第5章 「ラーメン職人の信念」
やがて、常連客と思わしき布団屋の親父が退店する事で、紀州亭の中にいるのは店主と俺達の3人だけになったんだ。
「あの、おじさん…信じて頂けないとは思うのですが、私の話を聞いては頂けないでしょうか?」
鯖寿司に伸ばした手を引っ込め、露亜が改まった面持ちで切り出した。
俺達が10年後の未来から来た事を。
これから半年後には近くの花火工場が爆発事故を起こして店が丸焼けになり、親父も焼死してしまう事を。
そして俺達が元の時代で、親父の幽霊にラーメンをご馳走になった事を。
洗いざらい、ぶちまけた。
「そうですか…そこまで思って頂けたなら、ラーメン屋冥利に尽きるって物ですよ。」
全てを聞き終えた親父は、意外なまでに落ち着いていたんだ。
「驚かないんですか?俺達の話を?」
「少し前にも、成長した息子を名乗る若い男がやってきましてね。最初はイタズラかと思ったんですが、息子しか知らない事を幾つも言い当てるんだから、信じざるを得ませんよ。」
露亜が示した新聞の切り抜きと全く同じ記事を、親父はカウンターに広げて見せたんだ。
未来の息子を名乗る青年から、渡された品らしい。
「避難しないんですか?このままじゃ…」
俺の問い掛けに、親父は笑って首を横に振った。
「死んだ女房と一緒にやってきた、思い出ある店です。今更離れたくありませんよ。ここにいると、女房がいるみたいでね。」
まさかとは思うが、親父は奥さんの幽霊に憑かれているのではあるまいか。
「それに私も、もう永くなくてね。」
話によると、親父は不治の病に冒されていて、医者も匙を投げたらしい。
「息子は学校へ通うために下宿しているから、ここが燃えても死ぬのは私1人。死んで幽霊になってもラーメン作ってるなら、本望じゃないですか。」
未来の息子でも覆せなかった、ラーメン職人としての信念だ。
赤の他人である俺達に、これ以上どうこう出来る事じゃない。
次の混雑のピークが来る前に、俺達は退店する事にしたんだ。
「私の事は悲しまんで下さい。この店のラーメンなら、そのうちまた食べられますから。」
暖簾を潜って頭を下げた俺達を、こう言って親父は見送ったんだ。
湊駅に着くまで、俺達は殆ど口を開かなかった。
-爆発事故を起こすであろう花火工場に、忠告してはどうか。
そんな俺の提案は、あっさり露亜に却下された。
「工員さん達が信じてくれるとは思えません。悪質なイタズラか営業妨害と思われるのが落ちです。この時代で通報されたら面倒ですよ。」
こう言われては、身も蓋もない。
そして往路と同じ方法で、俺達は現代へ帰還した。
露亜の言う通り、元の時代で買った切符が役に立ったよ。
念のため、紀州亭のあった場所へ赴いてみたが、前に見たのと同じ空き店舗のままだった。
この時代の紀州亭は、生者の世界とは別の次元に存在しているのだろう。
生きている俺達が入店出来たのは、奇跡だったのかもな。
「そのうちまた食べられるって言ってたけど、どういう事だろう。」
「分かりません、私には…」
都市伝説愛好少女でも、解説出来ない怪現象はあるって事か。
「俺達が幽霊になれば、あの店にまた行けるって事かな?」
「そんな事、あのおじさんが望む訳ないじゃないですか!」
モラルある常識的な返事は、思いの外に強い口調だった。
都市伝説を茶化す罰当たりなイタズラをしていたとは、とても思えない。
露亜と別れた俺は、豚骨醤油ダシと鯖寿司の余韻に浸りながら、言いようのない無力感を味わっていた。
「俺達はラーメン屋の幽霊の力になる事も、生きていた頃の親父を助ける事も、出来ないのか…」
俺の呟きに、答えてくれる者はいない。
そうして帰宅し、また元通りの日常に戻っていく。
紀州亭のラーメンとも、都市伝説を愛する変わり者の少女とも、もう縁は無いと思っていた。