がった。
不甲斐なさをなじられたと感じたか、男としての矜持を傷つけられたか、それとも妻への罪悪感の表れか。
「いくぞ。ここでは落ち着けん」
反射的に、目前で揺れた短袖を掴んだ。もちろん、安是の里と同様、〈白木の屋形〉に未練があるわけではない。けれど、棄てるより、何より前に。
「……お願い」
して、と。熟れた果実が落ちるように、哀願が滴った。
寝衣を自ら脱ぎ捨て、全身に光を纏い、光熱のせいで潤んだ瞳を向ける。ほんの少し、先だけでも良いから。
佐合も芳野嫗も検めも全部無かったことにしたい。穢れを祓い、洗い清めてほしい。そんな思いがまったくないわけではない。
しかし同時に理解している。燈吾という夫を得ても里への憎悪が無くならないのと同様、愛しい夫に抱かれたとて仕打ちへの怨みは決して消えない。
ならばどうして欲っするのか。
妻である証が欲しいのか、男を試そうとしているのか、寒田の子種を得て安是に復讐したいのか。
きっと多分、自分の中には大きな虚が穿たれている。
それとも、もっと単純な性、情欲なのだろうか。待ち焦がれて今日で四夜。いやもっと前から。もしも今夜、燈吾がやってこなければ――もしか。
そういえばと、駒と叶の意中の若衆真仁を呼び出していたことを思い出す。
燈吾が宴にまぎれていたからこそ、閨に呼んだのだが、やってくる気配はない。怖気づいたか、さきの二人へ操を立てたか。袖にされたのは腹立たしいが、結果的には面倒がなくなった。
見上げた夫はなぜか怪訝そうに眉根を寄せていた。そして、どこで覚えてきた、と独り言めいて問う。
「俺は教えた記憶がないぞ。そんな表情」
浮かんだのは赤光の女だ。
自分に交情の手ほどきをしたのは燈吾だ。けれど女としての性は阿古譲りなのか。ならば生来の気質が、水を与えられて芽吹き、開花しただけのこと。
燈吾の問いには答えず、かすれた懇願を繰り返す。慣らす必要などない、戯れなんかいらない、いますぐ欲しい。吹き上がる暗紫紅の光はなにより雄弁だった。
安是の女である己は、知っている。この情炎を拒否できる、捨て置ける男はこの世にいないと。
そして、二人は暗紫紅の業火へと身を投じた。




