1
その日、一人の若い士官が亡くなった。
住んでいた寮の火事に巻き込まれ、海軍兵学校を首席で卒業した青年が亡くなったという知らせは一時帝都中で話題の種となっていた。
しかし人の噂も七十五日、すぐに大衆の興味は他へと移っていく。今ではこの話をする者などどこにもいない。
※
帝国ホテルのエントランス。大谷石に囲まれ、吹き抜けとなっているその空間は優雅な雰囲気が漂う。上の階から光が差し込み温かく穏やかな時間が過ぎるこの場では、様々な国籍の富裕層が話に花を咲かせている。
故にこの場にいるほとんどの人間はこれから起こることを予想だにしなかった。
エントランスを一望できる二階の片隅。そこに置かれた椅子に座る青年は先ほどから熱心に新聞を読んでいる。上質そうな背広を着て、髪を整えたその青年は一見すればどこかの商社に勤める俸給生活者としか思えない。現にその横を通り過ぎる人々も一切に気にかけている素振りはない。それほどまでにこの場に馴染んでいる。
だが見る者が見れば民間人でないことがわかるだろう。
新聞に注がれているように見えるその視線はその実、下の階へと向けられている。正確に言えば、新聞に隠された一枚の紙に映されている階下の様子を注視しているのだ。今も青年が視線を動かしたのに合わせて階下に置かれた式神が移動している。
しかし朝からそこに座って誰かを待ち続けていた彼にとってこの時間は退屈そのものであった。
「外れか……」
周囲の誰も聞き取れない程小さな声で青年が呟いた次の瞬間、視界が暗転した。つい先ほどまで長閑だったエントランスは一瞬にしてパニックに陥いる。
石油ランプだけでなく、日光まで遮られたことが事態の異常さを際立たせ、混乱をより大きなものにしていく。既に混沌した状態のエントランスでは従業員の呼びかけと多様な言語が飛び交い、収拾がつかなくなっている。
だがその混乱の中で唯一人、落ち着き払った男がいるのを青年は見逃さない。
青年は男を見つけるやいなや、慌てふためく人込みを掻き分け、手摺を乗り越えて下の階へと飛び降りる。
一方で見つかった方の男はそうとは知らず、パニックに陥っている一人の欧米人へと距離を詰めていく。本来であればその周りを取り囲んでいるはずの屈強な大男たちも何故か今は眠ってしまい、職務を果たせていない。
無防備な欧米人とその男の距離が十メートルを切ったところで、男は右手を前へと突き出した。そしてブツブツと何かを唱え始める。
「……Hyacintho flamma, gerunt hostem」
男が唱え終わると欧米人の背中を目掛けて蒼い炎が放たれる。暗闇の中で輝くその炎はその場にいた全員の目を引いた。傍から見れば人魂にも思えるような不気味な光は高い殺傷力を維持したまま一直線に飛んでいく。
―しかしそれが人を殺すことは無かった。
「癸卯」
青年の声に応じて何もなかったはずの空間に水流が生まれる。
その水流と衝突した蒼炎は一弾指の内に勢いをなくし消滅した。
「っ……」
そこで初めて自分が見つかっていたことに気づいた男は慌てて駆け出した。即座に反応した青年も当然その後を追う。
自分を追ってくる青年に対して激しい警戒感を抱いた男は躊躇うことなく魔術を行使する。
「Protege me, murus ignis」
今度は赤い炎の壁が青年の行く手を阻むように現れる。創設されたばかりの消防官ですらためらうであろうその業火に青年は臆さず突っ込んでいく。
「壬寅」
今度は青年を取り囲むようにして水の膜が出来上がる。この防御に自信を持つ彼は迷わず炎の壁を走り抜けた。現に水に守られた青年の背広は焦げ跡一つついてない。
「What magic……」
見ずともわかるその魔力に対して男は腰が引けている。
そのため既に男の意識は先程の様に妨害するのではなく純粋に逃走へと集中していた。
帝国ホテルの広い玄関を通り、外へと抜ける。するといきなり元の様に視界が開けた。日の光すら入らなかったエントランスから一歩外へと出るだけでここまで極端に変わるということは普通であればあり得ない。
「最初から仕込んでいたな……」
青年は相手の周到さに少し感心しながら追い続ける。
脚の速さの違いは歴然であったため、このままいけば通りへ出るところで確保できると確信していた青年はどこか余裕を持っているようにすら見える。
だが男は想像以上に用意周到な性格のようである。
通りへ出た途端、男は待ち構えていたバスへと飛び乗った。そしてそのまますぐにバスは発車する。いくら足が速くとも車に追いつくことは出来ず、みるみるうちに距離を開けられていく。
この時代に普及し始めたばかりのバスという手段は青年にとって予想外のものであった。
人の目がある大通りではバスを破壊するわけにもいかず、その場に立ち尽くす。
しかしその顔には未だ余裕の色が見える。今もなお式神は男を追跡し続けているという事実が彼にゆとりを与えているのだ。
青年はしばらくそこで息を整えてから再びゆっくりと歩き出す。
左ポケットから取り出した紙で式神の居場所を確認しながら、彼は上官の命令を思い出していた。
※
「失礼いたします」
部屋の中には如何にも軍人といった雰囲気を纏う初老の男性が座っている。霞ヶ関に居を構える海軍の総本山、海軍軍令部。その建物の一室をあてがわれていることから目の前の人物がそれ相応の階級だと容易に想像がつく。
「来たか、有馬寛治少尉。いや今日からは土御門晴賢少尉か」
少尉と呼ばれた青年は凡そ軍人とは思えない出で立ちである。
まず制服を着用していない。トレードマークとも言える白の制服ではなく全身灰色の背広を着用している。さらに比較的頭髪の規則が緩い海軍にあって一際髪が長く、正帽も着用していない。顔立ちも優し気であり、威圧感や殺気など一切なく誰も彼が軍人だとは信じないだろう。
しかし最も驚くべきは、入室してきた青年が亡くなったはずの例の士官と瓜二つであるということだ。
至らないところが多々あると思いますが、楽しんでいただければ何よりです。
よろしければブクマや評価を付けて頂けると励みになります。