5 みつけた
夜闇の帳が下りた空の広がり。
トゥリアの視界には、完全な日暮れを迎えた空の色合いが映されている。
吸い寄せられるように、遠ざかる光景の一点へとトゥリアの目が止まる。
その場所は夜空の帳を背景に、木々の合間に横たわる闇へと呑まれ、いるのかもしれないライの姿はやはり何処にも見えなかった。
そんな光景をトゥリアはただ眺めている。
「それで、どうして君も一緒に落ちているのかな?」
落下中の空中でも、未だ縺れるように、漆黒の獣はトゥリアの上へと位置取りそこにいた。
「上に残られるよりも良かったけれど・・・ねぇ、僕にはさ、探している、ものがあるんだ」
声音の切実さと、真摯な響き。
トゥリアの声を聞く事が出来るのは、一緒に落下している漆黒の獣だけ。
けれどその言葉は、話し掛けている形を取ってはいても、その実、誰へ向けるものでもなく、そして、何処かに響いて行く事もない。
かなりの高さを落ちている自覚はあった。
ごうごうと風の音が耳朶を叩いている筈なのに、夜闇の静寂がトゥリアの声を浚って行く。
「僕は、行かないと・・・」
時を止めてしまったかのような虚空の静寂だけが、そんなトゥリアの声を聞いていた。
漆黒の獣は、あれ程、執拗な迄にトゥリアを追い掛けていたというのに、今はトゥリアの方を見もしてはいなかった。
もたげた首で見詰める彼方。それは何を見ていたのか。
「ぐるルルる」
低く喉を鳴らす獣。
そして、トゥリアの身体を踏み台にして、獣は虚空へと身を躍らせる。
何処へと思う間もあればこそ、ザガッと乾いた音が唐突に告げるその静寂の終わり。
そしてその瞬間、崖下で繁っていた木の葉と枝々の密集帯へと落下は差し掛かった。
「・・・っ・・・くぅっ」
ブチブチと、それは蔦状の植物が切れる音だろうか。
食いしばる歯の間から、木々を破砕する騒音に混じり漏れ聞こえるトゥリア自身の呻き声。
どうにか両腕で顔を覆うが、落下の衝撃と、何よりトゥリア自身の重みでしなる枝の鋭い尖端が、容赦なく服とその下の肌すらをも引き裂いて行く。
一つ一つの傷は浅いのかもしれないが、全身をくまなく襲う小さな痛みと鋭い灼熱感。
けれどそれだけの障害に遭いながらも、落下の勢いは少しも減じられる感じがなかった。
トゥリアの身体は、へし折る枝と毟る葉を引き連れ、重力に引かれるままに地面へと向かう。
ーザシュッー
(・・・あ?)
突き出した剣の刃が、向かって来る獣の肉を串刺しにする濡れた音に酷似しているなと、そんな反応が最初にあった。
刹那にやって来る、背中に大型の何かが激突したかのような、激しい鈍痛。
貫き胸を穿つ凄まじい灼熱感。
「っが、あ・・・ッッ!!?」
トゥリアの喉が張り裂けんばかりの絶叫は殆ど声にならなかった。
痛みというよりただ熱く、何が起きたのか理解出来ないまま息だけが詰まり、一拍の間が瞬時に塗り潰す視界を暗く狭める。
ずぐずぐと、それは肉の層を引き裂き、血管を突き破る湿り気を帯びた音だった。
実際には耳に聞いたのかも分からない、意識が引き裂かれ行く衝撃のもたらす幻聴。
痛みが灼熱感となり、トゥリアの神経を引き裂く。
すり潰され声にならない絶叫に、限界まで見開く双眸。
白熱する闇がトゥリアの視界を染める。
軋む背骨にのけ反らせた背中。
そして、その胸から、決して細くはない、折れた断面を晒す枝が゛生えて゛いるのをトゥリアは見てしまった。
強風の影響か、森の獣による仕業だったのか、いずれにせよ木が折れた過程に意味はない。
崖から落ちたトゥリアの真下、その場所に、倒れた木と、そこから空へと突き出した、折れた凶悪な断面を晒す枝があった、それだけなのだ。
声にならない、絶叫すらも遮り詰まる息。
喉の奥底から競り上がってくる熱い塊に、わななき喘ごうとする唇。
「かはっ」
吐き出す血塊がトゥリアの口内にごぼりと不快な音を鳴らす。
口から溢れ出した鮮血が、唇の端に血の筋を滴らせる。
即死するか、一瞬にして意識を刈り取られていてもおかしくはない損傷をトゥリアの身体は負っていた。
激痛等生ぬるい筈の感覚に、気絶を許さないかったトゥリアの意識は灼熱し、氷結し、白熱する。
そうして、闇が訪れた。
暗く狭窄していた視界を、茫漠たる深遠のように冥くらく塗り潰して行く闇。
ーぐる・・・ー
喉の奥を低く鳴らすような唸り声。
聞いた気がして、その一瞬だけトゥリアの意識は繋ぎ止められる。
視界を満たす暗闇へ、僅かばかりの猶予を与えてくれるかのように。
トゥリアは意識する。それはあの漆黒の獣の声だと。
身体はもう動かなかった。
首だけですらも動かす事は出来ず、固定された視界の中で、何も映す事のなくなった筈の瞳。
なのに、その見通す事の出来ない闇間の森を背景に佇む、一頭の獣の姿をトゥリアは見ていた。
夜の闇へと沈んだ、影の森と同じ色の闇を纏う獣。
けれど、決してその闇へ飲み込まれ、同化してしまう事なく獣は佇んでいる。
それは寧ろ、森に降りた深遠の夜闇を獣が従えているかのような、そんな光景だとトゥリアは思った。
狼にも獅子にも似た獣の姿に、けれどそれはトゥリアの落下の原因となったあの漆黒の獣とは別の存在だった。
しなやかな狼を思わせる体躯だが、その首周りに蓄えられる、獅子が持つような鬣に宿った硬質的な艶やかさ。
月明かりすらもない夜空の、燦然と耀く星々の光を内包し、澄んだ透明感を纏う漆黒の毛並みは美しく、トゥリアに幽玄の闇を想起させる。
トゥリアが手を伸ばしても決して届かないであろう距離。けれど獣にとっては一投足で済むのであろうその場所。
そして、その静謐の青色を湛えた双眸に、トゥリアの姿を映し入れ、ただ見ていた。
わざわざ死ぬのを待っているのかと思い、トゥリアは苦笑したくなったが、結局自分の表情筋が動いたとは思えなかった。
既に光を映さなくなったトゥリアの目。
指一本すら動かす事の出来ないトゥリアの様子を眺めている獣の瞳。
その深い青色は何かを観察している眼差しのようにも思えた。
そしてそう思った時、不意に、獣が見ているのはトゥリアの゛死゛以外の別の何かなのではないかと感じていた。
閃きにも似た感覚で、何故そう感じたのかのかも分からない。
だが、その感覚の理由も、獣が待っている“何か”の事も、考えている時間は既にトゥリアにはないようだった。
即死ではなく、けれど本当にそれだけの事でしかなかったのだ。
痛みも灼熱感も、もうトゥリアには分からなくなっていた。
鈍く疼くような感覚だけが燠火のように最後まで残っていたが、その感覚すらも、少しずつ失われて行く体温とともに解け、身体の奥深くで微睡む曖昧な感覚となって行く。
(寒い・・・ね)
温もりを求める為の光は遠く、霞みがかる意識には抗し難い眠りへの誘いがあった。
トゥリアは今、自分が何を思っているかのかも分からない。ただ、佇む漆黒の獣の姿に覚えるのは畏怖ではなく安堵だった。
だからその言葉は自然と意識の奥底から浮かび上がって来ていた。
(あの子を・・・見つけ、るのが、僕は・・・)
ごほりと、力なく咳をする。
浅く緩やかになった呼吸の中でトゥリアの浮かべる、それは酷く穏やかな微笑み。
光は酷く遠い。なのにその存在だけは、今なおトゥリアの視界の中にある漆黒の獣の姿。
その深い青の双方が、トゥリアの浮かべた笑みを見てか、一瞬驚いたようにきょとんと見開かれたような気がして・・・
世界が完全に暗転する。
光も音もない。痛みはとうに分からなくなっていたが、寒さすらも感じない。
だからか、トゥリアは自分の死を感じていた。
死んで行くさまを克明に感じ取り、そして、自分はたった今死んだのだと思った。
穏やかな微睡みが虚無に変わる。
なのに、トゥリアはその声を聞き、その光景を見ていた。
だから思う。
これは夢なのだと。
生から死へとの移り変わりに許された刹那の夢。
「・・・・・・」
漆黒の獣の、鋭利に切り立った耳がぴくっと動く。
何等かの気配を捕捉したのか、感知するままに、漆黒の獣は首だけで背後の森を振り返った。
地面に弧を描くようにして右へ左へ。
歩む動作に足音はなく、そのまま返す踵に、獣はトゥリアの存在へと背を向けた。
佇む獣の、森の空気を探るかのような動きの停滞。そして、次の瞬間には木々の間に落ちた影へと向け、漆黒の獣は駆けて行ってしまう。
トゥリアは動けない。
夢だと言うのに自由にならない身体で取り残され、走り去る獣の姿を、光を失った瞳がただ見送る。
その光景は、死へと向かっていた現実の続きであるかのように。
明度の曖昧な世界の情景は、微かなトゥリアの意識の残滓と共に闇の浸蝕に侵され、それでもなおそこに在った。
ーチリン
鈴の音にも似た、微かな響き。
それは、トゥリアの意識へと漣の波紋を広げる澄んだ音色。
ー・・・
足音はなく、けれど感じた気配に、漆黒の獣が戻って来たのかと思った。
トゥリアは、自身が目を閉じているのか、開いているのかも判然としない闇を見ていた。
そもそも、自分は死んだのではなかったのだろうか?
死んだと認識し、意味を失った筈の視界には何者をも捉える事は叶わない筈だった。
ー大丈夫、きっと、あなたは・・・ー
ひそやかな、囁きのような声をトゥリアは夢の狭間に聞いたような気がした。
けれど、ままならない夢では、その言葉を最後までは聞き取る事が出来なかった。
ー・・・チリン、リィーン
響く微かな音色。
その澄んだ音は、鈴に似た硬質的な響きに、弾いた弦のように振るえる音色で耳朶を打つ。
トゥリアの意識は、夢の最後に広がる淡い白金の輝きに包まれ、その中で二つの紅い瞳を見た気がして・・・
白と黒ではなく、暗と冥。
明滅を繰り返し闇色のノイズが走るその向こう。
いつかの記憶に繋がる扉が、ほんの僅かに開かれ、扉の隙間から、覗き込むようにして見る向こう側の世界。
吹雪くでもなく、けれど雪のように降り続く白の欠片。
空には青を幾重にも重ね、明るさを失った漆黒の闇。
広がる限りに続く大地の白に生き物の気配はなく、けれど“トゥリア”はその場所に一人佇んでいた。
何処から来て何処へ行こうとしていたのか、それすら分からずただ一人きりで仰ぐ空。
(これは夢・・・)
誰かを待つでもなく、何かを待つでもなくトゥリアは一人で白の大地に佇んでいて、けれど何処にも行くことは出来ない。
これはそんないつもの夢だった。
トゥリアの記憶する限りに、この情景についての記憶はない。
ここはトゥリアの知らない場所で、その筈だったのに、いつからかトゥリアはこの夢を見るようになっていた。
変化のない、どの世界からも切り取られたかのような停滞した時間を思わせ、意味があるのかすらも分からない。
けれどその白く静かな光景を見ている時、トゥリアは決まって狂おしい程の切なさを感じていた。
だからトゥリアは探し続けているのだ。この光景に続く場所と、その先にあるものを。
ーサァー・・・
鋭くも柔らかくもない風が、白の欠片の数片を巻き込むようにして吹き抜けた。
はためく衣服に、靡くトゥリア黒髪。
けれど、たったそれだけの事にトゥリアは驚きを感じずにはいられなかった。
風は、春のそよ風という程には弱くなく、嵐を呼ぶ突風という程には強くない。
初夏の水気の豊かさも、晩秋の乾燥した涼やかさでもない。季節感に欠けた、空虚な大地を行くそれだけの風。
けれどそれは、トゥリアの見続けてきたこの変わる事のない夢の中での、紛れもない一つの変化だった。
ーリィンー
(・・・鈴?)
静かな風の揺らす、鈴の音を思った。
その微かな音色は、この静寂の夢にあっても聞き逃してしまいそうな程に小さな響き。
いつも一人仰いで、ただ見ていた漆黒の空。
ふと気が付けば、いつの間にか降り続けていた白の欠片は止んでいて、本当に黒一色の果てない空がトゥリアの視界の限りに広がっていた。
本当にこの夢は、いつもと何かが違うのかもしれなくて・・・
ー見つけた・・・ー
「・・・っ・・・え?」
間近に声を聞いた気がしてトゥリアは思わず反応していた。
そうして、弾かれたように“開く”双眸。
トゥリアは自分の発した声が帯びている驚きの感情を、自分自身の耳で聞いて認識する。
開いた目。その瞳は光を感じ、耳が音を拾う。
自分の口が紡いだ、単純で意味のない言葉の断片を聞いたのだ。
「え・・・?」
更にもう一度口にしてしまう戸惑いの声。
トゥリアは開いていた目を瞬かせる。
夢ではないのだと、ただそれだけの漠然とした理解が、徐々にトゥリアの意識へと浸透して行く。
光を感じる。
先程の夢の光景とは違い、不明瞭な視界そのもの。
そこには瞳が映す限りの世界に、薄靄の白が茫漠と広がっていた。
見ていた夢の方が、今現実だと感じている光景よりもはっきりしていると言う奇妙な感覚。
それはトゥリアが目を覚ましたばかりで、覚醒しきれていない意識が、急速に不鮮明になりつつある夢の残滓を引きずっている事だけが理由ではなかった。
夢は、どれだけ鮮烈なものだったとしても、目を覚ましてしまえば、その瞬間から、朝日を浴びた朝靄のように消えて行ってしまう。
名残惜しいと思うには焦がれ過ぎていて、トゥリアは自身の探し求める光景を繋ぎ止めようと必死に夢への情景を想う。
目を閉じ、瞼の裏に思い浮かべる事の出来る光景への微かな安堵。
強過ぎる焦熱の思いを、浅い呼吸のもとにやり過ごす。
一度目を閉じ、そして開く。
そうして、ようやくトゥリアはその場の光景を眺め見た。
「・・・霧、ここは、そう、イージスの森」
小さく呟くようにして、トゥリアは少しずつ自分自身に確認していく。
緩やかな瞬きを一回、二回。
覚えていること。忘れたくない事。頭は懸命に、記憶を整理するべく動き出している。
「そう、見つけた、って・・・」
聞いた声を覚えている。
だが左右へ、上下へと視線を動かしてみるが、トゥリアのそばには誰の姿もなく、何かの気配を感じる事もなかった。
「夢・・・?」
トゥリア「・・・・・・」
ライ「・・・・・・」
トゥリア「・・・・・・え?」
ライ「・・・・・・おう」
トゥリア「僕、死んだ?」
ライ「ンなコトはどーでもイイんだよ」
トゥリア「いいの!?え!僕、えぇ〜?」
ライ「女の子だよ女の子!」
トゥリア「女の子?」
ライ「そうだよメチャカワの超絶美少女、オレの彼女が出るってハナシはどうったのよ?」
トゥリア「ライの彼女さんは知らないけれど、うん、なにごとも予定通りにはいかないってことだよね、あはははは」
ライ「笑いごとじゃねぇぇぇ」
トゥリア「ごめんなさい、次こそがんばるから」
ライ「ぜってーだぞぜってー!」




