時代はいかに作家を埋葬するか
村上龍が亡くなって、村上龍に関する文章をふたつほど書いた。
(「なろう」には記事は一つしかないので、二つとも読みたい方はnoteの私のサイトの方へどうぞ)
書く前はもっと否定的な意見が自分の中から出るのだろうと思っていたのだが、いざ書いてみると村上龍をかなり褒めている。これは自分の中で意外だった。
私は村上龍と村上春樹は作家としての力量はそれほど違わないと思っている。村上春樹の方が構成が安定している分、やや上かもしれない。
しかし実際文章を書くと、村上春樹に対しては批判的になり、村上龍に対しては肯定的になった。これは自分でも意外だった。
この二人を私はどこで分別したのか。それは「村上龍の繊細さについて」の文章で書いたように、村上龍には無常観が僅かに兆していたからだろう。
一方で、村上春樹にはそういうものはない。村上春樹は作品の中で救済を描こうとした為に自然と、村上春樹の中の空白地帯である思想の欠如部分、ここに資本主義肯定の論理が入り込んだ。それによって村上春樹は、現代の社会を肯定する作家としての立場を強くした。
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村上龍についての追悼の文章をnoteでいくつか読んだが、私が指摘したような、村上龍の無常観に触れた文章は一つも見当たらなかった。
「テニスボーイの憂鬱」では、情事の比喩として「夕立」が、人生のキラキラした時間が「シャンパン」に例えられているが、これは偶然ではない。それは一瞬のエネルギーの爆発の後、速やかに消えてしまうものだ。
noteの村上龍についての文章では、こゆるぎさんという方の「村上龍がカッコよかった時代」が目についた。ここで、こゆるぎさんという方は村上龍を「かつてはかっこよく、時代を追い抜いていたが、後に時代に追い抜かれた存在」として懐古している。
この定義はわかりやすい。私自身も、村上龍が「その時代のもの」として消化可能である部分がある事を認めている。しかし私が村上龍について文章を書いたのは、それだけではないものが村上龍の小説の中にあったからだ。
しかしnoteの村上龍追悼の文章はたいてい、こゆるぎさんという方のラインで書かれている。昔はかっこよかった。生きる事の肯定を教えてくれた。人生のキラキラした時間が大切だと教えてくれた。云々。
「愛と幻想のファシズム」のラストは、狩猟社という、主人公トウジの率いる集団が巨大になって、成功した様が描かれているのだが、トウジにとって大切な友人のゼロは自殺し、ゼロとの三角関係を形成する事になったフルーツという女性は狩猟社を去ってしまっている。そこにはなにか暗い予感がある。作品はこの暗い予感を湛えたまま終わる。
だがこのような暗い予感を、村上龍追悼の文章の多くは捉えていないように私には思えた。村上龍という作家が「昔はかっこよかった作家」というわかりやすい物語で時代に消化されようとしていると私は感じた。
これに関しては仕方ない部分もある。それは認めざるを得ない。村上龍の小説が、その当時の社会風俗に流されている部分はかなりある。ただ、私がここで書いておきたいのは、ある時代というのは一人の人間をこのように埋葬するという事だ。
生きている人間というのは矛盾に満ちた存在である。その生はギザギザとしている。様々な要素、破片が散らばっている。
村上龍という作家にも、単一のわかりやすい概念で捉えられない多くの可能性があった。しかし生者は死者を埋葬し、生者の価値観を乱さない為に、わかりやすい物語を与えて、死者を永久に眠らせようとする。
雨野いと氏は「文学VSラノベとかいう不毛な話」で次のように書いている。
「その時代の人たちが何を面白いと思い、何に心を動かされたのか。
そこには、あとから見れば時代そのものが残っている。
文学もラノベも漫画もなろうも、全部そうだ。」
村上龍もまた雨野いと氏のような「時代そのもの」という概念で葬り去られようとしている。こゆるぎさんという方も同様の方向に考えている。
私は生者がわかりやすい物語で葬り去ろうとした剰余に文学があると考えたい。ある作家が時代を越えて生き残るのは、その時代の人々が消化しようとして消化しきれなかったものがあるからだ。
シェイクスピアが死んで蘇ったのは、シェイクスピアが同時代の人の「楽しみ」で消化しきれないものを大量に抱えていたからだろう。
村上龍が古典として残るかと言うとそれは難しいかもしれない。日本文芸史というマイナーな時間軸にすら名前が残らないかもしれない。
ただ、それでも私がここで書いておきたいのは、人々が感傷的な懐古によって消化しきれない剰余がこの世界には存在するという事だ。生者は生者の特権で、死者を手際よく埋葬しようとする。死者が二度と蘇らないように、既存の価値観で括って墓場に放り込む。
それでも、死にきれないもの、殺しきれずに蘇ってくるものもあるだろう。それは人々が理解しきれなかった剰余だ。
そういう意味では、古典が現代にまで残っているとは、死者から生者への抵抗だと考える事ができるかもしれない。死者は死んでいない。生者が殺しきれなかったからである。そしてまた、死者も生者を殺そうとする。
死者に抵抗されると、生者は、自分の概念がむしろ、殺そうとしていた死者が表現していた複雑なものの部分でしかないと、その刹那だけ認識する事になるのだろう。
歴史とは死者と生者の闘いであり、古典とは生者が殺しきれなかった死者の事ではないのか。




