子猫は子猫のままで
魔法陣を羊皮紙に先に描いておいて、魔法を発動したい時に発動させる。
それはとても素敵なアイディアであったのだが、実際に事前作成を試みてみれば、発動する気がない魔法に関しては魔法陣が頭にも浮かばないという現実に行き当たってしまった。
ただし、私の脳みその奥では、このアイディアは正しいと叫んでもいる。
「どうしてかしら。私はこの行為に間違いはないって確信しているのに、でも実際問題、魔法陣が一つも描けないのよ」
博識なドゥーシャに言ってみたはいいが、魔法使いでもない彼は腕を組んでうーんと唸るばかりである。
「ごめんなさい。やっぱり役立たずね。イーサンのいる魔城をこれから目指してみる。ポイントごとにテレポートで飛ぶぐらいは出来るから、ええ、危険は無いと思うわ。だから心配しないで」
「それは却下です。あなたは我々と一蓮托生なのだと覚悟してください」
「でも、役立たずでしかないわ。今の私は」
「子猫とはそういうものです」
違うと言ってくれないどころか、役立たずな猫と言い切ったドゥーシャに対して私は頬を膨らませた。
ああ、私が元通りの大魔女だったならば!
「そういえば、魔法使いは扱える元素の数を自慢しますが、魔法使いが口にするその四大元素とは何なのですか?」
「あら、ご存じなかったの? 魔法には水と火、そして風と土の属性があるというのは当たり前の話だったでしょうに」
「ええ、その四つの属性がある事は知っていますが、魔法使いは元素と言うでしょう。違うものなのかと」
「いえ、同じ。そう、魔法使いが元素と言ってしまうのは、例えばファイヤーボール。これは初歩の攻撃魔法ですけれど、これは火を熾すという根本の魔法を習得して初めて発展させて得られる魔法でしょう。そう、全ての魔法には根本となる元があって、だから元素って言うのよ。そう、そうよ。全ては元になったものを発展させているから……」
私はドゥーシャに説明しながら、自分こそ魔法の根本を忘れていたと、自分の額をぴしゃりと叩く。
「ああ、なんてこと」
――あなたは成長することを止めてしまった。
ハルメニアに学び直せと言われるわけだわ。
息をするように魔法を作り出して使いこなせるからと、私は魔法の原則そのものをないがしろにしていたのだ。
私は先ほど円だけ描いた羊皮紙を再び手に取ると、それに自分が最初に手に入れた元素の基本形の魔法陣となるように書き足した。
殴られたり蹴られたりしない場所へと逃げ込みたいと考えた時、私の頭の中には必ず一つの魔法陣が浮かび上がった。私はその魔方陣を発展させ、自分の隠れ家となる人には見えない空間を紡ぎ出せたのである。
空間を歪める魔法を編み出せるのは、風の魔法。
風魔法の基本の陣。
それを描き切った私は、この風を現わす単純な魔法陣を十何年ぶりに目の前にした事により、その魔法陣に雨をぽつぽつと降らせてしまった。
「妃よ。お辛いのでしたら」
私の頬の涙はドゥーシャが柔らかい布で拭ってくれたが、彼のその行為が私をさらに泣かせた。
あの頃の私はそんな優しさを欲していたのに、一度として受け取ることが出来なかったからだ。
「ティア。すいません。お辛いのだったら、これはもうやめましょう」
ドゥーシャはまだ何も描かれていない羊皮紙の束の上に手を乗せたが、私は彼の手の上に自分の両手を重ねた。
「いいえ。いいえ。大丈夫です。これは私をなぞる行為そのものなだけよ。私が元素を手に入れていった過程を辿っているだけ。その時の私はとっても辛かったけれど、誰にも涙を拭って貰えなかったけれど、ああ、今は違う。涙を拭ってくれる人がいてくれる幸せに涙が止まらないのだわ」
彼の手は彼の手を押さえる私の手からそっと抜き出され、改めて私の手をぎゅうっと片手で器用につかんだ。
掴んだだけでなく、彼の指先は私の両手の指先を掴んだまま私の左頬に零れた涙までも拭い取ったのである。
「やめましょう。続きは陛下が戻ってからにしましょう」
「どうして? 私はあと三つの元素を描いてしまわなければいけないわ。私には身を守る術が必要だと言ったのはあなた自身では無いですか」
「ですが、あなたはその度に辛い過去を思い出されるのでしょう。あなたの涙を拭うのは私ではいけません。これは陛下こそ望まれている行為です」
私はドゥーシャの言葉のお陰で涙が止まった。
ノーマンの部下は誰一人例外なく、弱い人間には優しくしてしまう性を持ち、ドゥーシャも私が泣いたから反射的に涙を拭ってしまっただけなのだ。
彼には私が凄く面倒くさい人間に見えて思えた事なのだろう。
私の心も頭もすっと冷めて涙も引っ込んだ代わりに、過去の身を隠した自分が次に望んだことで次々に手に入れた魔法のことも思い出した。
怖い外を覗き込めて、そして、食べ物を得る為の力。
農作物に関するのは土魔法。
だから土の魔法を習得できた。
すると、土と風が混ざり合ってテントウムシを作り出し、私の意識はテントウムシとなって世界に旅立ったのだ。
私が隠れていた穴倉からほんの数メートルほどであったが、その数メートル先にある低木には緑色の固い実が房となったものが垂れていた。
あれが熟せば食べられるのに。
私はそこで水の元素を手に入れた。
そして、そして、隠れ家で殆ど死んだようになっていた私は、その熟したブドウを口にするために立ち上がるための気力を奮い立たせるために、冷え切った体を温めるための炎を心に描いたのである。
「ドゥーシャ、手を離して。私は描けるわ。あと三つの元素の輪っかを」
彼は何も言わなかったが、彼の力は弛んだ。私は彼の指先から両手を引き出し、ほんの一瞬指先を掴まれかけた気もしたが、両手が自由になった私は再びペンを持ち上げて羊皮紙に向かう。
「すべては四元素から始まる。ええそうよ。私は四元素の魔法陣だけを描いていけばいいのだわ。そして、魔法を使いたい時にこの四元素の魔法陣に足りない分を書き足していけば、私は再び大きな魔法だって使えるはずなのよ!」
しかし、私は土の魔法陣を描いただけで終わった。
涙が再び零れたわけではない。
ドゥーシャが残りの羊皮紙をかき集めて纏めてしまったからだ。
「あら、羊皮紙をどうなさるおつもり?」
彼は入れ墨のある顔を私に見せつける様にして私を睨みつけると、私を考え無しと罵った。
「え?」
「もういいです。お絵描き教室はこれでお終いです。魔法陣はもう描かなくてもいいです。いえ、描くのを今すぐ止めてください」
「止めろって、私に身を守る術を手に入れろって言ったのはあなたでしょう」
「子猫の成長は早いものですが、たった半日で成長されたらつまらないんですよ。もう少し周りの気持ちを考えてください。ケーキは如何ですか? アシッドが焼いたバターケーキでも食べましょう。お茶を淹れてきます」
ドゥーシャは立ち上がると私では手の届かない場所に羊皮紙の束を片付け、それから自分の言葉通りにお茶の用意をし始めた。
私は私から完全に背を向けた意味の解らない男への報復か、土の魔法陣にほんの少しだけ書き込んだ。
テントウムシに意識を乗せてノーマンたちの様子を探ることにしたのである。
どうしてかわからないが、意味がわからない時にノーマンの顔を見ると、ほんの少し私の気が落ち着くのだ。
どうしてなのか本気で意味が解らないが。




