第4話 令和を学ぶ男
美咲のアパートは、東京・中野の古いマンションの一室だった。
六畳一間にキッチンと風呂。本棚には新聞のバックナンバーと取材ノートが積み上がっている。決して広くはないが、整理されていて、住む人間の性格が出ていた。
田島剛造がここに転がり込んで、五日が経った。
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朝五時。
美咲が起きてくると、剛造はすでに机に向かっていた。
画面にはニュースサイト。手元には美咲のノートと、借りた鉛筆。テーブルの上には、びっしりと数字と図が書き込まれた紙が何枚も広がっている。
「……また徹夜ですか」
「四時間寝た。十分だ」
美咲はため息をついてコーヒーを二杯淹れ、一杯を剛造の隣に置いた。
「何を調べてるんですか」
「色々だ」剛造はコーヒーを一口飲み、画面を指した。「まずスマートフォンというものが面白い。これ一台で新聞も読める、地図も見られる、人と話もできる。昭和にこれがあったら、俺の仕事は半分の時間で済んだ」
「使いこなせてますね、もう」
「三日あれば大抵のことは覚えられる」
美咲は剛造の手元の紙を覗き込んだ。数字の羅列、矢印、人名、企業名。
「これ、全部頭に入ってるんですか」
「入れた」
「……人間ですか」
「失礼なことを言うな」
剛造は次の画面を開いた。財務省の公開データだ。
「令和の日本で一番おかしいのはな」と剛造は言った。「数字と現実が乖離しとることだ」
「どういうことですか」
「GDPは世界三位だ。技術力もある。勤勉な国民がいる。なのに賃金は三十年上がっとらん。若者は家を持てない。地方は過疎化する。これはおかしい」
「デフレとか、少子化とか、色々言われてますけど」
「原因は一つじゃない。だが根っこは同じだ」剛造はペンを置き、美咲を見た。「金が回っとらんのだ」
「金が?」
「稼いだ金が国民に回らず、一部の人間と海外へ流れていく。昭和の高度経済成長期は違った。工場で働く人間が給料をもらい、その金で飯を食い、服を買い、家を建てた。金が国内をぐるぐる回っとった」
美咲はメモを取り始めた。
「今は違う。大企業は内部留保を積み上げ、外国人株主への配当を増やし、非正規雇用を増やして人件費を削る。その構造を三十年続けた結果が今の日本だ」
「……それ、記事にしていいですか」
「好きにしろ。ただし俺の名前は出すな。まだ早い」
美咲は頷き、手を動かし続けた。
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昼過ぎ、剛造は美咲に頼んで近所を歩いた。
スーパーマーケット、商店街、駅前のロータリー。
剛造は値札を一つ一つ確認しながら歩いた。野菜の値段、肉の値段、弁当の値段。
「高いな」と剛造はつぶやいた。
「物価上がってますからね」と美咲は言った。
「サラリーマンの平均月収はいくらだ」
「手取りで大体二十万から二十五万くらい、が多いと思います」
剛造は黙って計算した。
「家賃が八万として、食費が四万、光熱費が二万、通信費が一万……残りは五万か。子供がいたら教育費も要る。これでは貯金もできん」
「そうなんです。だから若い人が結婚しない、子供を持てないって」
「昭和の三十年代、俺が政治を始めた頃は、もっと貧しかった。だがみんな子供を産んどった。なぜかわかるか」
美咲は首をかしげた。
「将来が明るかったからだ」剛造は言った。「今より貧しくても、来年は良くなる、五年後はもっと良くなると信じられた。今の若者にはそれがない。将来が見えない」
商店街の一角に、シャッターが閉まった店が並んでいた。
剛造はその前で立ち止まった。
「ここは何の店だったんだ」
「あそこが魚屋で、その隣が文房具屋で……みんな五年以内に閉まったって、商店街の人が言ってました」
「後継者がいないか」
「いないか、継いでも食べていけないか」
剛造は閉まったシャッターを、しばらく見つめた。
俺が作ったものが、こうなっとる。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。
ただ、静かな決意が、腹の底に沈んでいった。
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アパートに戻り、夕方になった頃。
美咲は台所で夕飯の準備をしながら、ふと思い出したことがあった。
「田島さん、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「おじいちゃんの話なんですけど」
剛造の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
美咲は気づかなかった。
「私のおじいちゃん、桐島五郎っていうんですけど。科学者だったんです。でも何の研究をしてたか、あまり教えてくれなくて」
「……そうか」
「国の研究機関に勤めてたって言ってました。でも詳しいことは『いつかわかる』って。子供の頃からずっとそう言われてたんです」
剛造は窓の外を見た。
令和の夕暮れが、中野の街を橙色に染めていた。
「おじいちゃん、口癖みたいに言ってたんです」美咲は続けた。「『美咲、お前には大事な役目がある。その時が来たらわかる』って」
「……いつ亡くなったんだ」
「三年前です。八十二歳で。最後まで頭はしっかりしてました」
「そうか」
「田島さんは、桐島五郎って名前、聞いたことありますか」
剛造は少し間を置いた。
「ない」
嘘だった。
黒岩から「桐島という科学者」という名前を聞いたとき、剛造の頭の中で何かが繋がっていた。そして新潟の海辺で受けた電話の声が、また頭をよぎった。
「桐島美咲がそばにいるのも、偶然ではありません」
しかし今は、まだ言う時ではない。
「そうですか」と美咲は言った。「じゃあ関係ないか」
「ああ」
美咲は鍋をかき混ぜながら、小さく呟いた。
「おじいちゃんが言ってた『大事な役目』って、なんだったんだろうな」
剛造は答えなかった。
ただ、窓の外を見たまま、静かに目を細めた。
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夜、剛造は一枚の紙に、これからの行動計画を書いた。
```
一、藤堂義雄と接触する(同志の確保)
二、若手議員グループを探す(次世代の駒)
三、御堂の動きを監視する(黒岩のネットワーク活用)
四、補欠選挙の情報を集める(政界に足がかりを作る)
五、国民の声を直接聞く(新潟を含む地方行脚)
```
美咲がそれを覗き込んだ。
「これ、全部一人でやるんですか」
「一人でできることからやる。できないことは人を借りる」
「私も使っていいですよ」
剛造は美咲を見た。
「記者として動いてくれ。御堂の周辺を調べてほしい。アーク・キャピタルの日本での活動実態、港湾と農地の売却状況、メディアへの広告出稿の状況」
「広告出稿まで調べるんですか」
「メディアが御堂を批判しない理由がある。金だ。スポンサーになっとれば、テレビ局は批判できん。その構造を明らかにしたい」
美咲の目が光った。記者の目だ。
「……それ、やります」
「危なくなったら引け。無理はするな」
「田島さんが言いますか、それ」
「俺は慣れとる。お前はまだ若い」
美咲は少し笑った。「ありがとうございます」
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深夜、剛造は一人で窓の外を見た。
中野の夜景。東京の光。
疲れた顔で電車を降りるサラリーマン。重そうな荷物を持って歩く主婦。夜遅くまでコンビニでバイトをしている若者。
「頑張っとるな」
剛造は窓ガラスに向かって、小さくつぶやいた。
誰に聞かせるでもない言葉だった。
その時、ふと剛造は自分の右手を見た。
おかしい、と思った。
昨日、議員会館への道を歩いているとき、石畳で少し躓いて手をついた。そのとき傷ついたはずの掌が、もう完全に治っている。
普通の人間なら、まだ赤みが残るはずだ。
……体が、おかしい。
剛造は掌を握り、また開いた。
傷の跡は、どこにもなかった。
待っとれ。必ず動かしてみせる。
剛造はその考えを頭の奥にしまい、また窓の外を見た。
令和の夜が、静かに続いていた。
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翌朝、剛造は美咲に言った。
「藤堂義雄の居場所を調べてくれ」
「元政治家の藤堂さんですね。わかりました」
「それと」
「はい」
「新しい靴が要る。これから動き回るのに、今の靴では長くもたん」
美咲は剛造の靴を見た。確かに、かなりくたびれている。
「サイズは?」
「二十六・五だ」
「……わかりました」
美咲は財布を持って立ち上がった。剛造は静かに言った。
「金は必ず返す」
「いいですよ、別に」
「返す」剛造は繰り返した。「俺は借りたものは必ず返す。それだけは昭和から変わっとらん」
美咲はドアを開けながら、振り返った。
「田島さんって、不器用ですよね」
「そうか」
「でも、そこが一番信用できます」
剛造は何も言わなかった。
ただ、窓の外を見たまま、小さく頷いた。
そして美咲が出ていくと、剛造は再び自分の掌を見た。
俺の体は、本当に人間のものか。
その問いに、まだ答えは出なかった。
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