06.南山動物園(中)
そのまま地下鉄に揺られ、僕たちは南山動物園を目指した。
電車には殆ど乗客の姿は見られなかった。だけどそこには他者の視線が少なからずあって、藤崎さんはまるで何かから自分を守るように、完璧な美しさに包まっていた。
すると先ほどまで開かれていた親和性の扉が、急に閉じられたように感じ、僕は口をつぐんだ。彼女も僕に話しかけてくる素振りを見せなかった。
僅か三駅ばかりの距離が、遠く、長く感じた。
「フハハハ! よくぞ逃げずに来たな、マコト、そしてマサカドよ!」
目的の駅につくと無言で坂道を上る。南山動物園前の緩やかな階段を上り切った先で、コンビニの袋をぶら下げた大久保君が、仁王立ちで僕たちを待ち構えていた。
「はぁ、なんなのよ、その魔王みたい台詞は……っていうか、マサカドって呼ばないでって言ってるでしょ」
藤崎さんは大久保君に向けて自然に口を開く。彼女と二人きりで話した後だから気づいたことだけど……抗議をあげるその声には、微かに弾んだ色が隠されていた。
「それで大久保君、わざわざ来たのはいいんだけど、何するの? まさか……襲撃するとかいうんじゃ――」
「おいおい。俺がそんな考えなしの人間に見えるか?」
「見えるわ」「見える……かな」
僕と藤崎さんは、間髪入れず答える。
「お前たち! 揃いもそろって、俺をなんだと思っているんだ!」
すると大久保君は、髪を逆立てるようにして吠えた。
僕たちはその言葉に、顔を見合わせる。
「ユウマ……聞きたいの? ちょっとアナタにとって、辛い話になるけど……」
「どんな話だ! ふ、まぁいい。とにかく、さっさと動物園に入るぞ」
そして促されるまま入場口へと進んだ。
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「なんか、思った以上に入場口って物々しいね。こんなんだっけ」
小さな頃、動物に会えるという期待を、その小さな手に握りしめていた時には気付かなかったが、入場口中央では鉄製の開閉扉が、何とも言えない威圧感を放っていた。
その上には、「南山動物園にようこそ」という、ポップな字と共に、藤崎さんみたいに睫毛の長い象やキリンが、口角を上げて威嚇……じゃなくて、友好的に微笑みかけている。
「い、言われてみると、そうね。なんか、動物園っていうか、国会議事堂前みたいな雰囲気かも。小さい頃は、もっと違って見えたのに」
藤崎さんが、僕に同意を示す。
「そうか? 昔からこんなもんだったぞ。大方お前たちは、薬でも決めてご機嫌になってたんだろ」
「あぁそっか、なるほど……ってそんな訳ないでしょ! どんな子供よ!」
大久保君のとんでもない言葉に、藤崎さんが食って掛かる。
「いやいやいや、子供をなめるなよ。チョークの粉を細かく刻んで鼻から吸引し、プラシーボ効果でご機嫌になって、『よぉし、俺がいっちょ、家庭内暴力ってヤツを教えてやるよ!』と家庭科の時間に、女教師に殴りかかる位は当たり前に――」
「あり得ないから!」
そのまま二人は口論を続ける。その遣り取りを横目に見ながら、藤崎さんが自分らしい感情のまま、世界に向けて自分を開けるのは大久保君の前だけなのかもしれない。そんな風に思った。
その考えは、僕の胸の辺りを酸っぱく痛ませる。
「マコト! どうしたボサッとして? さぁいくぞ」
「あ、うん」
僕は少しの感慨を引きずりながら、販売機で入場券を購入した。そして物々しく頑丈な正面扉の横にある、高速道路の料金所のような入口から動物園に入る。
どこか見覚えのある広場に、春の日差しが射し込み、石畳に含まれた金属質の結晶がキラキラと光るばかりか、反射光となり、眩しい程だった。
僕はその反射光を手でさえぎりながら、開けた視界の中で、動物園を一望する。
動物園の一般的な規模がどの程度なのか把握してないが、南山動物園は植物園を内包している為、かなり広域な領地を有していた。確か、敷地内では、湖でボートを漕ぐことが出来る他、観覧車まで備わっていたと記憶している。
県外からわざわざ訪れるような場所ではない。しかし県内の人間なら名前くらいは知っていたし、多分、子供のいる家庭なら、一度は訪れた経験がある。南山動物園――正式には、南山動植物園――は、そんな動物園だった。
「あ、桜だ!」
藤崎さんの声に顔を向け、彼女の指さす先を眺める。
そこには見事な桜並木があった。散り始めた桜がハラハラと、たおやかな女性の隠しきれぬ涙のように流れている。
「ここは桜の名所でもあるからな。というか中学生の頃に、うちの爺さん婆さんと来ただろ。マサカド、お前、もしかして忘れたのか?」
僕たちは桜に吸い込まれるように、広場から桜並木の前へと移る。
「だからマサカドって呼ばないでよ! それに、中学生の頃に来たこと私が忘れる訳ないでしょ? ふふっ、たまにアルバム見返すし。それにしても……あ~あ、あの頃のユウマは優しかったのにな、どうしてこんなんになっちゃんたんだろ」
藤崎さんはからかうような瞳を大久保君に向けると、意地悪そうに笑った。
「ふむ、知識と教養に溢れ、ウィットに富んだ会話のみならず、肉体美に優れた俺! か……確かに、あの頃の俺からは、世界が嫉妬するような今の俺は、全く想像できないだろうな」
自信満々に唱える彼を前に、僕と藤崎さんからはどんな感想も出てくことはなく、ひきつった笑みをお互い浮かべた。
「ま、そんなことは置いておいてだ! 二人とも、これを持て」
すると大久保君はコンビニの袋から、長い缶のようなものを取り出し、僕たちにそれぞれ渡した。
「え……?」
ひんやりとした感触を手に覚えながら、まじまじと手渡されたものを見る。
「ユウマ……あんた、これって」
「あぁ、発泡酒だが、それがどうした?」
そこには伝説上の麒麟が、ペコペコと乾いた音を立てて歪む、アルミ缶に描かれていた。
「ちょ、ちょっと! ユウマ! 何いきなり、自然に手渡してるの?」
「ん? 平日の朝っぱらからへべれけに酔っぱらって、ウダウダと一日を過ごす。大学生なら当たり前のことだろ、何か間違っていたか?」
平然と言ってのける大久保君だが、もはや間違っていない所を探すほうが難しい。
「ダメダメダメダメ! そんなのダメなんだからね」
「何を言っている? 大学に合格した時、おれの家であんなに酔っぱらって、酒瓶を離さなかったくせに」
「はい忘れる~! そのことは忘れる~!」
「ちなみにその時の写真が――」
「ストォォォップ! はいストップ! って本当に止めなさいよね。アホ! アホユウマ!」
「なんだとぉ! このマサカドが! マサカド! マサカド! タイラ! タイラ!」
「く、このぉ……よくも言ってはならないことを! もう、バカバカバカバカ!」
「タイラ! タイラ! タイラノマサカド!」
その言い合いの中で、なぜ藤崎さんがマサカドと呼ばれているのか、その理由が垣間見えた気がした。僕は無言で彼女の胸部を盗み見る。
敢て僕は何も言わない。
もし何か言うことがあるとすれば、そう、彼女はスレンダーなんだ。
やがて二人は、小学生じみた言い合いを終えると、荒い息を吐きだした。
「と、とにかく、未成年の飲酒は駄目よ!」
「ふ、未成年の飲酒は駄目だぁ? ならおいマコト、ちょっとこれを読んでくれないか?」
大久保君は後ろポケットから折り畳まれた紙を取り出して、僕に手渡す。
「えっと……なにこれ? 取りあえず広げて読めばいいの?」
僕は状況について行くことが出来ずに、困惑の声を一人あげる。
「あぁ頼む」
言われるままに、折り畳まれたコピー用紙を広げる。そこには印刷した文字でこう書かれていた。
「未成年の飲酒・喫煙は法律で固く禁じられています。尚、本作はフィクションであり、登場する人物、団体は現実世界のものと、一切……関わりがありません? また、本作品に登場する人物は、全て二十歳以上です……って、何これ?」
誰に向けて、また何のために宣言されたものか分からず、僕はただ大久保君を見た。
「ふ、いわゆるお約束という奴だ。これさえ言っておけば、例え子供みたいな容姿の奴が酒を飲もうが、鼻から白い粉を吸引しようが全て問題なくなる! という訳で、問題は全て解決した。さぁ、大学生らしく朝から飲むぞ」
どの辺が大学生らしいのか、僕には正直理解が出来なかった。
というか……白い粉って。
「だから飲まないって! 大体、まだ十時よ。幾らなんでも、そんな朝っぱらから飲む大学生なんていないわよ。っていうか、それオッサンよ、オッサン」
そう言うと藤崎さんは、汗をかいた発泡酒の缶を大久保君に突っ返した。しかし大久保君は受け取ろうとはせずに、例の不敵な笑みを浮かべていた。
「う……なによユウマ、その目は……あなた、またよからぬことを――」
事実、大久保君はまたとんでもないことを口に出した。
「よ~し! マサカドが飲まないと言うのなら、口うつしだ」
「え?」「はぁ?」
僕と藤崎さんが素っ頓狂な声を上げる。止まった時間の中を、春の生ぬるい風が吹き抜けて行った。
「く、くくく、くち、くちうつしって、ゆ、ゆゆ、ゆうま、ほ、ほほほ、本気なの?」
彼女の頬は、じんわりと、火に映えたように赤くなる。
「ふ、俺は言ったことは必ずやる男だ! お前が飲まないと言うのなら……俺が飲ませてやる!」
そこには恋や愛や大切にしている想いや、言葉にならない感情、そんなものは一切なく、ただ単に意地悪だけがあった。
「い、いやいやいや、そそそそ、そんなのって、ゆゆゆゆ、ゆうま?」
大久保君の手元からプシュと、炭酸の抜ける音が響く。彼はそのまま、缶の中身を口いっぱいに蓄えた。
「ひゃあ、まひゃひゃど、いふほ(さぁ、マサカド、いくぞ)」
大久保君が藤崎さんににじり寄る。彼女は、何かに縫いつけられたように、その場から身動き出来ず、「え? うそ、うそうそうそ! ええ?」と困惑に身をすくませていた。
そして僕はといえば、割り込んで制止することも叶わずに、ただその光景を、驚きと困惑の中で眺めることしか出来ずにいた。
やがて彼女の両肩に、大久保君の両手がのしかかる。
「え? ねぇ、ユウマ、うそ、うそでしょ?」
彼女の目じりは、困惑の涙で僅かに光っていた。
「まひゃひゃほ、ほへは、ほんひは!(マサカド、俺は、本気だ)」
「えぇ? 本気、本気なの? 動物園で? シチュエーションは、まぁそんなに……ってバカバカバカバカ! い、いや! は、はじめてがこんなのって、いやいやいやいや」
ファーストキス。
思わぬ情報に、胸中に奇妙な安ど感が広がるが、その間にも二人の顔の距離は刻一刻と迫っている。
「ほほはひくひろ、まひゃひゃほ(大人しくしろ、マサカド)」
「え? なに、えぇ? えぇ?」
そして今や、二人の間の本質的な距離は鼻と鼻が接触しそうな程に迫っていた。
まさか、本当にこのままいってしまうのか。
僕が思わず、唾を飲み込むと……。
「わ、わかったわよ! 飲めばいいんでしょ!? だから、お願いだからやめてぇぇぇぇぇぇえ!」
園内に、藤崎さんの甲高い声が一際大きく響いた。