第6話 政界の生き残り
鎌倉は、静かだった。
東京から一時間。同じ神奈川でも、ここには別の時間が流れている。古い寺と民家が混在する路地、冬枯れた木々、遠くに見える海。
田島剛造と桐島美咲は、タクシーを降りて坂道を上った。
「藤堂義雄……本当にここに住んでるんですか」と美咲は言った。「元政治家って、都内の豪邸じゃないんですね」
「あいつは昔から派手なのが嫌いだった。俺とは正反対だ」
「田島さん、派手なんですか」
「派手だったな。昭和はそういう時代だった」
坂を上りきると、古い木造の屋敷が現れた。手入れされた庭に、松の木が一本。表札に「藤堂」とある。
剛造はインターホンを押した。
しばらくして、女性の声が応答した。「はい」
「田島と申します。藤堂さんにお取次ぎ願いたい」
少し間があった。
「……田島、様?」
「ああ」
また間があった。今度は長かった。
それからドアが開いた。
-----
応接間に通された。
古い家具が並ぶ落ち着いた部屋だ。床の間に掛け軸、違い棚に古い写真が何枚か飾られている。
美咲はその写真に目を止めた。
白黒の古い写真。大勢の男たちが並んでいる。政治家の集合写真だろう。
そしてその中に――
あの顔がある。
今より若い。しかし間違いない。剛造と同じ目をした男が、写真の中で笑っていた。
「田島さん」と美咲は小声で言った。「この写真」
「ああ」剛造は写真を見た。「昭和四十五年だ。俺が幹事長になった年に撮った」
「じゃあこっちが」
「藤堂だ。若いだろう」
美咲は写真をもう一度見た。
藤堂の隣に、見覚えのない男が立っていた。スーツ姿で、政治家ではなく官僚か研究者のような雰囲気だ。眼鏡をかけた、温和そうな顔。
どこかで見た顔だ。
美咲はそう思ったが、思い出せなかった。
廊下に足音がした。ゆっくりとした、老人の足音だ。
襖が開いた。
-----
藤堂義雄は、八十三歳になっていた。
白髪、深い皺、杖をついている。しかし背筋は真っ直ぐで、目だけが異様に澄んでいた。
その目が剛造を捉えた瞬間――
藤堂の体が、止まった。
杖を持つ手が、白くなるほど握りしめられた。
「…………」
無言だった。
十秒。二十秒。三十秒。
美咲は息をのんだ。老人の目に、見たことのないものが宿っていくのがわかった。
それは恐怖ではなかった。
「……先生」
藤堂の声は、かすれていた。
「先生……本当に、先生なんですか」
剛造は静かに言った。「久しぶりだな、藤堂」
藤堂の目から、涙が一筋流れた。
八十三歳の老政治家が、子供のように泣いていた。
-----
三人でテーブルを囲んだ。
茶が運ばれてきた。藤堂はしばらく泣いていたが、やがて顔を拭い、背筋を正した。
「失礼しました」と藤堂は言った。「みっともないところを」
「いい」剛造は言った。「お前が泣くのは初めて見た」
「先生が死なれたとき、私は泣けなかったんです」藤堂は言った。「泣いたら終わりだと思って。ずっとこらえてきた」
「……そうか」
「でも」藤堂は剛造を見た。「本当に先生なんですか。どうして」
「俺にもわからん。気がついたら令和の路地裏にいた」
藤堂はしばらく考えた。それから、何かを思い出すように目を細めた。
「……ひとつ、確かめさせてください」
「なんだ」
「昭和五十八年の秋、先生と私が二人で交わした約束があります。誰にも話していない。先生だけが知っているはずの約束です」
剛造は少し考えた。
「料亭・吉兆の二階だ。俺がお前に言った。『お前は俺が死んだ後も、この国を見続けろ。そして若い政治家を一人、育てろ。それが俺への恩返しだ』」
藤堂の目が、また潤んだ。
「……本物です」
「当たり前だ」
藤堂は深く頭を下げた。「先生、申し訳ありません。私は約束を果たせなかった」
「若い政治家を育てられなかったか」
「育てようとした議員が三人いました。しかし全員、御堂に潰された」
剛造の目が細くなった。「御堂に」
「あの男は、自分の邪魔になりそうな若手を片っ端から潰してきた。スキャンダル、資金問題、党内圧力……手口は様々ですが、必ず潰す。だから永田町には骨のある若手が育たない」
「それが今の政界の腐敗の根っこか」
「そうです」藤堂は言った。「御堂慎一郎という男は、単なる腐敗政治家ではありません。あの男は……」
藤堂は一度言葉を切った。
何かをためらうように、視線を落とした。
「藤堂」と剛造は言った。「何を知っとる」
藤堂は顔を上げた。その目に、迷いと決意が混在していた。
「先生、一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
「先生が……こうして蘇ったことに、何か心当たりはありますか」
剛造はしばらく黙った。
新潟の海辺で受けた謎の電話が、頭をよぎった。
「あなたがここにいるのも、美咲がそばにいるのも偶然ではありません」
「時間は無限ではありません」
「心当たりがないとは言えん」と剛造は言った。「何か知っとるか」
藤堂は深く息を吸った。
「実は……昭和の末期に、私は一度だけ『ある話』を聞いたことがあります。国家の危機に備えて、優れた人間の意識を保存する研究があると」
「眉唾だと思っておったか」
「はい。しかし」藤堂は剛造を見た。「先生が目の前にいる今、あの話は本当だったのかもしれないと思っています」
「その研究に関わっていた人間を、知っとるか」
藤堂は少し考えてから、答えた。
「一人だけ。名前は……桐島という科学者でした」
美咲の手帳が、床に落ちた。
-----
美咲はあわてて手帳を拾った。
「すみません」と美咲は言った。声が、少し震えていた。
藤堂は美咲を見た。
「あなたは」
「記者の桐島美咲です。田島さんの協力者で」
藤堂の目が、微かに揺れた。
「桐島……美咲さん」
「はい」
藤堂はしばらく美咲を見た。それから、写真立てへ目を向けた。
さっき美咲が「見覚えがある」と思った、眼鏡の男の写真だ。
「……桐島博士には、お孫さんがいると聞いていました」
美咲の体が固まった。
「あの写真の男性は」と美咲は言った。「もしかして」
「桐島五郎博士です」藤堂は静かに言った。「先生と私の、古い友人です」
美咲は写真を見た。
温和な笑顔。眼鏡。
おじいちゃんだ。
「……なんで」美咲の声が、震えた。「なんでここに、おじいちゃんの写真が」
「美咲さん」剛造が静かに言った。
美咲は剛造を見た。
「今日はここまでにしよう」
「でも、田島さん」
「続きはまた来る。今日は再会を喜ぶだけでいい」
藤堂は剛造を見た。それから美咲を見た。
「……わかりました」藤堂は静かに言った。「ただ、一つだけ」
「なんだ」
藤堂は美咲を見た。その目に、深い慈しみのような光があった。
「美咲さん、お祖父様は……あなたのことを、本当に誇りに思っていました。私に、何度もそう言っていた」
美咲は、何も言えなかった。
ただ、目の奥が熱くなるのを感じた。
-----
帰り道、鎌倉の路地を二人で歩いた。
夕暮れが近い。冬の光が、古い町並みを橙色に染めていた。
しばらく無言だった。
「田島さん」と美咲は言った。
「なんだ」
「桐島五郎って……私のおじいちゃんの名前です」
剛造は歩きながら、前を向いたまま言った。「知っとった」
美咲は足を止めた。「……いつから」
「黒岩から『桐島という科学者』の名前を聞いたとき、疑い始めた。新潟の電話で確信した。藤堂の話で、全部繋がった」
「なんで……何も言わなかったんですか」
剛造も足を止めた。振り返り、美咲を見た。
夕暮れの光の中で、美咲の目が揺れていた。
「お前が隠しているとは思っとらん」と剛造は言った。「お前も知らなかったんだろう」
「……知りませんでした。おじいちゃんがそんな研究をしていたなんて」
「そうか」
「私、田島さんを騙してたわけじゃ」
「わかっとる」
剛造はまた歩き始めた。
美咲はしばらく立ったまま、それから小走りで剛造の隣に並んだ。
「怒ってないんですか」
「怒る理由がない」
「でも私が傍にいたのは、偶然じゃなかったかもしれなくて」
「美咲」
剛造は歩きながら言った。
「偶然だろうと必然だろうと、お前がここにいることは変わらん。お前が骨のある人間であることも変わらん。それだけで十分だ」
美咲は何も言えなかった。
ただ、目の奥が熱くなるのを感じた。
-----
その夜、東京に戻った剛造は、一人で机に向かった。
紙に、一つの名前を書いた。
「桐島五郎」
その下に、矢印を引いた。
「プロジェクト・レガシー」
さらに矢印を引いた。
「御堂慎一郎」
そして、もう一本。
「桐島美咲」
剛造はペンを置き、その紙を見た。
点と点が、線で繋がった。
なぜ俺は蘇った。誰が俺を必要としている。そして御堂は何を狙っている。
そして――俺に残された時間は、どれだけある。
答えはまだない。
しかし剛造は、焦らなかった。
政治は農業と同じだ。
土を耕し、種を蒔き、水をやる。
答えは、必ず実る。
ただし、時間は無限ではない。
剛造は紙を折りたたみ、ポケットにしまった。
令和の夜が、静かに続いていた。
-----
読んでいただきありがとうございます!
ブックマーク・感想お待ちしています!




