第16話「忘れられた神」
妖精たちが信奉する古い神が、忘れ去られようとしている。妖精たちはすでに、神が宿る泉のありかさえ危うくなっていた。
神と人は一心同体。人が信仰を失えば、神は力を削ぎ落とされる。今の妖精たちの様子からして、神は消滅の危機に瀕している可能性が高い。
「マサト様、こちらです!」
〈千里眼〉の力をオグリの森全体へ広げようとするとかなりの時間と集中力を要する。まだ力の扱い方に慣れていないのだ。
俺がそうやって泉を探していると、セラウが手を引いた。
「見つけたのか?」
「わずかですが、神力を感じました」
セラウに導かれるまま、木々の間を駆け抜ける。ファナと妖精たちも、後をついて来た。
神力とは神々や天使が持つ力のこと。ファナたちが魔力を持つように、彼らも神力を持つ。しかし、ファナは膨大なセラウの神力を感知できない。そもそも、そのような力が存在することさえ知らないのだ。
神力を感知することができるのは、現状、俺とセラウに限られる。しかも、俺はまだ力の扱い方に習熟していない一方、セラウは生粋の天使だ。地上に降りたことでその力の大部分が強く制限されているとしても、神力を感じることはできる。
つまり、古の神を探す旅のなかで彼女はとても心強い。
「こっちだった」「そうだっけ?」
「神様はこっちだよ」「あっちかもしれない」
妖精たちが適当なことを言っている間にも、セラウは白い羽をパタパタと動かしながら走る。別に飛んでいるわけではないのだが、天界時代からの癖のようなものなのだろうか。
かなり大きな翼なのに、器用に動かして木々の隙間を軽やかに走り抜けている。
「見えまし……た……」
歓声を上げたセラウだったが、その言葉尻が途切れる。
彼女は深い森のなかで木々に囲まれている小さな土地の前で立ち尽くす。
「これが泉なのか?」
追いついた俺もその隣で呆然とする。
そこに泉はなかった。分厚い鉛の蓋が地面を覆い、その上から厚く苔が生えている。
いったい、どれほどの年月をそうしていたのだろうか。
「なんて、酷いことを」
遅れてやって来たファナが愕然とする。
彼女は鉛の封印の周囲を見て、更に目を見開いた。
そこに並べられていたのは、ひどく風化した石像だ。どれも細部が剥落し、丸くなってしまっている。それでも彼女が一目で正体を看破したのは、それのことを誰よりもよく知っているからだ。
「これは、炎星教の聖像です」
炎星教は多神教だ。常星を中心として、文字通り星の数だけの神が存在するとされている。鉛の封印の周囲に置かれていたのは、戦神や守護神といった戦いに関連する権能を持つ神々を模した聖像だった。
誰が、いつ、なぜ。妖精たちの聖地に鉛を流し、その周囲に炎星教の守護神を置いたのか。
「まさか……宣教師の話って」
思い当たるのはそれだけだ。そして、それだけで十分だった。
「……かつて、炎星教がその勢力を拡大し破竹の勢いを見せていた頃。その頃はオブスクーラの周辺にも多くの異教――土着信仰が残っていたようです」
ファナがしゃがみ込み、朽ちた聖像にそっと触れる。長らく祈られることもなく雨風に晒されていた石像は、それだけで細かく崩れた。
「遍く世を炎星の輝きで照らすべし。その目的と共に宣教師はあらゆる地域へと出向きました。炎星教が多神教であるのは、布教の際に現地の神を取り込んだためとも言われています」
けれど、宗教同士の接触は全てが平和に進むものではない。むしろ、生き方や考え方という生活の根幹にあるものが衝突すれば、激しい衝撃を伴うことの方が多いだろう。
「オグリの森を訪れた宣教師は、強引な手段で妖精を改宗させようとした。ってことか?」
聖地たる泉に蓋をして、その存在を隠した。そのうえで炎星教の神々を持ち込み、彼らにはその石像へ祈るよう促したのだろう。
そして、そんな傍若無人な行為が妖精たちの逆鱗に触れた。宣教師は腕や指や目を失って、高熱に苦しみながら死んだ。
迫害された神による祟りなのか、神を毀損された妖精による応酬なのか。それは重要ではない。なぜなら、神と人は一体なのだから。
「少し離れててくれ」
俺はファナたちを下がらせ、地面を覆う分厚い鉛の板に指を捩じ込む。そのまま力を込めて、随分と重たいそれを持ち上げる。
封印の下から飛び出して来たのは、鼻の曲がるような異臭だ。更に黒くどろりとした汚泥が溜まり、羽虫が無数に蠢いている。聖地とは思えない惨状にセラウが顔を青くしていた。
「セラウ、まだ神はいるか?」
「え、ええ……。微弱ですが、神力が漏れ出ています」
それなら、まだ間に合う。
「マサト様!? 何を――!」
「少し、待っててくれ」
俺は酷い臭いを放つ泥に足を入れる。生ぬるい水温に包まれながら、構わず底へと沈んでいく。やがて頭まで全て沈み、それでもまだ沈み続ける。もはや泉の領域を越えていることは分かっていた。
天界というこの世ではない場所を体験したからか、沼の中にまた違う世界が広がっていることが直感的に理解できていた。崩れかけた草庵のようにみすぼらしい世界だが、まだ僅かに力を宿している。
全身を痺れさせる毒のような泥を掻き分けて、その小さな世界へとたどり着く。
「酷いな」
絶えず汚泥が流れ込み、蝿と蛆虫がのたうち回っている。明らかに健全とは言い難い。そんな世界の中心で、うずくまるようにして動かない神がいた。
「急な来訪で申し訳ない。俺はマサトという者だ。オグリの清泉の主とお見受けするが、間違いないか?」
相手は俺よりもはるかに長く、神として君臨していた存在だ。たとえどれほど力が削がれようとも、それは軽んじて良い理由にはならない。できうる限り丁重に、挨拶をする。
しばらく居心地の悪い沈黙が流れる。
「……おまえ。おまえ、か」
やがて、神がもぞりと体を動かした。
深く曲がり骨の浮き出た背中に、濡れた薄い翅が生えている。全身の肉が腐り落ち、悍ましい見た目をしているが、最盛期には妖精たちの神に相応しい容姿をしていたことも良くわかる。だからこそ、今の衰弱した姿が痛ましい。
彼は泥と毒と虫を流しこまれ、鉛の枷を全身に嵌められていた。神力の大半を削ぎ落とされ、それでもなんとか生きている。忘れかけてはいるが、完全に忘却したわけではない妖精たちの、細い糸のような信仰で生きながらえている。
「俺は、炎星教の主神である常星の化身。俺自身にそれほどの力はないが、やがては新たな星を打ち上げようと考えている。そのための方法を授かるため、あなたを探してやって来た」
暗闇の中からこちらを見る瞳は憎悪に満ちていた。自分をこのような姿に変えた者を、俺を通して見ているようだった。
「あなたがかつての信仰を取り戻せるよう、尽力する。また、謝罪もしたい。だから、力を貸してくれないだろうか」
「う、ウウウ……」
古い泉の神は歯を擦る。俺を睨んで、低く唸る。
その姿を見て、俺は対話による解決を諦めた。力を落とし、憎悪に飲まれた神は、堕天した魔神となってしまう。人の願いを聞き届ける余裕を失い、魔を振り撒く存在へと成り果ててしまう。
「申し訳ないが、これも仕方ない」
俺は杖を握り、先端を魔神へと向ける。
「魔を祓い、水を清めよう。あなたが再び神の座へ戻る一助となろう」
「ウガアアアアアッ!」
獣のような咆哮を上げ、口を大きく裂いた魔神が走り出す。
かつて神と信じられていた異形を救うため、俺もまた動き出す。




