09.藤崎由梨(中)
彼女は静かに言った。
私、小学生の時、苛められてたの……と。
僕はその告白を前に、驚かなかった。
何となくだけど、予想していたことでもあった。
それなのに……沖の遠鳴りのような、うら哀しい、遣る瀬無さをその身に感じた。
しかしそんな感慨の中、僕はここから先に進まなければならないと自分を叱咤した。彼女が、僕にその言葉を開いた意味を考えなければいけないと。
永遠にも思える――それは実際には数秒のことだったのだが――無言を経て、僕は彼女に尋ねた。
「苛められてたって?」
彼女は、もう僕を見なかった。
抱えられた秘密は、行き場を見つけたかのように、言葉となって溢れる。
「私、小学五年生の時にね、お母さんの友人に頼まれて、通信カタログのモデルを始めたの」
「通信カタログ?」
僕は聞き返す。
彼女の言葉には、もう震えもドモリもなかった。
「そう、子供服の。初めはそのことを、学校の皆に秘密にしてた。でも、仲のいい娘にだけ、こっそり話しちゃって……」
彼女の声音は、ちょっと聞くと、愉快で笑いだしたくなるといった様相だった。しかし耳を澄ませると、その底に今にも泣き出しそうな感情の震えがあることを、僕は悟った。
「そうしたらその娘、自分のことのように喜んでくれたの。凄いね、凄いねって……その娘、頭もいい上に、女子バスケットのレギュラーで、年の離れた格好いいお兄ちゃんがいて、クラスの女の子の中心みたいな子で……多分、私と一番仲が良くて」
声音はいっそう明るいものになった。だがそれが作られたものであると分かると、その分だけ僕の胸は重くなり、鉛を飲みこんだような沈鬱に支配される。
「でも……学級委員会の時間で、クラスの問題とかを話し合ってた時にね……その娘が突然、手を上げて言ったの……『藤崎さんは、小学生なのにアルバイトをしています』って」
彼女は堪らない悲哀の中で、一瞬言葉を詰まらせる。
気丈にも、笑顔を作って見せた。今にも崩れ落ちそうな笑顔を。
しかし、それが彼女の最後の強がりで……。
やがて眼の縁にじんわりと涙が浮かぶと、細面の中に感情が広がり、くしゃくしゃになった。瞳から涙があふれる。
「……びっくり……したの。私が載ってるカタログが発売されると……一番に喜んでくれたのに。多分……友だちだったのに」
僕はその告白を前に、言葉をなくした。
「学級委員会ではね……別に、私がモデルをやってることは……大した問題にはならなかった。せ、先生も、応援してくれた……」
涙を手で拭い、しゃくりあげながら、彼女は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「だけど、その日以来……クラスの女の子から無視されるようになったの。話しかけても……何にも、何にも答えてくれない! まるで、私なんか存在しないみたいで……でも、耳を澄ませてると、ひそひそ、私の……私の悪口を言ってるの。男の子も、なんとなくそのことを察したみたいで、急に私を避けるようになって――」
空からは陽光が零れ、日差しは暑い程だった。それに比して、彼女の言葉は通り雨に打たれたかのように、濡れ細り、
「何度も、何度も考えたよ! どうして? どうしてって? でも答えは見つかる訳もなくて……」
やがて重い呼吸の中で、嗚咽に変わった。
僕は無言でハンカチを差し出した。後ろポケットに突っ込んであったそれは、お世辞にも折目が整っているとは言えない。それでも、彼女の涙を拭く役目くらいは果たせる。
彼女は一瞬躊躇ったが、やがてそれを受け取ると、溢れる涙にそっと当てた。暫くすると「昔、ユウマもこうやってハンカチを渡してくれたことがある」とぽつりと漏らした。
「大久保君とは、小学校からの付き合いなの?」
彼女の涙が乾くのを待ち、僕は尋ねた。
「うん、家が近くてね……小学校一年生からの腐れ縁なの」
彼女は少しだけすっきりした顔で、僕に柔らかく笑って見せた。
「その時も……私がクラスの皆から無視されてた時も、ユウマだけは私の傍にいてくれた。その頃、ユウマは家のことで色々と事情を抱えてて……大変だったんだけどね。登下校の時は、いつも一緒にいてくれたし。なんとな~く寂しい時にも、特に何か言う訳じゃないんだけど、傍にいてくれた」
人の数だけ生活があり、人の数だけ事情がある。
でも大久保君のその過去は……今の彼からはまるで想像できないもので、人生の困難を、その身に染みて感じた。
「モデルもね……途中で辞めるのも母の友人に悪いし、まさか母も、私が苛められてるなんて知らなかった。私も……私も言えなかった。だから、踏ん切りがつかなかったんだけど……中学に入った時に止めたの」
話が中学時代に移ると彼女は少しだけ朗らかさを取り戻し、楽しげに語った。
僕は沈鬱な顔を潜め、彼女の言葉に耳を傾ける。
大久保君と二人、同じ陸上部に入ったこと。髪を短く切ったこと。真っ黒に日焼けして、母親から陸上を辞めさせられそうになったこと。そして、新しい関係性の中で、仲の良い友だちが出来たこと。
「多分……私にとって、その時期が一番幸せだったと思う。でも、陸上部を引退して、また髪を伸ばして、肌の色も戻ると……ユウマと、陸上部の友だち由愛っていうんだけど、それ以外の人から、無視って程じゃないけど、遠巻きに見られるようになったの」
彼女は、その理由をはっきりとは言わなかった。
だからこれは想像だけど、髪を伸ばして日焼けが抜けた彼女は、今彼女に備わっている、手にとって眺めることが出来るような美しさを、その頃から既に覗かせていたんじゃないか。そう思った。
女の子の中には、ただ綺麗というだけで、同性からそれとなく避けられたり、根拠のない陰口を叩かれる人がいる。僕の学校にもそういう子がいた。
さっき彼女が言ったように、女の子の世界に男は口を出せない。だから僕たちもそれとなく雰囲気を察して、その子と関わりを持たないようにしていた。
でも――。
もし、もしその子が、藤崎さんだったとしたら?
するとあらゆる感情が僕の表情からなりを潜め、世界の認識から置いて行かれたように現実が遠くなり、体がふらついた。
「アイツ……ユウマが、私のことをマサカドって呼ぶようになったのも、その頃から。ユウマはもともと、あんな性格じゃなかったの。もっと物静かで、ストイックっていうか、自分に凄く厳しくて、陸上の大会でも数えきれない位メダルもらって……それで、それで……時々、一人、凄く寂しそうな顔してて」
畳みかけるように述べられた事実は、僕の現実を見失わせるに十分であり、驚きに喉が詰まり言葉が出なくなった。
「小学校の一年から中学二年まで、アイツとはずっと一緒のクラスだった。でも三年で初めて離れて……それでも皆と仲良くやってたと思ったんだけど……部活を引退した後、私は一人、教室で心細くて、私が席を立つと、一瞬クラスが無言になるのが嫌で……教室からも出られなくて。そしたらアイツが、由愛と遊びに来たの」
「うん」
僕はようやく、言葉をつないだ。
「その時、なんとなく、教室の空気っていうか、私の置かれてる状況を察したみたいで。それで驚いた顔したと思ったら、今までユウマから聞いたこともない大きくて、ガサツな声で『おい、マサカド! 遊びに行こうぜ!』って……私の手を引っ張って、クラスから連れ出したの」
教室の隅。一人机で佇む彼女。
驚く二人。夏の半袖制服。歩み寄る大久保君。手首を掴む彼の――。
その光景は、不思議とありありと思い起こせるようだった。
「その日以降、放課ごとに遊びに来るようになって。どうしてか分からないけど、口調も突然変わってて……前までユウマ、自分のこと“僕”って呼んでたのに、いきなり“オレ”に変わって、それで徐々にあんなヘンテコな性格になっちゃたんだけど……でも、今でも覚えてる。アイツ……私の手を取ったあの時、震えてたの……」
僕は語られる中、彼の変容に思いを馳せる。
物静か? ストイック? さびしげな顔?
それが、どうしていきなり……。
実際に見た訳でもないのに、大久保君が藤崎さんを教室から連れ出す映像が、何度も何度も、リアリティを持って僕の中で流れる。
『おい、マサカド! 遊びに行こうぜ!』
『ユ、ユウマ?』
大久保君は強引に藤崎さんの手を掴む。彼女はつんのめりそうになりながら、彼についていく。彼は前髪で表情を隠し彼女を見ない。そして彼の手は震えていて……。
何故、彼はそんな行動を? 何故、彼は震えていた?
彼は一体……何から彼女を……守ろうと……。
その瞬間、僕は刺すような痛みの中であることを理解した。
大久保君の演技がかった台詞や態度。
藤崎さんが僕と初めて会った時、流した涙の訳を。
その時、僕の精神を響かせたものは嫉妬ではない。
しかし喜びでもない。
それは体中の毛穴が開くような戦慄であり、また限りなく美しいものを反芻する恍惚であり、その二つが人里離れた小さな湖畔で、蓮の花が開く時に生まれる微かな波紋のように、限りなく静かに僕の中で響いた。
彼は、大久保君は守ろうとしていたんだ。
彼女を、藤崎さんを、世界の冷たさから――。