5「何も感じなかった日」
彼は、本屋に立ち寄る習慣がなかった。
仕事が終われば、決まったルートで駅に向かい、決まった時間の電車に乗り、決まったスーパーで夕食の食材を買う。
休日はテレビをつけ、何気なくチャンネルを変え、気づけば昼が過ぎている。
読書が嫌いなわけではない。
ただ、文字を追う時間がもったいないと思っていた。
スマートフォンの画面を眺めている方が、何となく楽だった。
情報は流れていく。
残らない。
それで十分だと思っていた。
その日、仕事が早く終わり、いつもより少しだけ時間があった。
帰り道、駅前の本屋が目に入った。
特に目的はなかった。
ただ、何となく入ってみようと思った。
店内は静かで、新刊の匂いがした。
彼は文芸コーナーの前を通りかかり、一冊の本が目に留まった。
表紙はシンプルで、白い地に黒い文字でタイトルが書かれている。
特別な理由はない。
ただ、手が伸びた。
『彼女の計画』。
背表紙の文字を指でなぞり、何気なく最初のページを開く。
数行読んで、少しだけ眉をひそめた。
文章は、特に難しい言葉を使っていない。
なのに、その奥に何かがあるような気がした。
もう少し読んだ。
最初の章の、数ページだけ。
それ以上は読まなかった。
内容はよく理解できなかった。
面白いとも、つまらないとも思わなかった。ただ、何も感じなかった。
本を閉じ、棚に戻した。
指先に、ほんの少しだけ熱が残っている気がした。
気のせいだと思った。
店を出て、コートの襟を立て、駅へ向かった。それだけのことだった。
それから半年が経った。
彼は仕事で大きな遅れを出した。
取引先との連絡を誤り、プロジェクトが大幅に遅延した。
クライアントからの信頼を失い、上司から叱責された。
デスクに戻り、何もできないまま時間だけが過ぎていった。
周りの同僚が気遣うように視線を送る。
誰も声をかけなかった。
彼は、それでもいいと思った。
帰り道、会社の近くの公園のベンチに座った。
周りには誰もいない。
街灯が、ぼんやりと影を照らしている。
これからどうすればいいのか。
自分の何が間違っていたのか。
考えようとしても、何も浮かばない。
頭の中が、真っ白だった。
その空白の中に、突然、あの指先の感触だけが蘇った。
何も感じなかったはずの、あの数分。
本の内容ではない。
面白さでも、つまらなさでもない。
ただ、何も残らなかったはずの時間の感触が、そこにあった。
彼は、ベンチから立ち上がった。
何も変わっていない。
でも、あの感覚だけが、背中を押しているような気がした。
翌日、彼は上司に謝罪し、再び仕事に取り組み始めた。
取引先への対応も、少しずつ改善していった。
生活は、あの日と変わらない。
それでも、彼は、あの本を買いに行こうか迷った。
でも、やめた。
今はまだ、買う時じゃない気がした。
彼は、あの本のことを、何も感じなかった日のこととして、覚えているだろうか。
それとも、忘れてしまうだろうか。
どちらでもよかった。
それでも、あの感触は、確かに彼の中にあった。
【観測記録】
対象:匿名(読者E)
作品:一冊の本
読了後経過:半年(読了ではなく、数ページの立ち読み)
観測項目:「何も感じない」という反応
特記事項:
彼は、その本を読んだ瞬間には、何も感じなかった。
面白いとも思わなかった。つまらないとも思わなかった。
ただ、何も感じなかった。
しかし、半年後、その感触が突然蘇った。
彼は、まだその本を買っていない。
その観測は、続いている。
―『読後観測』―読者地図―は各話を独立短編で投稿―
第1話「今日は、書かなかった」
https://ncode.syosetu.com/n9601mn/1/
第2話「赤ペンを置いた日」
https://ncode.syosetu.com/n9607mn/1/
第3話「ノートを戻さなかった日」
https://ncode.syosetu.com/n9612mn/1/
第4話「送信しなかった夜」
https://ncode.syosetu.com/n9615mn/1/
第5話「何も感じなかった本」
第6話「感想を書いた日」
https://ncode.syosetu.com/n9625mn/1/
また、「読者地図」にも「読後観測シリーズ」として同時投稿されます。
―――関連作品―――
『彼女の計画』
カフェ「あおい」で上司の裏アカを覗いた瞬間から、私の日常は狂いはじめた。
『読者地図』本編はこちら。
物語が届く/届かないのは、作品の問題ではないかもしれない。




