5結――哀憎
第五話です。ひとまずここでクロードとローシーズのお話はおわります。
他の神秘世界シリーズをご覧下さっている方は存分にニヤついてください。彼奴らは大抵いちゃいちゃしています。
転がるそれを見たとき、彼女は「あら毒杯だわ」とぼんやりと思った。
かつて自分が飲んだ時のものと全く同じ形をした器で、中に残った水みたいに透明な毒はとろとろと冷たい石の床に零れ落ちている。染みて黒々とした床を踏むのが憚られて、そこを避けた。彼は本当に一気に大量に飲み干したのだろう、忌避すべき場所は僅かだった。かつての彼女は毒杯を持つ手が震えてしまってあまり一度に流し込めずに酷く苦しかったから、彼がそうではないことは喜ばしい。
暗い石牢は芯から冷え込むような寒さがあって、たった二日いただけの彼女でさえ凍え死ぬかと危惧したほどだ。毛布どころか布の一枚もなく、明り取りの窓は高く遠く、鉄格子の向こうにあるのは血がこびりついた石牢たち。ここは、この国の闇を煮詰めたような場所だった。
触れると、ギィ……と音を引きずって鉄格子が動く。少し触れただけで手が凍った錯覚をするほどに寒い。アリスエルダがくれた革靴が床の冷気を遮断してくれるから、それでも随分と囚人であった時よりも寒くなかった。吐いた息は人あらざる彼女でも白い。
牢の中は狭い。一歩、二歩と踏み出せばソレは間近にあった。
小さな窓が月明かりを受け入れている。きっと森は今日も静かに眠っているのだろう。森の一部である自分がこんな場所にいるのがひどく不思議だ。
「……」
なんて呼ぼうか、と彼女は思案した。自らの名前すらどれが正しいとわからないのに、彼の名前がわかるわけない。自分は、彼にどちらの立場で会うべきなのか。
そもそも、会っていいのかすら。
結局口を開いても閉じて、彼女はしゃがみ込んだ。壁に寄りかかり目を瞑った彼は何故か――安堵したように仄かに笑みを浮かべていた。
彼女は何も言わないまま彼を揺する。けれども彼はやはり、答えることはない。それどころか彼女が軽く揺らしただけで倒れ込んでくる。身体は重い。意識がないからか、それとも。
噛み締めた唇から血の味がして、まるで人間みたいと笑った。
「ねえ」
彼女は耐えかねたように、口を開く。
「ねえ、起きて」
きっと叶わない、そんなことを言う。
「ねえ、ねえ、起きてってば……!」
間に合わなかった。いや、最初から、間に合うことなんてなかった。銀色の狼は彼女に「彼が捕らえられた」と告げたのだから。あの国主が――彼女を二日で殺したあの男が、弟であるとしても容赦なんてするはずがない。彼女より罪が重いのに。
「……約束したのに」
あるいは、彼が来てくれても彼女は忘れてしまっていたからか。
「ねえ、わたし……わたくし、が」
一人称すらあやふやで。
「迎えに行くわって……」
お伽話のように遠い記憶が。
「その前にどこかに行っちゃうなんて、ずるいわ、ねえ」
石に染み込むのは、花びらか……。
――あなたは、どこにいるの?
*
「アリス」
扉の向こうをしきりに気にする少女に呼びかける。悪魔に向いた灰色の瞳がゆらゆらと、不安の光を宿して揺れた。
少女が寒さに震えはしないかと自分が羽織っていた上着を細い肩に乗せ、そのまま引き寄せる。扉一枚隔てただけの飾り気のない通路は、窓が大きくなければ牢の中と勘違いしてしまいそうなほど。何もかもが牢に準じる。
いくら特異な力を持つ悪魔と契約した少女といえど、人間は大概壊れやすいから悪魔である男が甲斐甲斐しく世話を焼くのも仕方のないことである。悪魔のいつものソレに、少女の表情がやわらぐ。だが、笑えるほどではない。
「ミル……ロシーディアさまは、大丈夫かな」
少女の問いに、しかし悪魔は答えられないでいた。大悪魔にはこの悲劇の結末がもう見えていたから。曖昧に笑えば、聡い少女は俯く。
「わたしができることって、本当にすくないね」
少女は無力だ。魔法なんてものを使えるけれど、それが役に立つことがどれだけあるか。少女の体は弱くて脆い。魔女はどう足掻いても悪魔の紛い物でしかない。
それでも人間は諦められないから、魔女狩りなんてものが横行するのだが。
「レル」
それはまるで、絶対という概念そのもののような、呼びかけだった。
アリスエルダ――あるいは、レル・カデリアが声の方へ振り向き、姿勢を正してこうべを垂れる。隣の悪魔は静かに目を伏せた。
「はい、国主さま」
少女の口からこぼれ出る感情を排した言葉。灰色の瞳は何も映さずに。
悪魔はその態度が大嫌いだった。今でも嫌いだけれど、「アリス」と呼べば、少女は嬉しそうに笑うから。
だから今は静かにふたりの声を聞いている。
ほんのすこしの笑みさえ浮かべて、国主――クロードの兄は言った。
「アレの処分は任せる」
次いで、少女と悪魔がまもる、牢へ続く扉を見やって、
「中の花びらと……庭の木も持っていけ」
「…………庭の木、だって?」
悪魔が唇を戦慄かせて男を見たが、彼は笑みを消して何も言わずに背を向ける。悪魔はきっと口にすべきではないと知っていたけれど、しかし言わずにはいられない。
「きみは、やっぱりその生き方を変えられないんだね」
名前も呼ばれることのない、男は。
「……お前たちが、そうしたのだろう」
冷え切った声で――だが硬質な碧は憤怒には燃えず。そのまま去る彼に、かける言葉は一つとしてなかった。
ミルファーレンは彼のことを何も知らないが、しかしそれは彼のことを放っておけるわけではない。あまりにも、その彼のいろは――かつての灰色に似ていたから。
「憐れむべきではないのだろうけれど」
――そしてきみは、それを忌避するのだろうけれど。
然れども悪魔は悪魔であるがゆえに、ひとを愛さずにはいられない存在であるがゆえに。ひとりぼっちの魔法使いが、強すぎるこどもが憐れで可哀想で仕方がなかった。
「ねえ、ミル、さっきの国主さまのお言葉……どういうこと?」
隣のアリスエルダがミルファーレンの服の裾を掴んで縋り付くように見上げる。
処分するべきアレは、多分もう動かぬクロードのことで。花びらと、庭の木。それは一体、と。
ああ、とミルファーレンは目を細める。
「彼はやっぱり、弟のことが大切だったんだよ。……アリス、精霊がどうやって生まれるか知っているかい」
「えっと……確か、本体となるものが必要ってことは知ってるよ、ミル」
そうだね、と頷く。
……アリスエルダはその仕事の関係上、それからミルファーレンと話すことで『神秘』についての知識を深めている。そのアリスエルダが知らない知識を、正直『神秘』を憎悪する人間が知っているのは信じ難いことだった。
悪魔は描き出した彼の心理を思って、そっと息を吐いた。
「ところで、ローシーズが宿った樹は彼女が幼い頃から育てていた樹というのは知っているよね」
「うん、それはもちろん。……あっ、そうか、クロードさまも……!」
「そうだよ、アリス」
ミルファーレンは憂いを消し去って、少女のために笑みを形作る。
「僕らが頑張れば、新しい精霊が生まれるかもしれないね」
閲覧ありがとうございました。
最終話は5/30(水)夕方18:00に投稿します。