1.
「暑いわね、今日も」
私のベッドに歩み寄った若い看護婦が、ため息混じりに呟いた。
「もう9月なのに。ここ、空調の調子が悪いのよ。残暑っていうのかしら」
看護婦は微妙な沈黙を要所に挟みつつ、ざっとそんな話題を転々、点々と口にした。
「あんたって大変よね。まばたきが出来ないんでしょ? こんな壁も天井も真っ白な部屋で…秋の陽射しが目に沁みるでしょ?」
手にした注射器に透明な薬品を吸わせながら、看護婦は私に尋ねる。
私は何も答えない。
1日に何度も顔を合わせるこの看護婦に対し、私は今まで、一言も言葉を返したことが無い。
これからも、返すことは無いだろう。
看護婦も、それを知っていた。
それなのに、何故だろう。
彼女はこうして、私に質問を続ける。
垢抜けた茶髪や丁寧な化粧のされた可愛らしい顔によく合う、澄んだ声で。
時折、静かな毒針を含んだセリフを交えて。
「……ねえ」
注射器を指で軽く弾きながら、看護婦は僅かに明るめた声で、私に呼びかける。
「あんた、自分で包帯替えてくれない? けっこう鬱陶しいのよね、あの作業――あ、ダメだ。あなた、手が動かないもんね」
看護婦は、愛想笑いによく似た軽やかな笑声を零す。
「笑ってみせて? ムリよね。まばたきも出来ないのに。じゃあ、反論してみて? ……そっか、唇が動かないものね」
私は沈黙を続ける。
くすくすと笑いながら、私の腕にアルコールを塗る看護婦。
細い指が私の肌を抑え、渇いた痛みと共に、冷たい注射針が腕の中に沈んだ。
私は、この看護婦が好きではない。
彼女は私が好きだ。誰にも知られず、あまりに背徳的な気分を楽しめるオモチャとして、私を好んでいる。
彼女はこの後、髪型を成すみたく私の頭に巻かれた包帯を替え、病室を出て行く。
病室の扉を開けた瞬間、彼女はいつもの彼女に戻る。
私を振り返り、
「それじゃ、伊崎さん。また後で」
と言って、優しく微笑む。
綺麗な笑顔を、仮面みたいに張り付けて。
私の名は、ツバサと言う。
16歳だ。
この病院に入ったのは四年前で、この病室は一年目だ。
私は閉じこめられている。 まばたきも出来ずに、渇いた眼球の水分補給さえ、他人の手に任されている。
生暖かい水滴を私の目に与える小さな器具が、眼球を撫でても……痛みさえ、私は言葉に出来ない。
でも、私は知っている。
これは、私の本当の姿ではない。
私を取り巻く世界は、私にとって、本当の世界ではない。
私は知っている。
揺るぎない自らの真実と、世界のウソを。
私は、天使だ。
……ふと、
私の視界を闇が蝕む。
瞼が閉じてゆく…?
これは…まばたき?
まばたきだ。
珍しい。
今日は、自分でまばたきが出来る。
この前は確か、122日前の水曜日。
数えると…今日で、11回目。
縁起がいい…今日は、今日こそは……。
その時。
病室の扉が、静かに開かれる音を、私は聴覚の隅に聞いた。
私の首が…音を追って、動いた。
扉に視線を向ける。 少年が佇んでいた。金髪で色白の……。 驚いた。なんて綺麗な人なんだろう。
それは秋の陽射しに金髪を淡く輝かせた、絶世の美少年だった。
氷細工か彫像のような美貌にうっすら微笑みを浮かべている。
その笑顔は、まっすぐ、私に捧げられていた。
「久しぶりだね、ツバサ…」
少年は愛おしげに私の名と、再会の言葉を呟いた。優しくて、神の唄みたいに耳を癒やす声だった。
そして、その手に持つものを煩わしげに床へ捨てる。
手に持つもの、持っていたもの……
私と少年が見つめ合う間、少年に髪を掴まれ、引きずられていた女性。
先ほどの看護婦だ。…恐らく、そのはずだ。
彼女は泣いている。小さな、言語とは言い難い奇妙な声で、仕切りに唸っている。
粟立つ、汚い声。
豚か山羊みたいな声だ。必死に喋ろうとする舌の無い生き物みたいだ。この人、泣いて……
……鳴いている?
看護婦の制服は、血と肉片にまみれてグシャグシャだった。
彼女の指が全て切断されているのは、すぐに分かった。
驚かされたのは、顔だ。
丸く見開いた眼…白目が滴る血に赤く染められても、じっと開き続ける眼。
瞼が無い。きれいに切り取られている。
口元も同じだ。歯が真っ赤に染まり、看護婦が声を出すたび、口の周囲は芋虫みたくクネクネと変な動きをする。
唇も無い。ちぎられている。
床に転がった看護婦を、ふと少年は見下ろした。
「ツバサにヒドいこと言ったみたいだから、お仕置きしたよ。ゴメンね、勝手に」
少年は、私を知っている。親しげだ。
だが…私は、彼を……。
「あなた、誰?」
私は迷いながらも、はっきりと尋ねた。 その声はどこか冷めていて…私は少し、後悔した。少年の顔は、さっと悲しげになったのだ。
私は繕うみたく、言葉を続ける。
「知らない……いえ…。思い出せないのね、私……。あんなに好きだった人の名前」
その言葉を聞いて、少し迷うと、少年は顔色を明るめた。
「僕はアイ。天使だよ」
涼しげな美貌を、子供みたいな屈託ない笑みに染めて、少年……アイは言った。
天使。その言葉に、私はアイを見つめ直す。
彼は変わらぬ笑みに僅かな真剣味を添えて、まっすぐに私を見据える。
「ツバサを迎えに来たんだ。行こう……もう一度、飛ぶんだ。僕と、一緒に…」
……思えば私は、
この瞬間を何より待ち望んでいたのだ。
誰もが信じる世界の嘘と、私だけが知る自らの真実が、入れ替わる…この瞬間を。
私は、頭に巻かれた包帯を掴む。
嘘で私を縛る、煩わしい白の鎖をほどき、床に投げ捨てる。
私の長く艶やかな黒髪が現れた。
柔らかく揺れながら、私を本当の姿に戻す。
「綺麗だよ…ツバサ」
アイの甘い声を耳に、私はベッドを下りる。
「…さよなら」
床に転がる看護婦に、小さな挨拶を済ませると、私は扉を開けて待つアイの元に歩み寄る。
自分の足で歩き…自分の手で、扉を閉める……。