30回 思い出────大好きだったあの子を奪われたので
「頑張ってね」
「ああ、お前もな」
仕事が終わり立ち去っていく相手を見送る。
わざわざ声をかけてきてくれた幼なじみは、返事を聞くと笑顔を浮かべた。
「それじゃ」
手を振って去っていく。
今の仲間の所へと。
否。
彼女にとって大事な存在の所へと。
「これでよかったのか?」
「うん、これでいいの」
ユキヒコ達と別れ、馬車に乗り込んでからしばらくして。
勇者はユカに問いかける。
「なにがです?」
「いや、ほら。
あの人、ユカと関係があるんだろ。
何かさ、こう、もっと何かあってもいいんじゃ…………」
「いいんですよ」
なぜか慌てる勇者に、ユカは自然体でこたえる。
「これでよかったんです」
それは、何かを吹っ切るような声だった。
顔もすっきりとしている。
それを見て勇者は、もう何も言わないことにした。
「そっか」
それを最後に。
この事をユキヒコは知らない。
今はまだ。
そうと知らないユキヒコは、見送りが済むとすぐに戻っていく。
そこに残っていてもやる事はない。
それよりも、これからする事に注力せねばならなかった。
意外なほど平然とした態度をとりながら。
勇者と聖女が去っても、やる事はある。
様々な業務がまってるので、それをこなさなければならない。
幸い、それらを滞りなくこなせるくらいには落ち着いている。
むしろ、以前よりも冷静になってるくらいだった。
(これなら仕事も問題ないか)
自分でもそう思うくらいである。
ユカと勇者の事で、もっと取り乱すと思っていたが。
そうでもない事に驚いていた。
今まで胸の中にあった焦りや苛立ち。
それらが消えていた。
急がなくては、という気持ちが無くなった。
それが大きいのだろう。
今までは「どうにかしないと」という思いがあった。
少しでも追いつかなくては、という考え常に頭にあった。
それが今は消えてなくなっている。
おそらく、心理的な圧迫を取り除いたのだろう。
悩みに割いていた分が無くなり、頭や気持ちに余裕が生まれていた。
それらによって蝕まれていた部分を、他の所に振り分けられるようになった。
(よくも悪くも、終わっちまったからなあ)
良い事とは言えない。
むしろ、最悪の事態といえる。
もう全てが手遅れとなっているのだから。
なのにユキヒコは何故か平然としていた。
(今更だな)
そう思えるようになったのが大きいのだろう。
囚われがなくなったとも言える。
今までどうしても考えていた事がなくなり、思考がすっきりしてきた。
余裕が出て来たのだ。
だから今まで考えられなかった事に意識が向かう。
終わったことは仕方がない。
胸は痛むが、それにこだわっていてもどうにもならない。
過去は変わらないのだ。
だから目を向けねばならない事がある。
これからどうするのか、という事に。
今までの目標や目的は無くなった。
少しでも追いつこうと思った所はもう無い。
無くなったわけではないが、目指す意味が無くなった。
そんなものにかまけるのも馬鹿馬鹿しい。
何をするにしても、もっと有意義な事をしなければ意味がない。
さりとて何をしたいというのも無い。
とりあえず義勇兵をやっていく意味はなくなった。
もともとユカに少しでも近づくためにやっていたことだ。
続ける意味がない。
だが、生活を考えるとすぐに辞めるわけにもいかない。
辞めたとしても、他に仕事があるわけでもない。
まず、そんな選択肢が無い。
だが、このまま義勇兵を続けてどうするのかと考えてしまう。
(出世かなあ)
ある程度の地位や階級というのは欲しい。
それがあれば自分が握れる主導権も大きくなる。
命令や指示を聞く必要はある。
だが、それらを出す側にもなれる。
言いなりであり続ける必要がないのは大きい。
(この先もこんな事をやってくなら)
そう考えると、出世はある程度は見据えておく必要がある。
幸いにもそれだけの功績はある。
望めば小さな部隊を任されるくらいの事はしてきた。
それを望まれてもいる。
上層部からの打診は受けている。
小隊長をやってみないかと。
人数にして10人余りの部下を率いる立場だ。
ただ、その為にはそれなりの研修を受けねばならない。
本来なら兵学校という所に通わねばならないのだ。
そこを経て正式に任官を受ける事になる。
全く何の知識もない者が部下を率いる事など、通常ならあり得ない。
ただ、そう言ってると指揮官が足りなくなる。
実際には、このあたりは多少緩和されている。
それでもある程度の研修や訓練は必要になる。
幸い、既にそういった事も受けてきたので、条件は揃ってる。
そろそろそれを考える時期には来ていた。
しかし、無理してそうなるつもりもない。
既にそうする理由もないので、気分が減退している。
どうしても意欲がわいてこない。
それくらいの衝撃は今回の件で受けていた。
なにより、無理してでも頑張る理由がもう無い。
(でも、今のままってのも)
そういうわけにもいかない。
今のところユキヒコは優秀な兵士として認められている。
しかしそれは、便利な駒という事でしかない。
最下級の立場である事に変わりはないのだ。
それなりの昇給はあっても、結局は優秀な兵士で終わってしまう。
誰かにいいように使われるだけになる。
(そこはどうにかしたいよな)
さすがにそこに甘んじていたくはなかった。
ここまで来て、ふと思う。
(何を考えてんだか)
そもそもの前提がもうなくなっている。
なのに、今までと同じような事を考えている。
その事がおかしくてしかたなかった。
だんだんとばからしくなってくる。
なんでそこまで一生懸命にならないといけないのかと。
励む理由は、もう無い。
懸命になる事にどんな意味があるのか?
死にたいわけではないが、このような生き方に疑問を抱いた。
確かに生きる意味というか、目標を失った。
そのために宙ぶらりんになってしまっている。
どこに向かうべきかが分からない。
だが、生きる事まで放棄したわけではない。
無くしたものは大きい。
大切なものを失った。
だとしても、自殺したいわけではない。
虚しいだけなのだ。
どうしようもなく。
胸に穴が空いたような。
大事なものを失うと、人はこうなってしまうのかと実感している。
それだけ大きな、大切な存在だったのだと今更ながら思う。
失う事でその大きさをようやく理解したというべきか。
出来ればこんな形で確かめたくはなかった。
もっと別の形で、穏やかな方法で知りたかった。
それも含めて今更であろう。
もうどうしようもない。
(何やってんだろ)
今までやってきた事を振り返ってしまう。
全てが無駄だった。
無駄に終わってしまった。
やってきたあらゆる事に意味がなかった。
一応、得たものもある。
戦場を駆け巡る為に必要な能力は手に入れた。
それすらも今は無意味に思えてならなかった。
この先も食っていくためには必要ではあるが。
ただ、より大きな目的を失ったから、費やした努力と時間が無駄に思えてしまう。
(こうなってなかったらな……)
せん無い考えである。
もしこうなってなかったら。
奇跡でも起こって、ユカを取り戻すことが出来ていたら。
その時は、義勇兵としてがんばって食っていく事になっていただろう。
どのみち、他に稼ぐ手段もない。
もう少し出世して、家族を養えるよう頑張っていたかもしれない。
聖女認定なんてものが無くてもだ。
他に食い扶持がないのだから、義勇兵にでもなるしかなかった。
それで、やはり努力して頑張っていたことだろう。
結局、こういう事になっていたのは変わらなかったとは思う。
実際にどうなっていたのか、確かめる術は無いけども。
ただ、本来あって欲しかったものがない。
それがすべてを無意味にさせてしまっている。
何もかもが色あせ、やる気を失わせていく。
(何やってんだろ)
そう考えていく事で、ユキヒコの考えは方向性を得ていく。
現状への不満。
もっと別の可能性の想像。
何をしたいのか。
何が出来るのか。
色々と考えていく。
それは現実逃避でしかないのかもしれない。
自分にとって都合の良い未来を妄想してるだけなのかも。
そんなものがユキヒコの中で大きくなっていった。
もし、こうなって無かったら?
こうなる原因が無かったら?
それをもたらしたものが存在しなかったら?
その時自分はどうなっていたのか?
今より不幸だったのか?
それとも、今よりマシだったのか?
答えの出ない考えが何度も何度も繰り返される。
それは同じ事の繰り返しであろう。
しかし徐々に着地点へと向かっていった。
納得出来ない現状に対して、思考と想像は思いもよらないところへ向かう。
それは、今まで想像もしてなかったことだ。
無意識に除外していた選択肢である。
全てはこちら側にいることを前提としたもの。
だが、しかし。
(そういや、なんでこだわってんだろ?)
そう思った瞬間に、世界がひろがった。
いや、それは以前からどこかでくすぶっていたものだった。
何を馬鹿なと思い、何度も無視してきたものだ。
だが、事ここにいたり、それがある程度現実味をおびてくる。
ユキヒコに決断をさせるくらいに。
(もういいか)
ふと、そんな風に思う。
色々努力したが。
あれこれ悩んだが。
どうにかできないかと考えたが。
そのすべてが、
(もう、どうでもいいか)
そこに行き着く。
いつの頃からだったろうか。
そんな考えが頭によぎったのは。
それを選ぶこともせず、それでも頭や心にこびりついていた考え。
それを決断するには何かが足りなかった。
そして、何かが余計だった。
つい先ほどまでは。
しかし、今は違う。
何かに対して見切りをつける事が出来た。。
それが何なのかは明確ではない。
そこに至る思考も、辻褄が合ってるという事もない。
しかし、ありとあらゆる事に対して思った。
『もういいか』と。
これ以上何かをする必要は無い。
したいとも思わない。
ここで我慢しても意味があるとは思えない。
見返りがあるわけでもない。
むしろ、今の状況を今後も続ける事になるだろう。
それをより強固にする事にもなりかねない。
(そんな事してどうすんだろ)
続ける意味があるのか?
……そんな考えになっていった。
枷が外れた状態になったと言える。
自分をとりまくあらゆる事から自由になった。
当たり前と思えるあらゆる事が消え去った。
己の思いや考えに素直になっていった。
解放というならばそうなのだろう。
自由になったと言えばその通りである。
この瞬間、ユキヒコは確かに己の意志を解き放った。
何ものにも束縛されない、自由な状態に。
世間の常識やしきたり。
そういったものを考慮しない。
己の欲望に、意思に、気持ちに正直になる。
世間や社会にとらわれない。
ある意味危険な状態になっていた。
常識やしきたりというのは、人が集まって暮らすために必要なものである。
不要な争いを避け、妥当な協力体制を維持するためのものである。
それらが悪習にまで堕落してるならともかく。
そうでないなら守っておいた方が良いものだ。
慣例や慣習、因習というものでも、従っていればそう悪い事にはならないのだから。
法律などの根源と言ってもよいだろう。
だいたいにおいて人が守ってるのは、えてして躾や行儀といったものだ。
それを守ってるから、人は無駄な争いをしないで済んでいる。
これらをもう少し砕いていうと、次のようになるだろうか?
悪口はやめよう、喧嘩はやめよう、出来る限り話し合いで解決しよう──
一方的にやりたい事を押し通す事など出来ない──
相手の都合も考えねばならない──
どうしても折り合いが付かないなら、接触を控えた方が良い──
これといって格式張ったものではないだろう。
だが、守っていれば無駄な摩擦を避ける事が出来る。
そうしたものが世の中を、人を上手く纏め上げてるはずだ。
今のユキヒコにはこれが無い。
ある意味危険な状態である。
守るべき常識を取り払い、思うがままに心が動いてる状態なのだ。
それでも。
(そうまでして……)
それを守ってどうなったのか?
ユキヒコは大きなものを失った。
それを失った理由がどこにあるのか。
それが守ろうとしてるのは何なのか。
その結果どうなったのか。
考えてしまう。
何より、
(それで俺は……?)
失ったものがある。
それをどうやって補ってくれるのか。
何をもって償ってくれるのか。
何をあてがうかは分からないが、それが失ったものと引き替えになるのか。
結局、
(損してるだけじゃないか)
考えれば考える程分からなくなる。
自分は大事なものを失った。
とんでもない損をした。
それと引き換えにして何を得たというのか?
それによって勇者と聖女が成り立ったとして。
そうまでして戦う意味があるのか?
大事なものを手放してまで、自分を犠牲にしてまで。
確かに勇者と聖女は強い。
その力の大きさは、実際に目にしてよく分かった。
その効果を得るならば、多少の犠牲は受け入れるようとも思うだろう。
だが、その代償はどこで手に入る?
何を手に入れる?
ユキヒコが失った大切なもの。
その引き替えに何を得たのか?
魔族による侵略から身を守る。
自分らの国土を守る。
これは確かにその通りだろう。
また、戦闘で死んでいた可能性も回避されている。
もし勇者や聖女がいなかったら、ユキヒコは死んでいたかもしれない。
それも分かる。
攻め込んできた敵に対して、味方は少なかった。
そのまま正面からぶつかっていたら、勝利などありえなかっただろう。
よくて、退却戦による出血をしいるくらい。
その結果、敵の進撃を許し、国土を失う羽目になっていただろう。
その中で大勢が死んでいる。
その中にユキヒコが含まれる可能性は充分にあった。
だとしてもだ。
それでも、自分が大きなものを犠牲にする必要があったのか?
仮定でしかないが、ありえた未来を手放さねばならなかったのか?
そこまでして守る必要があるのか、教会の教えなど?
女神にそこまでして従う必要があるのか?
(そんなわけねえよな)
納得がいかなかった。
頭では『それも必要だろう』と考える。
しかし、胸に空いてる巨大な穴が、そんな思考を吸いこんでいく。
底なしの穴は現状を全て否定する。
それを良しとする考えや思いの全ては、そこにある奈落の底へと落ちていく。
その代わりに巨大な空虚が残る。
それが現状のすべてを否定する。
ここまでやる必要は無かったのでは?
こんな事やる意味がないのでは?
こんな思いが浮かんでくる。
そこに理性はない。
得られるものと失うものを冷静に考えた収支計算もない。
理非を問い、何が大事なのかを考えてもいない。
だが、思いはどうしても理性を否定する。
胸の奥からわき起こる衝動が吹き飛ばす。
もしかしたらという思いつきが前に出る。
何より、理性とは別の思考がもたらす直観がささやく。
『違う』と。
(そこまでして……)
守る必要があるのか。
(そこまで……)
今が大事なのか。
(何で……)
こんなものを守らねばならないのか。
(何のために……)
ここまでしなくちゃならないのか。
考えに考え、浮かんでくる思いに素直になり。
そうしていくうちにユキヒコの考えはそこに到達した。
たった一言、あらゆるものから解放され、素直な気持ちで。
ただそれだけがユキヒコの中に残った。
『もういいか』
そこまできて、更に吹っ切れた。
とらわれが無くなり、ただ己の心がむき出しになっている。
今のユキヒコに、考えや行動を阻むものはない。
浮かんできた望みを達成する。
そのために必要な事を素直に引き出していく。
(ま、慌てても仕方ないか)
まず現状で何かするわけにもいかない。
急いで事を進めるにしても、荒っぽ手段をとる必要もない。
いずれ必要になるにしても、いきなりやるのも問題だ。
じたばたしても始まらないのだ。
ここでもう暫くは厄介になる必要もある。
準備を進めるために。
今後に何か起こすために。
その考えは、いっそ開き直ってると言うべきものだった。
すべてを諦めたからこそ出てくる、自棄ともいう。
だからこそ最悪の事態へと進んでいく。
それに気づくものもいないままに。
(けど、こうして見ると)
しがらみ……あえてそう言う事にする。
今まで目指してきたもの、それが自然とユキヒコを縛っていた。
それから開放された今、色々なものが見えてくる。
今までだって見えてはいたのだ。
だが、それを素直に見てなかった。
目指すもの、世間のありかた、社会の構造。
そうしたものに知らず知らず囚われ、それをもとに見ていた。
なのだが。
(色々とあるもんだな)
そこかしこから立ち上る気の流れ。
物心ついたときから見えてたそれが、今は別の角度から見える。
それはユキヒコに色々な可能性を示しているように思えた。
それらを素直にみれないくらい、様々なものにとらわれていた。
そのしがらみは、今はもうない。
(好きに生きよう)
そう思えた。
もう、自分の好きに生きようと。
そう思うだけで、気力が少しよみがえった。
失ったものの大きさを埋めはしなかったが。
それを埋める手段もいずれ見えてくるだろう。
何が最善なのかは分からないが、何をしたいのかはもう分かってる。
そのための道筋も、なんとなく分かる気がした。
それこそ、気の流れが教えてくれる。
ユキヒコを導くように、それは立ち上り、いずこかへと流れていく。
それが道しるべなのか。
たんにユキヒコがそう思い込んでるだけなのか。
今はまだ分からない。
だが、あえてそれを信じてみるのも悪くはないように思えた。
(まあ、どうなってもいいさ)
今のユキヒコに、守るべきものはないのだから。




