第3話 御堂慎一郎という男
永田町は、東京の中でも特別な空気が流れている。
権力の匂いとでも言うのか。霞が関の官僚街とも、丸の内のビジネス街とも違う、独特の緊張感がある。ここで生きる人間は皆、何かを狙い、何かを守り、何かを恐れている。
田島剛造はその空気を懐かしいと思いながら、衆議院第二議員会館の前に立った。
「本当に行くんですか」と桐島美咲が言った。「アポなしで幹事長室に」
「行かなければ始まらん」
「追い返されますよ」
「追い返されたら、また来る」
剛造はコートの襟を正し、入り口へ歩いた。
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受付で剛造は静かに言った。
「御堂幹事長にお取次ぎ願いたい。田島と申します」
受付の女性は丁寧に笑った。「アポイントメントはございますか」
「ない。ただ、竜神会の黒岩からの紹介と伝えていただければ、幹事長はわかります」
女性の表情が一瞬固まった。それを剛造は見逃さなかった。
しばらくして、スーツ姿の若い男が現れた。秘書だろう。三十代、目が鋭い。御堂の側近と見た。
「田島様でいらっしゃいますか」
「そうだ」
「……少々お待ちください」
男は廊下の奥へ消えた。美咲が剛造の隣で小声で言った。「黒岩さんの名前、効きましたね」
「ああ。御堂はああいう筋と繋がっとる。だから名前を聞いて無視できない」
五分後、秘書が戻ってきた。
「幹事長がお会いになります」
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幹事長室は広かった。
調度品は高級で、壁には著名人との写真が並んでいる。総理との握手、外国要人との会食、経済界の重鎮たちとのツーショット。権力の証明書を壁一面に貼り並べたような部屋だ。
御堂慎一郎は、部屋の奥のソファに座っていた。
六十代、白髪交じりの頭、温和そうな顔。テレビで見る「改革派の重鎮」そのままの風貌だ。しかしその目は笑っていない。値踏みをする目だ。
美咲はふと、壁の写真に目を止めた。
著名人との写真が並ぶ中に、一枚だけ古い白黒写真が混じっていた。
昭和の政治家たちの集合写真のようだ。
あの顔がある。
剛造と同じ顔が、その写真の中にあった。
そして御堂の父と思われる男が、その隣に立っていた。
御堂の父と田島剛造は、知り合いだった。
「田島さん、でしたか」御堂は穏やかな声で言った。「黒岩さんのご紹介とのことで。どのようなご用件でしょう」
剛造は勧められたソファに座った。美咲は入り口近くに立ったまま、手帳を持っている。御堂は美咲をちらりと見た。
その目が、一瞬だけ止まった。
美咲は気づかなかった。しかし御堂の視線は、美咲の顔をほんの少しだけ、長く見ていた。
「単刀直入に言う」と剛造は言った。「あなたとアーク・キャピタルの関係について、話したいことがある」
室内の空気が、かすかに変わった。
御堂の顔から表情は消えなかった。しかし目の奥が、一瞬だけ鋭くなった。
「……アーク・キャピタル? 私はそのような会社とは」
「御堂建設の子会社・御堂インベストメントが、アーク・キャピタルの日本法人に出資している。その出資の見返りとして、港湾整備の入札情報が事前に流れている」
御堂は微笑んだままだった。「それは根拠のない話では」
「根拠がなければここに来ない」
剛造はスーツの内ポケットから、折りたたんだ紙を一枚取り出した。広げて、テーブルに置いた。
数字が並んでいる。日付、金額、口座番号の断片、そして企業名。
御堂はその紙を見た。
一秒、二秒、三秒。
「……どこでこれを」
「それはあなたには関係ない」
御堂はゆっくりと目を上げた。穏やかな表情は消えていた。その目に、剛造が初めて本物の御堂を見た気がした。冷たい、計算だけで動く男の目だ。
「あなたは、何者ですか」
「田島剛造だ」
「田島……」
御堂の目が、かすかに揺れた。
美咲はそれを見た。
驚きではなかった。確認するような目だった。まるで、その名前を予期していたかのような。
「その名前は」と御堂は言った。声が、ほんの少しだけ低くなった。
「昭和の政治家だ。知っとるか」
「……知っています」
御堂はゆっくりと答えた。「父が、大変お世話になった方です」
「そうか」
「しかし田島総理は、とっくに」
「死んだ。だが戻ってきた」
沈黙。
御堂は剛造を見た。その顔には、困惑と警戒と――美咲には読めない何かが、複雑に混じっていた。
「……何が目的ですか」
「目的はひとつだ」剛造は言った。「この国を立て直す。あなたがやっていることは、その邪魔になる」
「私は日本の経済成長のために、外国資本の導入を推進している。それの何が問題なのですか」
「水と土を売ったら、国じゃねえ」
剛造の声は低かったが、室内に響いた。
「港湾を売る。農地を売る。水道を売る。それで入ってくる金は、誰のところへ行く。国民のところへ行くか。地方の農家のところへ行くか」
御堂は答えなかった。
「あなたのところへ行く。御堂建設のところへ行く。アーク・キャピタルのところへ行く。国民には何も残らん」
「……投資です。長期的には」
「長期的に国民が豊かになった例を、ひとつでも見せてくれ」
また沈黙。
御堂は視線をテーブルの紙に落とした。それから顔を上げ、今度は別の表情になった。交渉の顔だ。
「田島さん、あなたが何者かは今は問いません。ただ……その資料を、どうするつもりですか」
「今は何もしない」
「今は、ということは」
「あなたの動きを見る。もし動きが変わらないなら、然るべき場所へ持っていく」
御堂はしばらく考えた。その顔には、様々な計算が走っているのが見えた。
「……わかりました」と御堂は言った。「お話は承りました」
剛造は立ち上がった。紙を手に取り、ポケットに戻した。
「最後にひとつだけ言っておく」
御堂は黙って剛造を見た。
「あなたは賢い男だ。だからこそ言う。賢い人間が間違った方向へ進むと、馬鹿が間違うより何倍も質が悪い。まだ引き返せる」
御堂は答えなかった。
剛造は踵を返し、部屋を出た。
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議員会館を出ると、冬の風が吹いていた。
美咲はコートの前を合わせながら、剛造の隣を歩いた。
「……すごかったです」と美咲は言った。「御堂さん、完全に飲まれてましたね」
「飲まれてはおらん」剛造は言った。「あれは計算しとる。どう対処するか、頭の中でずっと動いとった」
「それでも圧倒されてました」
「圧倒されながら計算できる男は怖い」剛造は言った。「油断したら足をすくわれる」
美咲は手帳に書きながら歩いた。「田島さん、御堂さんが田島さんの名前を聞いたとき……驚いてなかったと思いませんか」
剛造は歩きながら、前を向いたまま言った。「気づいとったか」
「確認するような目でした。まるで知っていたみたいな」
「ああ」
「どういうことだと思いますか」
剛造は少し間を置いた。
「御堂は俺のことを、何か知っとる。父親から聞いていたか、あるいは別の方法で知っていたか」
「別の方法って」
「今はわからん」剛造は言った。「だが御堂が俺の名前に反応したのは確かだ。それだけで今日は十分だ」
美咲は頷いた。
「田島さん」
「なんだ」
「壁に昭和の写真がありましたよね。御堂さんのお父さんと、田島さんが並んでいる写真」
剛造は何も言わなかった。
「御堂さんのお父さんとは、どんな関係でしたか」
しばらく沈黙が続いた。
「……昔の話だ」と剛造は言った。「今は関係ない」
しかしその声に、わずかに何かが混じっていた。
美咲はそれ以上聞かなかった。
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その夜、御堂慎一郎は一人で執務室に残り、電話をかけた。
相手は一言で聞いた。「どうする」
御堂はしばらく考えてから答えた。
「……調べろ。田島剛造という男を、徹底的に。それと」
御堂は少し間を置いた。
「桐島美咲の動きも、全て把握しておけ」
「桐島美咲、ですか。なぜ彼女を」
「理由は言わん」御堂は静かに言った。「ただ……あの娘には、気をつけろ」
電話を切り、御堂は窓の外を見た。
夜の永田町。光と闇が混在する街。
「田島剛造……」
その名前を、御堂は静かに繰り返した。
そしてもう一つの名前を、心の中だけでつぶやいた。
桐島五郎。あなたの計画が、動き始めた。
御堂は目を細めた。
政治家として長く生きてきた勘が、警告を発していた。
急がなければならない。田島が動く前に。
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読んでいただきありがとうございます!
御堂が「桐島五郎」の名前を知っていた――その意味が、少しずつ見えてきます。
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