第8話 夜の接触
指定された場所は、渋谷から少し外れた静かなビルの一室だった。
表通りから二本入った路地。看板のない入り口。エレベーターで五階へ上がると、廊下の突き当たりにドアがある。
桐島美咲は、そのドアの前に立った。
時刻は夜の八時。
「一人で来ること」とDMには書いてあった。
美咲は来た。
ただし、剛造が「別の入り口から入る」と言って先に消えている。今頃どこにいるのかはわからない。
おじいちゃん、私、正しいことをしていますか。
美咲はドアをノックした。
「どうぞ」
中から声がした。
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部屋は小さかった。
テーブルが一つ。椅子が二つ。窓のない部屋だ。
テーブルの向こうに、男が座っていた。
三十代後半。痩せた体に地味なスーツ。眼鏡をかけていて、一見すると官僚か研究者のような雰囲気だ。
どこかで見た顔だ、と美咲は思った。
「桐島美咲さんですね」と男は言った。「座ってください」
美咲は椅子に座った。
「あなたは」
「名前は、今は言えません」男は静かに言った。「ただ、あなたに伝えなければならないことがある」
「どんなことですか」
男はテーブルの上に、薄いファイルを置いた。
「田島剛造さんのことです」
美咲の体が、わずかに固まった。
「……続けてください」
「田島さんは今、ある意味で時限爆弾を抱えています」
「どういう意味ですか」
男はファイルを開かずに、美咲を見た。
「田島さんの体は、普通の人間の体ではありません。あなたはもう、そのことに気づいていますか」
美咲は答えなかった。
傷が消えた掌のことは、剛造から聞いていた。
「……続けてください」
「田島さんの意識は、ある技術によってこの肉体に転写されています。しかしその転写は、永続するものではない」
「永続しない、とは」
「意識の安定性には限界があります」男は言った。「起動から六ヶ月を境に、徐々に記憶の混濁が始まります。昭和の記憶と令和の現実が入り混じり、やがて判断力が低下する」
美咲は息をのんだ。
「そして最終的には――」
「最終的には」
「意識が、消えます」
部屋に、沈黙が落ちた。
「いつ起動したんですか」男に向かって美咲は聞いた。「田島さんが永田町で目覚めたのは、二ヶ月前です。あと四ヶ月ですか」
「それが……わからないんです」
「わからない?」
「起動のタイミングは確認できています。しかし、意識の安定性には個人差がある」男は言った。「田島さんの場合、予想より安定しています。おそらくは……」
男は少し間を置いた。
「あなたが傍にいるからだと、私たちは考えています」
美咲は目を細めた。
「どういうことですか」
「転写個体の意識安定には、転写元と強い感情的紐帯を持つ人物の存在が助けになる」男は言った。「田島さんとあなたの祖父・桐島五郎博士は、深い信頼関係にあった。その紐帯が、あなたを通じて田島さんの意識を安定させている可能性がある」
美咲はしばらく黙っていた。
「……私が傍にいることで、田島さんの時間が延びる」
「そう考えています」
「逆に言えば、私が傍にいなければ」
「早まる可能性がある」
美咲は目を閉じた。
おじいちゃん。あなたは私を、田島さんの「安定装置」として育てたのですか。
怒りではなかった。
ただ、すべてが繋がっていく感覚があった。
「一つ聞かせてください」と美咲は言った。「あなたは誰の味方ですか」
男はすぐには答えなかった。
「田島さんの、と言いたいところですが」男はゆっくり言った。「正確には……桐島五郎博士の遺志の、味方です」
「おじいちゃんの遺志」
「博士は、田島さんにこの国を立て直してほしかった。そのために、プロジェクトを設計した。私はその設計を、完成させたいだけです」
「御堂は」
男の顔が、わずかに曇った。
「御堂慎一郎は……このプロジェクトの存在を知っています。そして悪用しようとしています」
「どう悪用するんですか」
「田島さんの意識データを使って、自分自身を転写しようとしている」
美咲は目を上げた。
「自分を、不死化しようとしている」
「そうです」
部屋に、また沈黙が落ちた。
そのとき、部屋の隅で物音がした。
美咲は振り返った。
壁際に、いつの間にか人影があった。
「……随分と詳しい話をしとるな」
田島剛造だった。
腕を組み、壁にもたれて立っていた。いつ入ってきたのか、まったくわからなかった。
男は驚いた様子もなく、剛造を見た。
「田島さん、ですね。お会いできて光栄です」
「光栄かどうかは知らん」剛造は部屋の中央へ歩き、椅子を引いて座った。「俺の話を勝手にするな。当事者がここにいる」
「……失礼しました」
「もう一度、最初から話せ。今度は俺に向かって」
男はしばらく剛造を見た。
それから、静かに頷いた。
「わかりました」
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男が話し終えると、部屋に沈黙が続いた。
剛造は腕を組んだまま、天井を見ていた。
美咲は剛造の横顔を見ていた。
怒っているのか、考えているのか、読めなかった。
「一つだけ聞く」と剛造は言った。
「はい」
「俺に残された時間は、正確にはわからんと言ったな」
「はい。ただ、最短で四ヶ月、最長で」
「最長は」
男は少し間を置いた。
「……二年、という報告書があります。ただしそれは理論値で」
「二年あれば十分だ」
美咲は剛造を見た。「十分って……」
「やることは決まっとる」剛造は言った。「御堂を潰す。日本を立て直す種を蒔く。それだけだ。二年あればできる」
「でも田島さん、あなたは」
「消えることが怖いと思うか」
美咲は答えられなかった。
「俺は一度死んだ人間だ」剛造は静かに言った。「二度目の人生で、やるべきことをやる。それだけだ。怖くはない」
「……本当に怖くないんですか」
剛造は少し間を置いた。
「嘘をついた」
美咲は息をのんだ。
「怖い」剛造は言った。「やり残すことが、怖い。国民に、種を渡せないまま消えることが、怖い」
その言葉が、静かに部屋に沈んだ。
美咲は目の奥が熱くなるのを感じた。
「田島さん」
「なんだ」
「消えさせません」
剛造は美咲を見た。
「私が傍にいれば、時間が延びるんでしょう」美咲は男を見た。「そうですね」
「可能性としては、はい」
「じゃあ私はずっと傍にいます」美咲は剛造を見た。「おじいちゃんがそういう設計をしたなら、私はそれを全うします。それが私の仕事です」
剛造はしばらく美咲を見た。
「お前を巻き込むつもりはない」
「もう巻き込まれてます」
「……そうだな」
剛造は小さく、口の端を曲げた。
「骨がある」
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男が帰った後、二人は夜の渋谷を歩いた。
「あの男、信用できますか」と美咲は言った。
「わからん」剛造は言った。「だが話の内容は、これまでの点と一致していた。嘘をついている様子もなかった」
「御堂が自分を転写しようとしているというのは」
「あり得る話だ」剛造は言った。「権力を永遠に持ち続けたい人間は、古今東西どこにでもいる。手段が変わっただけだ」
「田島さんはどう思いますか、自分が転写された存在だということ」
剛造はしばらく黙って歩いた。
「桐島博士が俺を選んだ理由がある」剛造はやがて言った。「それが何かは、まだわからん。だが選ばれたからには、それに応えるだけだ」
「おじいちゃんのこと、怒ってないですか」
「怒る理由がない」
「だって、勝手に転写して」
「俺が生きていた頃、国のために勝手に動くことはよくあった」剛造は言った。「俺もやったし、部下にもやらせた。桐島博士も同じだ。国のために、勝手にやった。それだけだ」
美咲は剛造の横顔を見た。
「田島さん、やっぱり不器用ですね」
「そうか」
「でも」美咲は言った。「そういうところが、おじいちゃんに似てます」
剛造は何も言わなかった。
ただ、夜の街を、まっすぐ歩き続けた。
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その夜、都内のある場所で。
白髪の老人が、電話を受けた。
「会いました。二人とも、知りました」
老人は目を閉じた。
「田島さんの反応は」
「……予想通りでした。怖くないと言って、怖いと言いました」
老人は静かに笑った。
「五郎さん、あなたが言っていた通りの人ですよ」老人はつぶやいた。「『田島さんは、嘘をつけない人だ』と、あなたはいつも言っていた」
老人は窓の外を見た。
「残りの時間で、あの人はどこまでやれるでしょうか」
電話の向こうには、答えがなかった。
老人は静かに電話を切った。
そして、一枚の古い写真を取り出した。
田島剛造と、桐島五郎が、肩を並べて笑っている写真だ。
「五郎さん」
老人は写真を見た。
「あとは――私が、仕上げます」
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読んでいただきありがとうございます!
田島剛造のタイムリミットが、ついに明かされました。次話から物語が大きく動きます。
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