第1章 「見つからないラーメン屋」
飲み放題となると、つい飲み過ぎてしまうのが俺の悪い癖だ。
特に今日は、会社の忘年会と2次会で羽目を外し過ぎた事もあり、すっかり泥酔状態の有り様だった。
「度数のキツいカクテル5連発が効いちまったな…後から足に来やがる…」
ほとんど千鳥足の俺だが、理性の欠片は微かに残っている。
「ああ…トイレはないか…」
今すぐスッキリしたいのは山々だが、道端でぶちまけるなんて不作法な真似だけは避けたかった。
しかし、公衆トイレのある公園は何処だか分からないし、こんな酔漢ではコンビニも願い下げだろう。
「あんた、大丈夫かい?うちのトイレで良ければ貸したげますよ!」
暖簾を片付けようとしていたラーメン屋の親父に呼び止められなかったら、俺も危ない所だったよ。
トイレを借りてスッキリした事で、俺の理性も回復しつつあった。
「お蔭で助かりました。親父さん、ありがとうございます!」
尤も、どうにか真っ直ぐ歩けるってレベルだし、未だに酔いが回っている状態である事には変わりはないのだけど。
「空きっ腹だと身体に悪いよ。何か入れといた方が良い。余り物で良ければ安くしときますよ。」
言われてみれば、さっきの一件で胃の中はスッカラカン。
俺は親父の御厚意に甘える事にした。
「うちのは和歌山風でしてね。口に合うと良いんだけど。」
親父がカウンターに置いた白い湯気立つ丼を覗き込んでみると、豚骨醤油仕立ての濃厚なスープを確認出来たんだ。
そこまで詳しいラーメン通って訳じゃないが、和歌山ラーメンとして正統派の作りをしている事は確かのようだ。
「おっ…!」
レンゲで掬ったダシを啜ると、醤油の深みとコクに思わず声を出してしまう。
縮れのない細い麺は適度に柔らかく、シンプルな具にもダシが充分染みていた。
「おっ、これは…」
箸を進める手の勢いは、少しは緩まない。
麺を食べ尽くした丼を傾けると、一気に飲み干したダシが喉を通り抜けて、実に心地良い。
「ああ…良いダシだ…」
身体の芯から熱くなってきて、思わず洩らした溜め息も、さっきの湯気みたいに真っ白だった。
酒が入っていたとは言え、俺のリアクションは相当オーバーだったみたいだ。
「良い食べっ振りだね、お客さん。前に来た御嬢さんも、そんな感じで食べてましたよ。」
カウンターの向こうにいた大将に、こうして笑われちまうんだから。
「旨いラーメンでしたよ。こんなヘベレケの状態で食べたのが、申し訳ない位だ。」
こうして酔った状態だと饒舌になるし、本音も出やすくなる。
「そう言って貰えるのは有り難いけど、飲み過ぎは身体に毒ですよ。急性アルコール中毒にでもなって倒れちゃ、親御さんも泣くになけません。」
「そうっすね。シラフの時に、また出直します。」
大将の忠告を有り難く聞きながら、俺は暖簾を潜って店を後にした。
「ほう…紀州亭ね…」
支払いの時に手帳へ挟んだ箸袋を取り出し、店名を確認する。
こうして酔った頭じゃ、マトモに記憶なんて出来ないからな。
無事に帰宅して酔いを覚ました俺は、穏やかな年始を過ごしながらも、あのラーメン屋に行きたくて仕方なかった。
もっとも、ああいう個人経営なラーメン屋は年末年始をシッカリと休んでそうだからな。
松の内が明けるのが、妙に待ち遠しかったよ。
仕事始めを迎えて最初の土曜日。
俺は箸袋の住所を頼りにラーメン屋を探そうと、湊駅周辺を散策していた。
勤務先の不動産屋は堺駅近くだから、酔った俺は一駅分歩いた事になるな。
しかし、例のラーメン屋はどれだけ探しても見つからないし、箸袋の電話番号にかけてみても、「この電話番号は、現在使われておりません。」のメッセージが流れるだけ。
箸袋にある住所へ行くと、潰れたインド料理店屋のシャッターに「貸し店舗」って看板が貼ってあったんだ。
「何だよ、これ…」
酔っていたとは言え、周囲の街並みに見覚えはあるし、箸袋の住所は確かに此処を指している。
「夢でも見たのか?いや、そんな…」
その時の俺は、まるで狐に化かされたような思いだったんだ。
「お兄さん、もしかしてラーメン屋さんを探してませんか?」
艶やかな黒髪をポニーテールに結い上げた女の子が俺に話し掛けてきたのは、そんな時だった。
「私も探しているんです、和歌山風のラーメン屋さんを…」
あどけなさの残る面持ちには、真剣その物な表情が浮かんでいた。