第5話 新潟へ
新幹線の車窓から、雪景色が流れていった。
田島剛造は窓の外を見ながら、缶コーヒーを握っていた。美咲が買ってきたものだ。温かい。
「懐かしいか、と聞こうと思ったんですけど」と美咲は言った。「新幹線自体、昭和に作ったんでしたっけ」
「東海道は昭和三十九年だ。上越は昭和五十七年。俺が総理のときに予算をつけた」
「じゃあ自分が作ったものに乗ってるわけですね」
「ああ」剛造は缶コーヒーを一口飲んだ。「速くなったな。昔より」
「そりゃ四十年経てば」
剛造は小さく笑った。
美咲はその横顔を見た。
この人が笑うのを、ちゃんと見たのは初めてかもしれない。
そしてふと、思った。
おじいちゃんは、この人のことを知っていたのだろうか。
「田島さん」と美咲は言った。
「なんだ」
「新潟、好きですか」
剛造は少し間を置いた。
「俺が生まれた場所だ。好きとか嫌いとかじゃない。俺の一部だ」
美咲は頷いた。
「私も同じです」
二人は並んで、流れていく雪景色を見た。
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新潟駅に降り立つと、冷たい風が吹いていた。
日本海から来る風だ。東京とは違う、骨まで染みるような冷たさ。
剛造は目を閉じた。
この風の匂いを、知っている。
子供の頃、雪の中を裸足で走り回った記憶。父親の背中。母親の声。貧しかったが、確かに生きていた日々。
「田島さん?」
「……ああ。行くぞ」
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まず向かったのは、かつて剛造が予算をつけた農業用水路の沿線地区だった。
タクシーで三十分。
田んぼが広がる農村地帯。しかし季節のせいだけではない静けさがある。人の気配が薄い。
タクシーを降りて歩いていると、農作業をしている老人と目が合った。
七十代後半だろう。日焼けした顔に深い皺。腰が少し曲がっている。
「すみません」と美咲が声をかけた。「この辺りのことを少し聞かせてもらえますか。私、記者で」
老人は美咲を見てから、剛造を見た。
「……あんた、田島先生に似とるな」
剛造は一瞬だけ目を細めた。
「孫です」と剛造は言った。
「そうか」老人は剛造をもう一度見た。「よう似とる。目元がそっくりだ」
「よく言われます」
老人は少し笑った。「先生にはお世話になった。この水路も、道路も、全部先生が作ってくれたもんだ。今でも感謝しとる」
「今は、どうですか。農業は」
老人の顔が曇った。
「厳しいな。息子は東京へ行った。孫は帰ってこん。わしも来年には辞めようかと思っとる。体がもたん」
「後継者は」
「おらん。この辺りはみんなそうだ。十年前は七軒あった農家が、今は三軒だ」
剛造は黙って聞いていた。
「米の値段も上がらん。肥料や燃料は上がる一方だ。やっても赤字になる。若いもんが継がんのは当たり前だわな」
「……そうですか」
老人はふと、剛造の顔をもう一度じっと見た。
「あんた、孫だって言ったけどな」
「はい」
「田島先生はな、わしらの話を聞くとき、そういう顔をしとった。同じ顔だ」
「どんな顔ですか」
「怒っとるんだか、悲しんどるんだかわからん顔だ。でも絶対に目を逸らさん。そういう顔だ」
剛造は何も言わなかった。
老人は腰を伸ばし、田んぼの方を見た。
「先生がもう一回来てくれたら、と思うことがある。馬鹿なことを言っとるのはわかっとるけどな」
その言葉が、冬の風に溶けていった。
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午後、商店街へ向かった。
シャッターが半分以上閉まっていた。
開いている店も、客の姿はまばらだ。
美咲はメモを取りながら歩いた。剛造は無言で、一軒一軒のシャッターを見て歩いた。
八百屋の跡。魚屋の跡。文房具屋の跡。
「田島さん」と美咲は言った。「辛くないですか」
「辛いとかじゃない」剛造は言った。「俺が作ったものが朽ちていくのは、当たり前のことだ。問題は、次のものが作られていないことだ」
「次のもの」
「昭和に俺たちがやったことは、インフラを作ることだった。道路、新幹線、港、水路。令和に必要なのは別のインフラだ」
「別の?」
「人が繋がるインフラだ。若者が地方で食っていける仕組み。農業が儲かる流通の仕組み。子供を産んでも生活できる社会の仕組み。コンクリートじゃなく、制度と文化のインフラだ」
美咲は手を止め、剛造を見た。
「……それ、書いていいですか」
「まだ駄目だ」
「なんで毎回駄目なんですか」
「言葉だけが先走ると、中身が追いつかん。政策は言葉じゃなく実績で語るものだ」
美咲はため息をついた。「もどかしいな」
「政治はもどかしいものだ。それが嫌なら向いておらん」
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夕方、剛造は一人で海へ向かった。
美咲には「少し一人にしてくれ」と言った。
日本海の夕暮れ。灰色の波が打ち寄せる。
剛造は砂浜に立ち、海を見た。
子供の頃、よくここへ来た。貧しくて、腹が減っていて、それでもこの海だけは広かった。
俺はそれをやったか。
やろうとしたか。
……足りなかった。
波の音の中で、剛造は右手を見た。
傷が消えた掌。昨日気づいた異変が、まだ頭の隅にある。
俺の体は、本当に人間のものか。
その問いに、答えは出ない。
そのとき、ポケットの中で何かが震えた。
美咲から借りているスマートフォンだ。
画面に見知らぬ番号が表示されていた。
剛造は出た。
「……もしもし」
しばらく無音だった。
それから、低い声が言った。
「田島さん、ですね」
「誰だ」
「私の名前は関係ありません」声は落ち着いていた。老人の声だ。「ただ、一つだけお伝えしたいことがある」
「何だ」
「あなたが今ここにいる理由を、私は知っています」
剛造の目が細くなった。
「あなたを呼び戻したのは、偶然ではありません。そして」
声が続いた。
「桐島美咲さんが、あなたのそばにいるのも――偶然ではありません」
「……お前は誰だ」
「いずれわかります」
「今教えろ」
「まだその時ではありません」老人の声は穏やかだった。「ただ一つだけ。あなたの体に、違和感を覚えていませんか」
剛造は掌を見た。
「……覚えている」
「それが答えの入り口です。焦らずに。あなたには時間がある。ただし――無限ではありません」
電話が、切れた。
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剛造はしばらく、スマートフォンを見つめた。
発信元を確認した。非通知だった。
あなたの体に、違和感を覚えていませんか。
無限ではありません。
波が打ち寄せる。
剛造は海を見た。
点と点が、線になりかけていた。
黒岩の「桐島という科学者」という言葉。
御堂が「田島剛造」の名前を確認するように聞いた目。
美咲の「おじいちゃんの大事な役目」という言葉。
そして、傷が消えた掌。
「……そういうことか」
剛造はつぶやいた。
確信はない。だが、政治家として長く生きた勘が、静かに告げていた。
この娘には、何かある。そして俺の体にも、何かある。
しかし剛造は、その考えを頭の奥にしまった。
今はまだ、その時ではない。
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宿に戻ると、美咲がロビーで待っていた。
「寒かったでしょう、海なんか行って」
「平気だ」
「夕飯、へぎそば食べに行きましょう。新潟来たんだから」
剛造は美咲を見た。
新潟出身の、骨のある娘。
祖父の話を、自然にする娘。
「ああ」と剛造は言った。「そばは好きだ」
美咲は笑った。
その笑顔を見て、剛造は思った。
今はまだ、何も言わなくていい。
だがいつか、全部話さなければならない。
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その夜、東京では。
御堂慎一郎の携帯に、一本の電話が入った。
「新潟に行きました。美咲も一緒です」
「そうか」御堂は静かに言った。「海に行ったか」
「はい。剛造は一人で砂浜に立っていました。そこで電話を受けたようです」
御堂の目が細くなった。
「……誰からだ」
「非通知でした。確認できません」
御堂は少し考えた。
「急ぐ必要がある」御堂は言った。「泳がせておく時間は、あまりない」
電話を切り、御堂は引き出しを開けた。
「Project Legacy」と書かれた古い封筒。
その中に、一枚の書類が入っている。
御堂はその書類を取り出した。
タイトルには「転写個体の有効期間に関する報告書」とある。
御堂はその一行を指でなぞった。
有効期間:起動から最長二年。ただし意識の安定性は六ヶ月を境に低下し始める。
「六ヶ月……」
御堂は書類を封筒に戻した。
「時間は、向こうにもない」
その顔に、静かな笑みが浮かんだ。
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読んでいただきありがとうございます!
謎の電話。御堂が手にした「転写個体の有効期間」という言葉。 剛造の体に秘められた真実が、少しずつ見え始めてきました。
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