05.南山動物園(上)
「ふ、ふははははははは!」
「ユウマ、その笑い方、不気味だからやめなさいってば」
YURINAさんが、うんざりとした顔を隠さず、母親か恋人のようなことを言う。だが大久保君は、その言葉に頓着した様子を見せず、三千世界に響き渡る笑い声を止めようとはしない。
「いよぉぉし、三人揃った! 動物解放戦線の誕生だぁ! さぁお前ら、今すぐにでも行動を開始するぞ。飛び出せ穴倉! ライク、ア、モグラだ!」
彼の言葉を前に、僕と彼女は思わず顔を見合わせる。
透き通る乳白色の肌。そよぐ髪のキューティクル。
鼻筋の通った細面に咲く、凛とした彼女の……。
赤面しそうになると、直ぐに顔を反らした。しかし彼女は、そんな僕の様子には気づいた素振りを見せず、大久保君に顔を向ける。
「ユウマの表現は、今ひとつ良く分からないけど……いい? 言っとくけど私は、犯罪には加担しないし、アナタにもさせないからね。そこのところ、ちゃ~んと理解しておいてね」
するとタイミングを見計らうように、チャイムがうつろに響く。
「嘘? もう一限目の時間?」
彼女は慌てふためきながら、手の甲を返し、時間を確認した。
僕もそれにつられて、手の甲を向ける。時計盤は、九時二十分を指していた。
本来なら、教室に駆け込んでしかるべきなのに、僕の足は不思議とその場に縫い付けられたように動かなかった。
それは小さい頃、夕日が家路を染める中、まだまだ友達と遊んでいたいという、興奮の残滓に揺れるようであり、また何かが変わっていくという予感ゆえでもあった。
「とりあえず、話はまた後ね! 私、講義にいかなくちゃ」
だから彼女のその言葉を前にすると、僕と彼女に掛けられた橋が、突如、袂から断たれたように感じ、例え僕がどんなに手を伸ばしても、彼女には届かず……。
「待て待て、待て~い!」
大久保君が、僕の願いを体現するかのように、彼女の進路に横とびで回り込んだ。
「ユウマ邪魔。どいて」
「あ、すいません。って馬鹿野郎! マサカド! お前、一体どこへいくつもりだ?」
「どこって……講義にきまってるでしょ? あとマサカドって呼ぶの――」
「講義だと? いつまでも高校生気分が抜けない奴だな。いいか、俺たちはもう大学生だぞ? 大学生の本分を忘れているんじゃないか?」
彼から、『大学生の本分』等と言う言葉が飛び出すとは思いもせず、僕たちは示し合わせたように顔を傾げ、
「本分って……アナタ」
「学業じゃないの?」
と言った。
その言葉に彼は再び口を歪ませ、背伸びするように、無遠慮に、腹の底から響く笑い声を上げた。
「フハハハハ、馬鹿め! 大学生の本分と言えば、単位を落とさないようにギリギリまで講義をさぼり、昼間っから酒をかっくらってダラダラし、一日一日を無為に過ごすことに決まってるだろ!」
彼はそれが最近生まれた流行でもあるかのように、得々として語る。僕たちはその流行が理解できず、頭をかしげる人のように訝しんだ目で彼を見た。
「それが講義に出るだと? 建設的すぎて、吐き気がする! さぁ行くぞ、俺についてこい。動物解放戦線の最初の活動だ!」
僕たちは反論の暇も与えられないまま、大久保君に手を取られる。
「はぁ? ちょ、ちょっとユウマ」
「ハ~ッハッハ! いざゆかん、南山動物園!」
結局、そう言いだした大久保君を止める手段は僕達にはなく、グイグイとバス停まで引っ張られ、押し切られるような形で近くの動物園に向かうことになった。
YURINAさんは最後まで抵抗していたけど、大久保君に脅されると、
「はぁ……わかったわよ。いい? これっきりだからね」
そんな風に渋々と言った態で承諾してみせた。
対して僕は、気づけば待ち望んだ未来を手にしたように、軽い足取りでバスに乗り込んでいた。
その心の働きに気づいた時、一番驚いたのは他ならぬ僕だった。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
「それでは、南山動物園で落ちあおう!」
スクールバスの席に座る僕らを満足げに眺め、大久保君がシュタッと右手を上げる。
「あれ? 大久保君は乗らないの?」
僕が尋ねると大久保君は悠然と叫んだ。
「ふ、俺にはマイ、バァァァァァァイクゥゥゥゥウ! がある!」
小さい頃に見たアニメの主人公のように叫ぶ彼を黙って眺める。あのアニメの世界の大人たちも、「なんでこの子、一々叫ぶのかしら」と主人公を冷めた目でみていたのだろうか。
「そんな訳で、先に行って待ってるからな! いいか、逃げるなよ! 特にマサカド。お前、逃げたら例の画像を、ンガッ!」
大久保君は、スポーツブランドのロゴが付いたジャージを投げつけられ、頭に被った。
「マサカドっていわないでよ! あと、ユウマしつこい! いちいち写真のこと言うのやめてよね」
YURINAさんは僕の隣――二人掛けの窓際の席――で、中腰になってジャージを投げつけると、肩を怒らせながら抗議の声を発した。
するとジャージを頭に被った大久保君から、ドラマや漫画等で変質者がよくやるような、鼻一杯に香りを吸いこもうとする、奇妙な音が……。
「スーハースーハー」
「え? ちょっとユウマ……アナタ、なにしてるの?」
「ウエッペェ! クサイ! マサカド臭い!」
「ク、クサイって女の子に向かっていうな!」
その後も二人の間では、物や言葉や、怒りや涙や、ひきつった笑いや不敵な笑みや、過去や未来なんかがひっきりなしに行き交ったが、やがて「出発します」という無機質なバスの運転手の声に扉が閉まると、大久保君を景色の中に残して、スクールバスは出発した。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
「まったく、ユウマめ。いつか痛い目見せてあげるんだから!」
バスが出発すると、彼女は忌々しげに大久保君の名を呟きながら、折れそうに細い腰をバスの席に落ち着けた。
僕は何か気の利いたコメントをと探したけど、緊張の中で言葉は見つからず、ただ愛想笑いを浮かべる。
学校から近隣の地下鉄へ向かう車内には、僕たちと運転手以外には、どんな存在も見出すことが出来ない。
気まずさが間借りしているような車内で、必死に言葉を探した。
けど、いざに口にしようとすると……ある種の躊躇いの中で、言葉は口から萌え出でることはなく、言葉にならなかった思いだけがそこら中に散らばっていた。
僕は女性に対してどんな魔法も使えないんだということを、身に染みて感じた。軽快な話術なんて望むべくもないし、女性が喜びそうな話題すら、全く思いつかない。
最近あった面白いことと言えば……ごく平凡で、例えば通学途中で見かけた女性のカーディガンが裏表逆だったという、どんな教訓も展開もない話。
また、彼女も人見知りなのか、大久保君がいなくなると途端に口をつぐんで、外を眺めていた。
そしてバスが動き始め、三度目になる決意をして、顔を上げて口を開き……。
結局、どんな言葉も車内に生まれなかった時。再び俯く中で、ふいに視線を感じたような気がして、思い切って彼女を見た。
彼女が不思議な物でも眺めるように、僕をじっと見ていた。
「あ……あの、どうかしましたか?」
僕の言葉が呼び水となり、彼女は、意識の水面から顔を出す。
「え? あ、あぁ……その、えっと……アナタ、どこかで見たことがある顔だなって思って」
「僕……ですか?」
彼女は人と話すことが苦手なのか、視線をあちこちに飛ばしながら、「そ、そう」と答えた。
僕はそれを意外に思いながらも、
「多分、学部の説明会には全部出てたので、それで見かけたんじゃないですか?」
と、手のひらを口で覆い、吐く息の中でこっそりと口臭を確認した後、ぼそぼそと答えた。
「え? あ、あぁ……そうかもね。でも……仕事先で見たことがあるような気がして。あ、仕事先って、あの、その、モデルのね」
僕は「分かってますよ」と答え、ちょっと考える素振りを見せた後に、
「僕は安倍礼二ですから。どこかで似た人を見たのかもしれませんね」
と言葉を繋いだ。
彼女はその言葉の意味を図りかねるように、困惑した表情を浮かべる。
「え、なに? あ、あべ?」
「安倍礼二。僕の中学の頃からのあだ名なんですよ。その、英語で平均を表すアベレージをもじった名前で……テストの点数とか、身長とか、五十メートル走のタイムとか、いままで全部平均値だったんです。だから、顔もよく雑踏に紛れるとか言われるくらいなので、それで――」
僕はもつれそうな思考の中、噛まないようにゆっくりと話した。
すると彼女は、
「ふふっ、なにそれ?」
僕との関係性の中で、初めて花を咲かせた。
大げさに言ってしまえば、それは夢のような光景だった。多感な大学生には、なんでもない女の子の笑いが、時に何物にも代えがたい宝物となることがある。
「全部平均って、ははっ、おかし。ねぇ、ホントにホントなの?」
僕はそのことが嬉しくて、高校の頃はテストが終わると、赤点を確かめる為に皆に重宝された話や、新入生向けの学校のパンフレットを作る時に「我が校で、一番普通な子は、君を置いて他にない」と、モデルをやらされたこと等を、ちょっとだけ誇張を混ぜて話した。
その間、彼女はクツクツと笑っていた。ひょっとしたら、ファンタジー小説等で魔法が使えるようになった主人公は、今の僕のような心地なのかもしれないと思った。
「でも全部平均なら、よくうちの大学に入学出来たよね」
その問いには、「それだけが謎で」と答えた。
彼女も「ほんと不思議」と笑う。
笑いの中で親和性が少しだけ開くと、二人きりになってしまった当初の、常に見られることを意識しているかのような、彼女の研ぎ澄まされた美は、少し和らいで見えた。
「え、えっと……そういえば、殆ど初対面よね。あの、こういう時って、じ、自己紹介するものよね?」
何故か焦ったように、彼女は早口でまくしたてた。
「わ、私は、藤崎由梨。ユウマとおんなじで、旭丘高校出身よ。経済学部ってのは……もう知ってるか」
それを受けた僕は「僕は、鈴木誠」から始まる、ありふれた自己紹介をした。
終わると彼女は「誠実そうな名前ね」と、目じりを下げて温かく微笑んだ。
それからも、ぽつぽつと会話を交わした。
「大久保君の姿を、説明会で見たことがない」とか、
「彼はどうやって、鈴木君を誘ったの」とか、
その殆どが、大久保君に関するものだった。その中で、僕は彼女を藤崎さんと呼び、彼女は僕を、鈴木君と呼ぶことが自然な流れで定着した。
藤崎さんは、大久保君が絡んだ話には、ころころと笑ったり、興味深そうに魅力的な瞳を大きく開いたり、バカねアイツも、と愛おしむように目を細めたりした。
だけど話が経済学部のクラスメイトのことに及ぶと、藤崎さんの表情は、途端に切なげで寂しげなものに変わる。
「あ、あの……」
僕がそのことを察し、話を別の流れに持っていこうとすると、彼女はポツリと漏らした。
「多分……私、クラスメイトとは仲良くなれないんじゃないかな。昔っからそうだったし……それに」
彼女は泣き出しそうな少女の顔でこちらを向くと、モデルらしからぬ、不自然に作られた笑顔でこう言った。
「それにきっと私、あんまり人が好きじゃないんだと思う」
僕がその言葉に呆然としながら、え? という言葉を漏らすのと、バスの運転手が目的の駅に近づくことをアナウンスしたのは、殆ど同時だった。