食卓のテロル
――食事とは、家族が絆を深める大切な時間である――
「いただきます」
家族四人のそろった声が、あたたかな色合いに満ちているリビングに広がる。
「彩音、クラブ活動は忙しいようだけれど、楽しい?」
「うん、まあまあかな」
「そのベストはお気に入りなんでしょ? 着替えたらいいのに。食事で制服を汚すわよ」
「ああ、でも面倒くさいからいい」
母親からの世話好きな問いかけに対して、高校から帰ったばかりの彩音は聞き流すように答える。
「ネータン、学校は面白い?」
「うん、まあまあだよ」
妹からの質問にも、彩音はいいかげんな返事をする。ベストを着こなす少女の空色の目は、並べられた料理へ向いたままだ。
「……ふーん……」
姉の調子に合わせて、愛想なく返した妹から見ても、それは実にかわりのない、家族そろってテーブルを囲む光景である。今日の晩御飯の主役は、豚肉のショウガ焼きだ。豆腐の入った熱い味噌汁に、トマトやレタス、キュウリなどを盛り合わせたサラダは、もちろん脇役に置かれている。
食器と箸とが当たる音を、元気よくたてるのは、短いツインテールの髪を両肩へ下げる妹である。というのもまだ幼い身体についている短い両腕では、身についていないこともあり、箸の使い方も碗の取り方も思うようにいかないからだ。
「行儀よく食べなさいね。そうでないとお母さんは……」
「お母さんは?」
「……泣いてしまいます」
しとやかな眼差しの母親は、ツインテールの次女へ答えた次に、そのまま代わっておかずを取ってやる。優しい音色でしつける言葉もいつものごとく。
彩音の向かいに座っているのは父親だ。折りたたんだ新聞をテーブルの一隅におき、威厳ありそうな大人の男らしく、肩の大きな身体をこれみよがしに椅子の上にかまえていた。長女を一瞥した父親は、こだわりがあるのだろう、醤油の小瓶を取り、自分の皿に盛られた豚肉のショウガ焼きへ、一滴、二滴とたらす。それから箸をつかって一切れをつかむ。三滴以上になると塩分について咎められる危惧があるのだ。
「彩音、宿題はちゃんとすませるんだぞ」
いくらか芝居じみた父親の怖い顔からでた、クギを刺す台詞が長女にかかる。しかし、物言わぬ少女からは微妙に噛み合わない空気が返ってきた。彩音の髪は妹と同じ茶色のセミロングで、それをポニーテールにまとめてある。水色のリボンを結んでいる華やかな髪形の彩音は、どことなく無愛想な表情のまま、たきたての白米を口にほおばるのみだ。
「ゴホン……」
返事のない娘をちらりと見た父親は、咳払いをして気まずい顔をしてみせた。
突然、彩音の箸が止まり、空色の瞳が難しい顔の父親を見つめる。顎をひいた上目遣いである。
「お父さん、話があるんだけど」
彩音は、急ぎの用件があるのだという視線を、父親へ向ける。
「え? あ、ああ、なんだい?」
さっきまでとは違う女子高生の示す、難解な空気に父親は迷い込んでしまった。不安げな面影を隠し切れない父親は、眼鏡をかけた大きな顔を、まるで、これからオモチャをもらう子供へとすぐにこしらえてみせた。歳に似合わない父親の変化である。
「あのね、お父さん。彼氏ができたんだよね」
「なっ、なんだって?」
父親の顔が固まった。返り討ちで鋭いものに突き刺されたような表情だ。いつか来るだろうという不安を的中させた長女の告白に、味噌汁の碗を取ろうとしていた手もとまってしまう。そして、同じテーブルにいる母親はというと。
「あらあら、そう」
しとやかな女性の顔は、特に驚きもないような声を返し、つぶったように目を細くする。ついでにわざとらしく自分の口元に、そろえた指先を上品にあてた。母親とは違い、何かを探しあてたい目の動きをする父親は、具合の悪そうに口の端をひきつらせる。
「そ、そうなのか。お父さんとしてはだな、 うーん……うん! そうだな、今度うちに連れてこい! お父さんから話したいことがある」
父親は、ここで存在感を見せたいという空気を一人で勝手に漂わせた。しかし、娘は胸中の奥をさぐるようにじっと見つめ返してくる。たとえ空虚な心中でも塵ひとつあれば見逃さないという視線に、父親はあらがい、口端をさらにきつく締めるが、どちらかといえば追い詰められた表情だ。
「ああ、いやいや、彩音のボーイフレンドと世間話、したいのだけれどね……」
「ボーイフレンド?」
「まあその、彩音の大切な彼氏とだね……」
「……なに? お父さん……」
「………あ、あの、その………」
娘の圧力に耐えられず、父親の額に汗がにじみ出る。彩音は、まだ白米の残る碗をテーブルへしずかに置いた。
「でもね……お父さん」
「うん、なんだい? 会わせてくれないのかな?」
父親の喉が唾を飲み込む。遠ざけたくも、娘からの次にくる言葉へ恐々に耳を傾けた。
「……今日、今までの彼氏と別れたの」
「え!?……」
一点をつく告白に、父親は、頭を殴られたように目を白くした。一瞬のことではあるが、とてつもなく長い時間が彼の頭の中を吹き流れ、悩み疲れた顔へと変わった。笑って聞きごまかす余裕すらない。すでに父親の全身は灰色に変わり、箸をもったまま彫像のように固まってしまった。
ところで、彩音を見ている母親はというと。
「あらあら……」
娘を見て変わらぬ調子の声である。艶やかに目を細くし微笑する。そしてなめらかな動作で、サラダの中からカットしてあるトマトを箸でつかむ。まるですべてを心得たしぐさだ。
化石のごとく硬直した父親をよそに、母親はなぐさめる口調で長女へ尋ねる。
「あなたはそれで納得しているの? 後悔はしていないかしら?」
「うーん、あのね……」
答えかける彩音を見ながら、母親は、隣に座る妹の、テーブルにこぼした米粒を見つけて拾う。
「あらごめんなさい。相談にのるから、言ってごらんなさい」
「……友達の湊川に話したんだけれど……」
「ああ、湊川さんね。いつも彼女に相談しているの?」
「うん……」
「それであなたの友達は、なんて答えたのかしら?」
「湊川がこう言ってくれたんだよね」
話をとぎらせた彩音は、ふいに背筋を椅子の背もたれに密着させる。真っ直ぐな姿勢をつくり、今まで見せたことのない大人びた難しい顔をあらわした。次に腕組みをして、今の会話に出た友人の振る舞いを演じはじめる。父親を上回る貫禄さで、遠くの世界を眺めているような目をつくり、台詞をまねする。
「うーむ、彩音……場数をふんで鍛えるしかないかな」
敏感にとらえたのは父親だ。声音も変えている娘を目の前に、父親の彫像は、鋭いきしみ音とともに、脆くも切れ目がいくつも走る。ところで、母親はというと。
「ふふふ、たくましいガールフレンドね」
ふところ深そうに、目を細くしてただ薄く笑った。
そのときまで妹は、豚肉の一切れを、小さな口を精一杯大きく開いて、豪快にほおばっていた。食事どきに見せた、姉の珍しい芝居に目を輝かせる。
「ネータン! ネータン! バカズってなに? きたえるってなにを!? カレシはボーイフレンドと違うの!? 学校おもしろそうだね!?」
妹は、悪気なく姉にたずねた。だが、幼女の甲高い声音が原因か、あるいは善意からくる無神経な言葉の内容からなのか、それが起爆装置となったらしい。無言になった父親の“彫像”は、崩落する高層ビルのごとく、無惨に崩れてしまった。
「あら、あなた、箸が止まっているけれど、もうお茶を入れますか?」
妻から見ればいつもとあまり変わらぬ夫の姿である。ことによると、すでに妻の胸中では、夫の心の底が映っていたからこそ、お茶をすすめたのかもしれない。
とにかく、妻の親切な問い掛けもむなしく、父親の身中のそこかしこで哀れな崩落音がけたたましく鳴ったのである。
“崩落”した父親の様子はさておいて、彩音はふたたび食事をつづけたのはいうまでもない。三人の女性には、父親の孤独な自尊心からくる“泣き声”はどこまで聞こえただろうか。仮に、父親の全身が、本当に物理的に崩れ落ちたのなら、それをどう受けとめるのだろうか。
「お父さん! 先にごちそうさまするね!」
しつけがとても行き届いているのであろう。妹は一人はやく合掌した。まるで墓標にむかって哀悼しているような静かな姿である。
了