02.大久保悠馬
「動物ぅぅぅぅう! 動物ぅぅぅぅぅぅう!」
学生でごった返した通学バスから降りると、平和な春を呼び覚まそうとするかのように、不気味な声がキャンパスに響いていた。多分、図書館の方から。
「動物ぅぅぅぅう! 動物ぅぅぅぅぅう! アニモォォォォォオ! アニモォォォォォオ!」
「うわ!? なに、この声?」
「春だしね~~まぁ、変人が出るんだよ」
僕に続いてバスを降りた二人の女性徒が、怪訝な声を上げる。非常に残念ながら、そう非常に遺憾ながら、僕はこの声の持ち主に心当たりがあった。
「動物ぅぅぅぅう! アニモォォォォォオ!」
あのバスを含んで低く、しかし抜けるように響く声。
間違いない……大久保君だ。
昨日学内を一緒に散策したクラスメイトとは、図書館の一階で待ち合わせることになっていた。だがその声を耳にすると、そこへ向かう足が止まり、尻ごむ。
「はぁ……まったく、なんでこんなことに」
そうして僕は、昨日の一幕を溜息の中に思い起こした。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
正体不明の男からいきなり仲間宣言をされた後、僕は図書館脇の人目に着かないベンチに座らされ、肩を掴まれていた。
「同志よ! 動物園の動物って、やっぱりかわいそうだよな」
「あの、すいません……本当、勘弁して下さい」
田舎の中学生が町のヤンキーに絡まれている時のように、おどおどとした声で僕は応じる。事実、通りがかった人がこの光景を目にしたら、恐らく絡まれているとしか思わないだろう。
「ふははは! やっぱりそう思うか! さすが同志だ! ふははははは!」
「いや、人の話を聞いて下さいって」
奇妙な状況の中、後悔の水位はついに頭のてっぺんにまで到達し、僕は一人後悔に溺れていた。どうにか逃れる術はないだろうか、そんなことを考えていると、
「ところでお前、名前はなんていうんだ?」
「…………え? な、名前ですか?」
男に名前を尋ねられる。
――名前を教えると、それで学部とか調べられたりしないだろうか?
そんな不安が頭をもたげ、三白眼の男に無言で目をやる。
すると男は、ニヤッと微笑んで見せた。
ひょっとすると……本人は爽やかに笑っているつもりかもしれない。が、見開かれた目は血走り、口角は不気味に歪んでいる。正直、怖い。
顔を前に戻し、逡巡すること数秒。先程の男のしつこさを思い起こし、恐らくこの問いからも逃れられないと観念すると、小さな声で呟いた。
「えっと、その……鈴木……誠です」
「スズキィ? マコトォ?」
男が困惑顔に眉根を寄せ、ついでに顔も寄せてくる。もし通りかかる人がいてこの光景を目にしたら、キスされようと……って! そんな訳あるかぁ!
「ふむ。平均的で覚えやすい、いい名前だな」
「はぁ……まぁ、平均的とはよく言われますが」
男は顔を元の位置に戻すと、思案顔で「うん、いい名前だ」と繰り返した。
僕の中の警戒心が、少しだけ緩む。
今まで僕の名前を、「いい名前」と評してくれた人は少ない。そもそも中学高校と、安部礼司で通っていた僕だ。
あまりにも皆が、安部、安部と呼ぶものだから、テストの監視役でくる馴染のない先生なんかは、答案用紙を回収し、名前を確認する時に、「あれ? 彼って安部くんじゃないの?」と、間違える程だ。
ひょっとして……思ったより悪い人じゃないのかもしれない。
僕が彼の評価を改めようとしていると、突如、彼は自己紹介を始めた。
「紹介が遅れたが、俺は大久保悠馬。一年で、経済学部だ」
「え? 一年生で……経済学部?」
まず同学年だという事実に驚き、同じ学部であることに更に驚いた。
細身の黒いパンツに、赤のVネックシャツ。先のとんがった茶色の革靴を履く彼は、やけに私服を着なれている感じがした。その為、上級性だと勘違いしていた。
しかし、不思議と彼を学部の説明会などで見かけた覚えはなかった。
「あの……それで大久保君? 君は、一体なにを――」
「おいおい同志よ、俺とお前の仲だろ? ユウマって、気軽に呼んでくれていいぜ!」
「いや、初対面でそれは流石に……」
ひきつった笑みの中で伝えると、彼は「まぁ仕方ない」と一応の納得を見せた。
「それで大久保君、あの……一体なにをしようとしてるの? 僕もそんなに暇じゃないっていうか、今日これからバイトの面接があるっていうか……」
彼――大久保君のことは、何となくだけど、悪い人じゃないのかもしれないと思い始めていた。でも僕は何よりも、平均的な僕の日常に早く帰りたかった。
その為に、アルバイトの面接なんてそれらしい嘘すらついてみせる。良心がちょっとだけ痛んだが、僕はその痛みを、気付かないようにそっとやり過ごした。
「おぉ、そうだった! 忘れていたぞ、ふはははは!」
そのまま大久保君は、豪快に笑う。僕もお追従で、あははは、と笑う。
するとまた、彼はとんでもないことを口走った。
「動物園の動物を解放するぞ」
その瞬間、全く違う言語体系の言葉を耳にしたように、僕はその意味を失った。次第に言葉の意味がイメージを結び始めると、困惑に顔が歪んだ。
「動物園の動物を解放……って……はい?」
「動物園の動物は、虐げられている。かわいそうだ。だから解放する」
空恐ろしさに身は竦むばかりか、奇妙な汗さえ浮かぶ。
「いやいやいやいや、それやったら犯罪だよ?」
――動物園の動物を解放? 何言ってるんだ、この人は?
心のどこかでアラームが鳴り響く。彼に関わるなという警句がすっと意識に浮上し、絶えず僕をせき立てた。早く逃げろと。
「犯罪だと? そうかもしれん。だがやる! 俺は必ずやる! いや……俺 たちは必ずやるんだ! そうだろ、同志?」
「ごめんなさい。失礼します」
僕はベンチから腰を上げると、大久保君に一礼し、さっさと逃げた。
♯ ♯ ♯ ♯ ♯
そして今日に至る。
待ち合わせ場所の変更を考えたが、そもそもクラスメイトの連絡先を知らない。何故、さっさと連絡先を交換しておかなかったのか。そればかりが悔やまれた。
自分の迂闊さを呪いながら、重い足取りで図書館に向かう。
「動物ぅぅぅぅぅぅ! アニモォォォォオ!」
近づくにつれ、訳の分からない呼び声が大きくなる。隠しきれない憂鬱に、本日二度目の溜息を吐いた。一度目よりも長く。
図書館へと通じる階段をダラダラと上っていると、その途中――開けた視界の先に、大久保君の姿を認めた。
「動物ぅぅぅぅう! 動物ぅぅぅぅぅう! アニモォォォォォオ! アニモォォォォォオ!」
――というか……あの呼び声は、本当に何なんだ?
町中で発したら、警官が緊張しかねない不気味さだ。
大久保君は声を上げながら、図書館前を通りかかる人に紙を配っていた。見ている限り、誰も受け取ろうとはしない。というか、あからさまに避けている。
春の陽光を背に受け、携帯電話で時刻を確認する。
約束の時間までは、まだ少し余裕がある。さて、どうしようか……。
「え~居酒屋のバイトってどうなの?」
「ホールなら、結構楽しいよ」
階段の途中で思案にくれていると、ヒールが階段を打つ音と共に、女子グループ特有の、キャッキャッと楽しそうな声が背後から聞こえた。
意味もなく突っ立っていることを気味悪く思われないよう、携帯を操作する。ちょっと立ち止まって何かを確認している、そんな雰囲気を周りに放つよう努めた。
他人の視線に敏感な大学生の、悲しい性質を思う。だが聞くともなく女子グループの話を聞いていると、彼女たちから思わぬ言葉が転がり落ちた。
「ねぇ、ちょっと図書館寄っていい?」
「えっ? いいけど……どうして?」
「あそこって、結構色んな雑誌置いてあるんだよ、知ってた?」
瞬時にコレだ! と閃き、女子グループをやり過ごす。さり気無くその後ろを着いて行った。彼女たちは、話に夢中で僕のことには気付いていない。そのまま携帯をいじっているフリをし、後に続く。
図書館に近づいたら歩く速度を速め、女子グループの左側に回り込み背を丸める。これなら大久保君の視界から隠れることが出来る筈だ。
「動物ぅぅぅぅぅぅう! 動物ぅぅぅぅぅぅぅう!」
力強い声を右手に聞き、そのまますり抜けることに成功した。
女子グループは大久保君を前にすると、突然無言になった。後で大久保君がネタにされ、彼女たちに笑われるんだろうなと思うと、少し物哀しくなる。
しかし咄嗟の機転から思わぬ成功を収めたことに、腹の底から笑みが生まれたのも事実だ。後はこのまま、図書館に入れば……。
直後、有無を言わせぬ圧力が右肩にのしかかると、僕の歩みは止められた。
「同志! 鈴木誠! グッドモーニング!」
女子グループが、そそくさと逃げるように、図書館に吸い込まれていく。
僕は振り向きながら、乾いた笑みを浮かべた。
「あ……あはは、おはよう、大久保君」