3転――独り
第三話です。話が動きます。
その日、彼は来なかった。ローシーズはいつものように微睡んで身体を丸めた。
明くる日も、彼は来ない。長老や幼い悪魔と妖精に会いたくなって、『神秘』の森へと彼女の足は向いた。
また明くる日、雨がしとしとと降っていた。きっと彼はぬかるんだ森の小道に足を滑らせてしまうから、今日彼が来なくてよかったと、彼女は微笑んだ。
そのまた明くる日、ローシーズは眠りもせずに枝の上にじっと座っていた。
彼が来ない。それはなんらおかしくないことのはずだ。だって彼がローシーズに会いに来ると約束したわけではないのだから。今までは、クロウズがただ物好きだっただけ。
「…………レディを待たせるものではないわ」
そっと呟いてみても、彼の揶揄い混じりの声が返ってくることはない。
ローシーズは初めてそこで、自分の感情を知覚した。わたしは寂しいのね、と。
足を撫でる。ワンピースから覗く足には赤い線がいくつも入っていた。ローシーズの足は動かない。それは人間のように歩く、という機能を喪失してしまったということだ。ただ彼女は『神秘』だから、移動自体に問題はなかった。人間である彼とは違うから。
ああ、そうだ。ふと思い立つ。きっとこれが正解なのだろうと、冷えた心が。
「わたしが『神秘』だから、彼はもう来ないのね」
一際うつくしい花びらが一枚、舞うのが見えた。
*
確信と諦観。あるいは、失望か。
クロウズと名乗っていた男は、曇った感情を胸に兄と相対していた。周囲には兵士。裏切り者の弟を捕らえるための、兄の兵。その中に銀髪が見えた気がしたが、すぐに人に紛れ見えなくなった。
兄の厳しい顔が、兄の命令で男を取り囲む兵士たちが、どうしようもなく示唆する。男の見つけたあの部屋にあったものが真実であることを。
「お前にもう用はない」
たったそれだけを言い、兄は身を翻す。柔らかな金髪が風に揺れた。
「兄上……」
呟いても、兄はもう顔を向けない。代わりに兵士たちが無表情で男の腕をとった。
牢の中、思う。きっとあの罪人も――彼女も、こんな気持ちだったのだろうか。空気に溶けるのは、もう何年も呼んでいない彼女の名前。
「ロシーディア」
からからに乾いた喉は、それでもしっかりと仕事をしてくれた。
「ロシーディア……ッ!」
かつて、男――クロードの婚約者だった女。『神秘』を匿ったとという罪科により、クロードの目の前で毒を飲んだ。
国主の弟であるクロードの婚約者であるから、彼女の家は高位の伝統ある家柄だった。だから匿った、それだけではロシーディアは死ななくてもよかった。
だが、彼女は『神秘』を逃してしまったのだ。
『神秘』。世界がつくった、人間が幸せになるためのモノたち。悪魔、吸血鬼、妖精、精霊、人魚――。
今はもう消えかける存在。
それはこの国では捕らえて隷属させ、嫌悪と憎悪を向けながらも国のために働かせるモノだった。他国では殺されると言うけれど、国主たる兄の意向で彼らは兄のモノになるのが決まっていた。
そう、ロシーディアのしたことは、つまり国主のモノを盗んだに等しい。この国において、国主は絶対だ。何故ならば文字通り、兄はこの国の主であるから。
鮮明な記憶の中、彼女が叫ぶ。
『何故ですか! 彼らは物なんかじゃない! わたくしたちは、ずっとそうやって彼らと付き合ってきたはずでしょう!? 何故、今になって、あなたは!』
兵たちに地に押さえつけられ、着ていたドレスは輝きを失っていた。それでも、必死にロシーディアは訴えた。どうか、彼らを解放してやってくれ、と。
だが彼女の懇願に似たそれを兄は一蹴した。冷たい碧の瞳で。
『くだらない』
クロードはただ後ろで立っているだけだった。婚約者が罪人として引きずられていっても、彼女が自分に向ける失望の色を見たくなくて顔を背けた。兄の感情のない面がただただ、恐ろしくて。
クロードは逃げたのだ。ふたりの、どちらからも失望されたくなくて、どちらにも寄れなかった。その結果がこれだ。
「なんて、愚かな」
すまない、と。そう口に出そうとしてやめた。きっとロシーディアは、クロードを許しはしないだろうから。
ロシーディア、…………ロシー。あの『彼女』は一体誰だったのだろう。
ロシーディアへの償いに、クロードは彼女の植えた木に花束を供えた。彼女が死んでから数年たって漸く、クロードにも覚悟ができたから。兄に叛く覚悟が。
そんな時、薄紅の花弁の最中に白が覗いた。最初は見間違いかと思った。まさか、そんな場所に女性がいるなどと――しかも、寝ているなど考えもしない。だが上がったちいさな悲鳴は女のものだ。結局、彼女が何故あの時叫んだのかは未だにわからない。聞く機会を失ってしまった。
彼女の顔を見たことはない。クロードの知る『ロシー』は、囁きだけの存在。
だから、それは妄想にしかなり得なかった。『ロシーディアは、精霊のロシー……ローシーズになったのではないか』そんな馬鹿げた妄想。クロードに都合のいい夢。
あり得ない、けれど。それでも死ぬ間際くらいは、夢を見せてくれ。
「君に、届いているといいな」
そう呟いて、クロードは床に置かれた杯を手に取る。
兄の温情か、あるいは嘲笑か。クロードには毒の杯が与えられていた。ロシーディアと同じ処刑法。だからこそ彼は、躊躇わずに飲み干した。
薄れゆく意識の中で。
彼女が、クロードを迎えにきたような気がした。
*
「何を、言って」
ローシーズは自らの声が震えているのに気がつく。本当は声どころか身体全体がぶるぶると小刻みに揺れ、顔は真っ白になっていたが。
「真実、でしょうか」
灰色の瞳の少女が木の上のローシーズを見上げて寂しげに笑う。寄り添う銀の狼のおおきな尻尾がひとつ振られた。
十に届いてすこしといったところの少女の名を、アリスエルダと言う。隣の狼はミルファーレンという名前だと、アリスエルダはローシーズに紹介した。
ミルファーレンを見た時、ローシーズは酷く驚いたものだ。何たって、悪魔である。『神秘』のひとつであり、遠き森の幼いあの子以外はもういないだろうと推測していた、悪魔。それも全知全能と呼ばれる超有名なひとだ。長老やたまに森に来る吸血鬼がよく『全知全能の大悪魔』の話をしていた。何度も聞き飽きるまで話されたから、ずぼらなローシーズも覚えていたのだ。
当初、ローシーズは悪魔とその契約者が訪ねて来る理由がわからずに困惑の表情を見せた。そんな彼女にアリスエルダは柔らかく微笑むと、
「お久しぶりです、ロシーディアさま」
とあたたかく呼びかける。
当然、ローシーズにそんな名前の心当たりはないから思わず「訪ねる方をお間違えではないかしら」と返してしまった。アリスエルダは一瞬きょとんとして、自らと傍の悪魔の名乗りを上げる。しかしやはりローシーズに心当たりがないと知れるや、狼が呟く。
「よほど人間が嫌いだったんだね、ローシーズ」
そんなことないわと言おうとして、言葉が出ないのに狼狽した。まるで肯定しているように、ローシーズの口は沈黙を守る。
少女の灰色の瞳が悲しみに染まった。
「……貴女さまは、お忘れになってしまわれたのですね」
「わたし、わたし、わからないわ……ロシーディアって、誰なの」
彼女と似た名前。彼女が使った偽名に似た名前。――ああ、そういえば偽名に彼は怯えを暗い瞳に宿したわ。
アリスエルダは優しく囁いた。
「貴女さまの、人間でいらっしゃった頃のお名前です」
空のような青だけを、鮮明に覚えている。
閲覧ありがとうございました。
【4昔――記憶】は5/29(火)夕方18:00に投稿します。