彼が私に望む事
明日の昼前には船はアンティゴアの港に着く予定であり、私はあどけない寝顔を見せるおしゃまな姫君を眺めながら彼女のように強くなりたいと考えていた。
「いえ。この子は強がっているだけね。ちびお君がちびこがいないって泣くから、それでフィレーナまでも泣いてしまうから、この子は私達と一緒に来たのよね。」
私はアランドゥ―ラ姫の美しい頬に貼り付く彼女の美しい髪、今では顎のラインにぱっつりと切り揃えられてしまった髪を、眠りこける彼女の頬からそっと剥がしてあげた。
「本当に良い子よね。この子は。混乱するお母さんとお兄さんだった弟の為に綺麗な髪まで切り落として三歳の頃の髪形にしちゃって。あのベイルちゃんが必死でこの子を追いかけるはずよ。彼は今までにない騎士道精神に溢れているのだと思うわ。絶対に彼女を守り切るって男の心構えね。」
私は猫よりも神出鬼没なディーナに片眉をあげて見せて、ここは女専用の寝所だったはずだと彼に伝えた。
お姫様を起こさないように囁き声で。
「ふふ。本当に君は私に自信を取り戻させてくれる。」
彼は私達の部屋から出ていくどころか、ベットが少しも揺れなかったぐらいに自然な動作でベッドに腰を下ろし、なんと、私を彼の腕の中に引き込んだ。
「声を出したら可愛い子が起きてしまう。」
私はディーナの囁きに自分の口元を反射的に押さえてしまったが、ここはアランドゥ―ラ姫に起きて騒いで頂いて、ディーナを追い出すべきだったのでは無いのだろうか。
「ああ、しまった。今すぐ声をあげなきゃ!私を離さないと声をあげるわよ!」
囁き声でもディーナに強く言ったはずだが、ディーナは私を解放するどころか含み笑いで小刻みに体を揺らすだけだった。
「ふふ。本当に君は可愛い。私は君を妻にできたらと本当に思っている。」
「はひ?」
真っ赤な髪は船内のランプによって赤い光を滲ませて輝いており、彼の褐色の瞳は琥珀にルビーが混ざったようだ。
赤伯爵という称号の為に生まれたと思う程に炎の精霊のような美しく神々しい男は、しなやかな葦のような優雅な動きをして、そして見惚れてしまった私を完全に拘束してしまった。
ああ、この美丈夫から自分を守らなければ!
「ディーナ。私はノーマンを選んでしまったの。シュクデンからクロ―ドリアに向かう馬車の中で、私はきっと彼に恋をしてしまったのだわ。だって、彼は非常識で図々しくて、それで、とっても目が離せない男だったのだもの。」
「ははは。知っている。君がノーマン一筋だって事ぐらい。そして、私には振り向かないって事も知っている。それでも、私は君に自分の恋心と本気を知って欲しいし、ああ、永遠に二番目でも構わない。君が逃げ出したくなったら私に頼ってくれ。必ずアンティゴアの地から君を逃がすと約束する。」
ディーナは私の為に何でも裏切ると誓っているのだ。
そして彼が私に差し出したこの約束は、アンティゴアの地は私には不幸しか呼ばないと彼が確信しているからこそなのでは無いのだろうか。
私はディーナを押しのけるどころかディーナをおずおずと見上げてしまい、私を抱き締めて見下ろしていたディーナの顔を真っ直ぐに見つめる事となった。
雷に打たれてしまったかと思う程に私の鼓動は跳ね上がり、私は彼が初めてディーナではなく本来のデイモンとして私の前に現れたのだと思い知らされた。
私の目の前にいて私を抱き絞める男性は、私が知っていた気安いディーナでは決してない。
彼は伯爵という名の捕食者だ。
「はひ。」
「ああ、可愛い。本気で君を食べてしまいたい。」
私の唇はデイモンに奪われて蹂躙され、彼のその行為は修道院でノーマンに唇を奪われた記憶と重なった。
いや、重なりながらそれは全く違うキスだと私の頭の奥底ががなっている。
嫌がって彼を押しのけるべきなのに、体には火花が散っているような感覚で体がしびれて動かない。
けれどデイモンによる濃厚なキスは私の脳みそが正常に動く前には終わり、デイモンはキスが終わるやすぐに私を解放したが、いや、呆けている私の膝に頭を乗せて完全にベッドに転がってしまったのである。
私はデイモンの一連の動きを全て認識はしていたが、解放されても彼からのキスに混乱して体が固まったままである。
デイモンはそんな私の状態に軽く吹き出すと、気安そうに片眼を瞑って見せた。
「君には選択肢は沢山ある。それを忘れないで。そして、自分を一番に考えて欲しい。ふふ。私を選んでくれたら私は最高の幸せ者だけど。」
「あなたはアンティゴアを私の為には裏切ると言っているのね。捨ててしまえると言っているのね。そして、ノーマンは私の為にアンティゴアを捨てることは決して出来ないのだと。」
「ええ。彼はあなたのお父様の死で王位継承権第一位に、つまりアンティゴアでは青王子と呼ぶのだけど、彼はなってしまったでしょう。」
「どうしてそれがわかったの?父様の死は秘密だったでしょう。」
「ノーマンのあの瞳の色は独特でしょう。あれはアンティゴアの王と青王子だけのものなの。青王子になると自動的にあの瞳になってしまう。不思議な一族だよね。もしかしたらアンティゴア王の一族はジークのように古代人の血が濃いのかもしれない。実は獣王族だった、とかね。」
「もう!でもベイルは青い瞳のままだわ。」
「判定中だからじゃないかな。神様達の。君は第三王子の娘でベイルは王弟の孫でしょう。うーん、どちらの方が王座に近いんだろうってね。」
「まあ。男の子のほうが優勢じゃ無いの?」
「アンティゴアは女王様もいたよ。さあ、ここからが本題。さあ、聞いて。むかしむかしのアンティゴアの陥落時、王と第一王子は処刑されて、王となった第二王子はアンティゴアの王城地下に幽閉されていました。
彼を慕う国民の誰もが第二王子を恥辱から解放してあげたくとも、行方不明の第三王子が他国に捕らわれていたらと考えると誰も実行など出来なかったのです。
そんな絶望の中で、幼い王子の目に変化が起きた!
ああ、ようやく第二王子、レイザン様をお救い出来る!
レイザンを慕う従者達は彼の救出へと剣を持ってアンティゴア城へ次々と突撃し、そして、彼等の王を剣で串刺しにしてこの世の恥辱から解き放ってさしあげたのです。」
私はすっと背筋が凍っていた。
ディーナが物語めかして語るアンティゴアの過去は、ノーマンは王冠という名の奴隷の鎖そのものでアンティゴアに繋がれているという告白ではないか。
――諦めていた夢の人。
彼はアンティゴアの為に誰かに恋する事こそ諦めていたのではないのか。
「ああ、ノーマン。」
「わかったかな。彼は彼を王に望み、いや、アンティゴアの再興だけを彼に望んでいる怖い爺達が付いているんだよ。王である彼が一抜けする事を許さないぐらいの人達だ。彼を殺すぐらい、いや、邪魔だったら君を殺すぐらい訳はない。」
――俺は確かめたかっただけだ。君が俺を純粋に愛しているのか。
「その事実を私が知る前だからこそ、彼は私に愛していると言って欲しかったのね。私が彼を諦めるにしろ、彼が私を諦めるにせよ、心からの純粋な愛の告白の記憶が残るものね。ああ、彼はなんて純粋な人なの。」
ディーナは私にごめんと言った。
「ごめん。本当はノーマンからこの事実を告白されるべきでしょうけど、私はあなたに本当の選択肢を与えたかった。」
「本当の選択肢?」
ディーナは私の膝から頭をあげて身を起こし、そして再び私の顔を覗き込むようにして彼は振り向いた。
真っ直ぐな追い立てられたような瞳は、過去にディーナが私に言った言葉さえも思い出させた。
冗談めかしていたが、本心のようにも思えたあの言葉。
――ねえ、私を飼わない?
「デイモン。あなたは本気で全部を私に委ねようとしているのね。」
「ええ。互いに不幸になるなら別れようという道ではなく、考えて考えて不幸となっても自分を貫く道だってあるでしょう。そして、ノーマンに恨まれても、ノーマンや私達の柵を打ち砕く破壊だってあなたは出来る。」
王を守る赤伯爵も白伯爵も、黒伯爵だって、いや、それこそアンティゴアそのもの全部を破壊してしまえと言っているのか。
私が幸せになるために。
「あなたのメテオは最高だわ。」
「ディーナ、ったら。」




