最終章 「幻ではなくなったラーメン屋」
この両者との縁が意外な形で蘇ったのは、明くる年の4月だった。
あの紀州亭は、再建されたのだ。
立派なラーメン職人に成長した息子の手によって。
かつてと同じ所に店を構えたものの、花火工場跡地を駐車場として確保する事で、遠方からの客にも対応出来るようバージョンアップされたのだ。
それでいて、店構えは10年前を彷彿とさせる庶民的な佇まい。
壁に貼られた短冊状のメニューに、カウンターやテーブルに置かれた鯖寿司や茹で卵のサイドメニュー。
何から何まで、往時の姿その物だ。
そんな紀州亭で、俺は鯖寿司と茹で卵を肴にチョイ呑みと洒落込んでいた。
ラーメンが来るまでこうして待つのも、悪くはないな。
「貴方も来ていたんですね、滝谷さん。」
ビールを手酌していた俺は、聞き覚えのある声に呼び掛けられたんだ。
「君もな、露亜。」
「エヘヘ…どうも。」
暖簾を潜ったポニーテール頭の少女は、照れ臭そうに笑って隣のカウンター席へ腰を下ろすのだった。
「こっちの子にも、チャーシュー麺を1つ。出来たら、俺のと同じタイミングで仕上げてくれると助かるよ。」
「ああ、ちょっと!勝手に注文決めないで下さいよ!私、今月お小遣いがピンチなんですから!」
露亜の奴、血相変えて俺に食って掛かりやがる。
まあ、高校生の小遣いなんて知れてるからな。
スマホ代にコスメ代、ゲームや遊興費ですぐに消えちゃうんだろう。
「しがない不動産屋のリーマンでも、子供に奢ってやる金はあるんだよ。」
これが大人の余裕って奴だ。
とは言え高校生相手に粋がってるようじゃ、俺も嵩が知れているな…
「そういう事なら…頂きます!」
現金な奴だが、コイツと同席したなら同じメニューを食べないとな。
再会した露亜にオレンジジュースを奢ると、俺達はノベルティのガラスコップで細やかな乾杯を挙げたんだ。
名目は勿論、紀州亭の再建だ。
チャーシュー麵1杯に、オレンジジュース1瓶。
随分と気前よく奢ったが、これ位の散財なら罰は当たらないだろう。
そもそも露亜がメールを送ってくれたからこそ、こうして俺は紀州亭の再建を知り得た訳だし。
「お待ち遠様です、チャーシュー麺2つ!」
あの夜と違い、若々しくて溌剌とした声。
だが、湯気立つチャーシュー麺の味は同じだった。
あの気さくな親父が作ってくれたのと。
「凄い…何から何まで、寸分違わぬ出来ですよ!」
スープを飲み干した露亜が、感極まったように呟いている。
ほのかなピンクに上気した頬が、意外なまでに色っぽい。
「ありがとう御座います。親父のレシピが残っていたから、こうして再現出来たんですよ。死ぬ半年前に全メニューを記録し、貸金庫に残してくれたんだとか。」
若き2代目店主の言葉に、俺の胸には何とも言えない思いが湧いてきた。
別れ際の親父の一言ってのは、この事だったのか…
「でも…僕だけの力じゃありませんよ。父さんの時代に通っていた常連さん達に、何度も味見をして貰って、ここまでこぎ着けたんです。」
「私達は紀州亭のラーメンが好きだったからね。今じゃ、もうすっかり先代さんの味だよ。」
テーブル席にかけていた布団屋の親父が口火を切るや、他の客も示し合わせたかのように笑顔で頷いた。
白髪や皺も増えてはいるが、10年前の世界で会った常連客達に違いない。
彼らも10年越しで待っていたんだろうな。
「父さんの店と味を受け継いで、父さんの代からの常連さんに喜んで貰えていると、父さんに見守って貰えているような気がするんですよ。」
感慨深げに呟く2代目の頭上には、焼ける前の紀州亭をバックにした先代店主の写真が飾ってあった。
写真の中の先代店主は、今の息子と同じ位の初々しい顔をしている。
開業間もない頃に撮ったんだろうな。
「んっ…?!」
だが、写真額の中にいる親父が満足そうに笑って頷いたのは、一体何だろう。
デジタルフォトフレームでもあるまいし。
他の常連客は気付いていないようだし、俺の見間違いだろうか…
「た、滝谷さん…」
こっちを向いた露亜の顔が、サーっと青褪めている。
どうやら彼女も、同じ物を見たらしい。
あれは間違いなく、先代店主の幽霊だ。
だが俺には確信があった。
もう2度と、幽霊のラーメン屋が営業する事はないと。
和歌山の豚骨醤油ダシと紀州亭の誇りは、この若い2代目に確かに受け継がれているのだから。
道を踏み外しそうな夜の客は、この若い店主や常連客達が、きっと救ってくれるに違いない。
何時ぞやの俺や露亜みたいに、危なっかしい足取りで夜の街を歩く連中を。
あの親父の魂は、この店の守護霊として見守り続けていくのだろう。
暖簾を守る若き店主と、変わらぬ味を愛する常連客達を、穏やかな眼差しで。
その常連客の中には、俺と露亜の2人も入っているはずだ。