07.南山動物園(下)
「ふはははは! やはり学校をさぼって飲む酒は格別だな! そう思うだろう、同志マコトよ!」
「え……あぁうん」
僕たちは大久保君に強制されるまま、発泡酒片手に園内を散策していた。南山動物園では、ジュースはもとより、お酒の持ち込みも自由らしく、赤ら顔で闊歩する僕たちを注意する人は、誰もいなかった。
「まったく、なんでこんなことに……ちょっとユウマ、私にもベビースター頂戴」
「ふ、仕方ないな。少しだけだぞ」
そう言うと彼は藤崎さんの手に黄色の山を作り、彼女は躊躇することなくその山を口に放り込んだ。似つかわしくないそのワイルドさに、思わず見とれてしまう。
大久保君が用意したツマミは、何故かベビースターラーメンと魚肉ソーセージの二種類だけだった。僕は先程から魚肉ソーセージを齧りながら、発泡酒をちびちび飲んでいる。
桜並木を抜けた後、正面に噴水を見て、僕たちは順路を右に折れた。動物会館と呼ばれる資料館を右手に通り過ぎ、動物のいるエリアへと至る。
最初に僕たちを待ち構えていたのは、酷く乾いた肌を持つ、インドサイだった。
「いよぉし! おいマサカド、ちょっと発泡酒持ってろ」
「はいぃ? あぁ、写真撮るのね? ほんとっ子供なんだから」
先程から発泡酒をグビグビと流し込んでいる藤崎さんは、早くも酔っているようだ。
対して、僕はと言えば、ビールや其れに類する発泡酒を口にした経験はあったが、あまり美味しいとは思えず、結局、今日も舌先でチロチロと舐める位にして、ロング缶の発泡酒を持て余していた。
するとインドサイの檻の前で、写真を撮りまくっていた大久保君がこちらに視線を向け、「なんだ、マコトはビールが苦手か?」と、珍しく気遣うような声をかけてくる。
「苦手っていうか、あんまり飲んだことなくて……美味しさが分からないっていうか」
言って、ちびちびと缶を傾ける。やはり、余り美味しくない。
「んん? アベくん。そうじゃないのよ~」
すると顔全体を匂い立つ桃の花のように染めた藤崎さんが、ニヤケ顔で近づく。酔いの中で彼女は、僕を地元の友だちと同じように安部と呼んだ。
「ビールはね、アベくん。 喉! 喉で飲むのよ! おわかり? ふふ、ふふふ」
「アベ? おいおい、こいつはマコト! 鈴木誠だぞ」
小麦色の肌を赤らめた大久保君が、彼女の言葉に疑問と訂正を挟む。
「そんなの知ってるわよぉ。でも中学から、安部礼司くんって呼ばれてたんだもんね。ね~、安部くん」
そう言うと彼女はまた、長い首を脈打たせ発泡酒を胃へと流し込む。
喉で飲む……ねぇ。
試しに、口内に溜めた唾液を奥までひっぱり、喉で飲んでみる。彼女と同じように、首が脈打った。こんな感じ……だろうか?
そして意を決し、発泡酒の缶を口につけ、一気に流し込んでみた。
「グハッ、グヘッ」
「お、おいマコト? 大丈夫か?」
「アハハハ、大人の階段のぼる~♪ 君はまだ~シンデレラっさ! アハハ」
唾液と違い、炭酸の刺激があることを忘れていた為、思わずせき込んでしまった。だが発泡酒が喉を抜けると、不思議な快感を覚えたことも確かだ。
僕は魚肉ソーセージを齧り、コツとも言うべきものを忘れない内に、再び発泡酒を流し込んだ。
すると――
「あ……美味しい……かも」
僕は今まで飲み物を味で判断し、美味しいか否かを判断していた。しかしその時、喉越しの旨さとでもいうべき、別の尺度があることを発見すると、自然と笑みが零れた。
それは、不思議な感覚だった。
「ふふふ、安部礼司君が、ビールの飲み方を覚えたってことは……平均的な大学生は、もう大体ビールの飲み方を覚えてるってことよね? ふふふ、うふふふふ」
「安部礼司? おいマサカド、お前さっきから何を言ってるんだ?」
奇妙な笑い声を上げる藤崎さんを前に、大久保君は一人困惑の表情のまま、彼女から発泡酒の缶を受け取ると豪快に煽った。
「英語のアベレージだって、ふふん、なに? ユウマ知らなかったの? ふふん」
大久保君がそのことを知らないのが、堪らなく嬉しいかのように、彼女は得意げな表情を浮かべた。
「アベレージ? 確か平均という意味だったか? しかし、それがマコトとどんな関係が?」
大久保君は藤崎さんにからかわれるのが面白くないと言った態で、フンと鼻を鳴らし、また発泡酒を煽る。
僕はその面白くなさそうな大久保君の顔を見ると、別に秘密にしておくことでもないかと思い、その名前の来歴を彼にも説明した。
その間にも僕たちは発泡酒を飲み、ベビースターラーメンを口に放り込み、魚肉ソーセージを齧った。多分、僕たちはその頃から、手のつけられない位に酔い始めていたんだと思う。
事実、説明を終えると大久保君はゲラゲラと笑い始めた。
「あ、安部礼司! げほげほ、マコトォ! おまえ、そんな凄い奴だったのか!」
それにつられて藤崎さんもケラケラ笑う。
「そうよ、ユウマ。アベ君は、すっごいんだから」
僕はアルコールで痺れた思考の中、何だかそれが嬉しくて、その場で直立に飛んでみせた。
「垂直飛び、全国平均」
不意をつかれた二人は、「ブハッ!」と噴き出した。
調子に乗った僕は空気椅子に腰掛け、発泡酒を持っていない方の手を頭に乗せると、誇らしげに言って見せた。
「座高、全国平均」
二人はゲラゲラと、意味もなく腹を抱えて笑った。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
その後、僕たちはアジアゾウや、ソマリノロバや、ライオンや、日本カモシカや、キリンやダチョウや、フラミンゴなんかを発泡酒を片手に、見て回った。
大久保君は動物の檻を前にする度に熱心に写真を撮っていたし、僕と藤崎さんは、動物に「おい!」と呼び掛け、「なんすか? 勘弁してくださいよ」と、彼らが呆れたようにこちらを向く度に、意味もなく爆笑した。
「ねぇねぇ、アベ君。ちょっと、ちょっと」
大久保君がフラミンゴの写真を撮っている間、藤崎さんは一人先に進むと、ある檻の前で僕に手招きした。誘われるまま近づく。
そこには心底迷惑そうな顔で、眉根をよせてこちらを見ている虎がいた。
彼女は体を震わせ、笑いをこらえながら、
「ねぇねぇ、この虎。スマ、スマトラ、トラだっ……て」
と言うと、突然吹きだして狂ったように笑った。
「そんなので笑わないで下さいよ。ス、スマ、スマトラ、ト、ト」
僕は言い終わらない内から、もう笑っていた。
大久保君が、なんだなんだ、と嬉しそうにこちらに近寄って来る。
ロング缶の発泡酒を飲み干してしまうと「ユウマ、酒がきれたぞ」と彼女がゴネはじめた。そこで僕たちは「スマトラトラ、スマトラトラ」と連呼し、爆笑しながら売店を探し歩く。
売店は案外直ぐに見つかり、その一角でアルコール類が販売していた。
「おい、マコト、マサカド!」
その一角に張り付いた大久保君が、何か面白いものでも見つけたかのように手招きする。
「ワ、ワンカップ大関だって……に、二百円」
なぜか分からないが、僕らは笑いを堪え切れなかった。
「な、なぁ、マコト。こ、これ熱燗にしてもらえ」
「馬鹿じゃないの」
吹きだしながら僕は答えた。
「そうよぉ~、コンビニじゃないんだからぁ、ほんっと、ユウマは馬鹿ねぇ」
藤崎さんが、大久保君にしなだれかかるようにして言う。
「ふ、藤崎さん? コンビニでも、多分カップ酒は温めてくれないよ」
え? と彼女が驚きの表情を見せた後、僕たちはまた、大爆笑した。
「マサカド、お、お前! コ、コンビニで弁当と一緒にカップ酒、温めますかって、お前!」
「あははは! カ、カップ酒、温めますかって? はぁ、く、くるしぃ。ねぇ、ユウマ、ちょっと、カ、カップ酒、温めますかって、私に聞いて!」
「よぉし! ピッ、ワンカップ大関、に、二百円です。こ、このカップ酒、あ、温めますか?」
「出来ないよ!」
僕が突っ込むと、また三人で爆笑した。
売店のおばちゃんは僕らを警戒しつつも、終始事務的で、無関心な様子だった。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
その売店で発泡酒を三本買った僕らは、アシカやペンギンや、カバやクロサイや、コンドルや猿や、ゴリラ等を見て回った。
やっぱり大久保君は熱心に写真を撮ってたし、僕と藤崎さんは動物に呼び掛けると、狂ったように笑った。
そこでは世界は溶けて混ざり、僕の意識は大久保君や藤崎さんと溶け合ったように一つになっていた。孤独はなく、三人だけの人類の王国が打ち立てられる。
相変わらず人はいなかったし、春の日差しは温かで、頬を撫でる風は気持ち良く、喉をすり抜ける発泡酒は僕たちに限りない快楽をもたらした。
だけど園内を一周して、桜並木の前に戻ると、抗いようのない限界に達した。僕たちは桜並木の奥に潜り込み、人目につかず、ひっそりと立つ一本の桜の下に腰掛けた。
「ふふ~ん。ねぇアベくん。あのね、こういう時、平均的な男の人ってシートとか持ってたりしないの?」
藤崎さんは、桜の木に寄り掛かると、半分眠ったように僕に尋ねた。
「そりゃアベレージな男は、こういう時シートなんか持ってないですよ。シートなんか持ってたら違反! 重大な違反ですよ」
僕もまた、ぐるんぐるんと回転する思考の中で答えた。
その後二人で、平均、平均、安部礼司、安部礼司と、言葉を散らかしながら訳もなく笑った。
「ふ、ふふふ。ははは! 見ろぉ!」
僕たちのそんな遣り取りを聞いていた大久保君が、ゴミ袋と化したコンビニ袋から、がさがさと何かを取り出した。
ビニールシートだった。
コンビニに売っている。牧歌的な。ピンクと白と黄色の。
僕たちはまた大爆笑する。
シートをいそいそと広げ、その上に上半身を横たえた。
「あぁ……駄目、これ、すっごく、気持ちいい」
「あぁ、本当だ。なんか、世界平和の形が……見えた気がする」
「ふ、平均をはるかに凌駕したこの俺を、崇め奉るといい」
大久保君を真ん中に据え、母胎に抱かれていた頃のまどろみを思いだすように、僕たちは午睡に落ちようとしていた。
桜の木。影を作る程の、満開の下。
眠気に落ちては這いあがり、這いあがってはまた落ちる。
鳥のソプラノ。空知らぬ雪のように白々と落ちる、桜の花の――。
動物園に横たわる巨大な午睡。輪郭を共有した、僕たちの小さな宴。
一際大きな、高潮のような眠気が僕を浚う。
その間際、眩く意識の中で、藤崎さんの言葉が思い出された。
『きっと私、あんまり人が好きじゃないんだと思う』
話さなきゃと、僕は思った。
そんなこと言うなって。
殆ど人がいないこの動物園だって、陽光に誘われ、午後になれば徐々に賑わい始める。
すべては流れてるんだ。
変わらないものなんて一つもない。
そこには良いも悪いもない、全部、日常の中で変わって行く。
眠過ぎて口に出せなかったが、起きたら、そう言おうと思った。
それに君には大久保君がいて、多分、君は大久保君が好きで、彼も君のことが好きで……。
多分。多分。多分。きっと、そうなんだ。
話したいことと、話せないこと。
言葉になることと、言葉にならないこと。
そう言う全てを、とにかく、君に言おうと思った。
それに、それに、それに……。
濁った意識の中。
今わの際に、最後の言葉を残す老人みたいに、僕は言葉を紡いだ。
「世界が冷たく感じるのは……君の方が……温かい……から……な……んだ」