化け物
『僕を一人にしないで』
幼き日の自分の悲痛な声が刃物のように頭を割いてくる。
これは…僕の記憶?
『あなたなんて私の子じゃない、化け物』
まだ幼さの残る顔立ちをした女性が泣き腫らした目で僕を見ていた。
どうしてそんな悲しそうな顔で僕を見るの?
僕は…。一体誰…?
眼鏡のせいで、目の間から汗が垂れてきた。
視力は全く悪くないのにこんな黒ぶちの眼鏡掛けさせられて…。
外してしまおうかと思いツルに触れたが、すぐに思い直した。
昼間の大通りで素顔をさらすのは危険だった。
これでも一応アイドルなのだから。
と最もらしい理由もあったが。
ショーウィンドウには困惑した自分が写っていた。
いや、それだけじゃないな。
自分と言う存在をこの眼鏡で消していたかったのかもしれない。
何も思い出せない、虚無の自分。
こんな伊達のフレームで消し去れるなんて思ってはいないが、それでもこれは麻利亜さんがくれた僕のバリケードだから。
『何も記憶の無い僕にアイドルなんて無理だよ…』
麻利亜さんに拾われ、アイドルして麻利亜さんのお父さんが経営していた会社を立て直せと言われた時、僕は精一杯反発した。
自分自身がこれから先どうやって生きていけばいいか分からない時に、唄ったり踊ったりして人を元気づけるなんてことできる訳無いと思ったからだ。
そんな僕に麻利亜さんは、
『だからじゃない。空っぽの貴方だからこそアイドルを完璧に演じきる事ができるはずよ。私は空っぽの貴方がどんな演技をするのが見てみたい。どんな唄を歌うのか聴きたい。…それに、人前に露出するようになれば貴方の事を知っている人が接近してくるようになるんじゃない?一石二鳥じゃない!』
ひどく楽観的な麻利亜さんの言葉はあまりにも単純で、うまくいく要素は少しも考えられなかったが、重く沈んでいた僕の心を溶かすには充分だった。
『でも…。僕に…。演じきることなんて…』
『あー、もう男のくせにウダウダうるさいなー』
そう言ってズボンのポケットから、黒ぶちの眼鏡を取り出した。
『これあげる。これを掛けている時は素の自分でいて、外した時だけ違う自分を演じればいいでしょ?』
『何だよ、それ』
『そうだなー、これは貴方のバリケードってのどう?』
バリケード。
そんなただの言葉のあやに心が動いてしまった。
これをつけている間は僕は僕のままでいられる。
自分と言う存在を探求している一人の人間でいていいんだ。
頭痛がいくらか治まった。
早く依頼人の元に行かなくては…。
僕は麻利亜さんにもらった地図を開いた。