第19話 黒岩の覚悟
夜の電話だった。
「先生、少し話せますか」
黒岩の声は、いつもより低かった。
田島剛造は縁側に出て、夜の鎌倉の空気を吸いながら電話に出た。
「何があった」
「今日、組の事務所に警察が来ました。家宅捜索です」
「御堂の差し金か」
「おそらく。令状はあったが、内容が薄い。嫌がらせ目的です。ただ」黒岩は少し間を置いた。「組員の中に、動揺が出ています。このまま続ければ、組が割れるかもしれない」
剛造は黙って聞いていた。
「先生、俺はそろそろ限界かもしれません」
「そうか」
「先生の足を引っ張るくらいなら、引いた方がいい。そう思い始めています」
「黒岩」
「はい」
「お前が引いたら、令和の裏社会を誰が人間らしくするんだ」
黒岩は沈黙した。
「御堂が裏社会に外資を入れようとしている。それを止めているのはお前だ。お前がいなくなれば、令和の闇はもっと深くなる」
「しかし先生、俺は」
「引くな」剛造は静かに言った。「最後まで立っていろ。それがお前の仕事だ」
黒岩はしばらく沈黙した。
やがて、低い声で言った。
「……わかりました」
「一つだけ頼みがある」
「何ですか」
「今夜、会えるか。お前に直接聞きたいことがある」
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深夜、剛造は一人で黒岩の事務所へ向かった。
美咲には「少し出る」とだけ言った。
美咲は心配そうな顔をしたが、何も言わなかった。
黒岩の事務所は、家宅捜索の跡が残っていた。書類が散乱し、棚が乱れている。
黒岩は片付けながら剛造を迎えた。
「すみません、散らかっていて」
「気にするな」
二人は向かい合って座った。
茶が運ばれてきた。
しばらく無言だった。
「黒岩」と剛造は言った。
「はい」
「一つ聞く。正直に答えてくれ」
「何でも」
剛造は黒岩を真っ直ぐ見た。
「お前は俺が来たとき『やっぱり来たか』と言った。あれはどういう意味だ」
黒岩は少し間を置いた。
「……気づいていましたか」
「ずっと気になっていた。今聞く」
黒岩は茶碗を置き、ゆっくりと息を吐いた。
「先生、実は……俺は知っていました」
「何を」
「プロジェクト・レガシーのことを」
剛造の目が、細くなった。
「どこまで知っとる」
「昭和の末期、俺は御堂正一から話を聞かされました。資金提供の見返りとして、プロジェクトの概要を教えてもらった。田島剛造の意識が保存されている。いつか令和に蘇るかもしれないと」
「それで『やっぱり来たか』だったのか」
「はい。信じていたわけじゃない。ただ……先生が蘇るなら、永田町に現れるだろうと思っていた。だから事務所を移さなかった」
剛造は黙っていた。
「先生、怒っていますか」
「怒らん。ただ」剛造は言った。「もう一つ聞く」
「何でも」
「封筒の中の写真は、誰だ」
黒岩の目が、かすかに揺れた。
「……見ていましたか」
「女性の写真だった」
黒岩はしばらく沈黙した。
それから、引き出しを開けた。
古びた封筒を取り出し、中から写真を出した。
剛造に渡した。
若い女性の写真だった。
二十代だろうか。笑顔で、新潟の海を背景にしている。
剛造はその写真を見た。
「誰だ」
「桐島明子さんです」黒岩は静かに言った。「美咲さんのお母さんです」
剛造は写真を見た。
美咲に、似ていた。目元が、特に。
「お前は、明子を知っていたのか」
「はい」黒岩は言った。「五郎さんの娘が新潟で結婚したと聞いて、会いに行ったことがあります。一度だけ。五郎さんへの義理で」
「それだけか」
「それだけです。ただ……明子さんが亡くなったと聞いたとき、写真だけ持っておこうと思った。理由は自分でもわからない。ただ、誰かが覚えていてやらないといかんと思った」
剛造は写真を黒岩に返した。
「お前は美咲のことを、最初から知っていたんだな」
「新潟出身の記者だと聞いたとき、すぐにわかりました。あの目は、明子さんの目だった」
剛造は黙って聞いていた。
「先生が美咲さんを信用すると言ったとき、俺もすぐに信用しました。五郎さんの血筋だから。明子さんの娘だから」
「……そうか」
「先生」黒岩は剛造を見た。「美咲さんの両親のことを、もしかして先生は何か知っていますか」
剛造はしばらく黙った。
「……今は言えん」
「そうですか」
「時が来たら話す」
黒岩は静かに頷いた。「わかりました。俺はそれを聞いてどうするわけでもない。ただ……あの子のことは、ずっと気にかけていました。一人で生きてきた子だから」
剛造は窓の外を見た。
「黒岩」
「はい」
「お前は、なんで任侠の道を選んだ」
黒岩は少し考えた。「生まれた場所がそういう場所でした。ほかに道がなかった」
「後悔しているか」
「していません。ただ」黒岩は言った。「先生みたいな人間と出会えたことは、運がよかったと思っています」
「俺もだ」
黒岩は目を細めた。
「……先生に言われると、照れますね」
「照れるな。本当のことだ」
しばらく、二人は無言で茶を飲んだ。
昭和から続く、男同士の時間だった。
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「一つだけ頼みがある」と剛造は言った。
「何でも」
「一週間後、俺が国会で動く。その後、美咲を守ってくれ」
黒岩は剛造を見た。「先生は」
「俺はやることをやる。その後のことは、お前たちに任せる」
「先生、まさか」
「頼めるか」
黒岩はしばらく剛造を見た。
その目に、昭和の記憶が蘇っているのがわかった。共に泥をかぶった、長い時間の記憶が。
「……わかりました」
黒岩は静かに言った。
「美咲さんは、俺が命をかけて守ります」
剛造は頷いた。
「ありがとう」
黒岩は目を閉じた。
「先生に礼を言われると、本当に困りますね」
「慣れろ」
黒岩は小さく笑った。
それから、目が光った。
こらえようとしていたが、こらえきれなかった。
剛造は何も言わなかった。
ただ、窓の外を見た。
令和の夜が、静かに続いていた。
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帰り道。
剛造は夜の鎌倉の路地を一人で歩いた。
月が出ていた。
剛造は歩きながら、自分の手を見た。
傷が消えた掌。
あと一週間。
一週間で、やることを全部やる。
剛造は空を見上げた。
「五郎」剛造は小さくつぶやいた。「お前の娘夫婦のことは、俺が必ずけりをつける。約束する」
月が、静かに光っていた。
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別荘に戻ると、美咲はまだ起きていた。
パソコンの前で記事を書いていた。
「遅かったですね」
「ああ」
「黒岩さんのところですか」
「そうだ」
「大丈夫でしたか」
「大丈夫だ」剛造は言った。「黒岩は最後まで立つと言った」
美咲は少し安心したような顔をした。
「よかった」
「お前も早く寝ろ。一週間後に向けて、体力を残せ」
「田島さんこそ」
「俺は大丈夫だ」
「また嘘をつく」
剛造は少し間を置いた。
「……少し疲れとる」
美咲は立ち上がり、コーヒーを淹れた。
「一緒に飲みましょう」
「そうするか」
二人は並んで、コーヒーを飲んだ。
「田島さん」
「なんだ」
「一週間後、終わったら……新潟に行きませんか」
「なんで新潟に」
「海が見たいです。田島さんと一緒に、日本海を見たい」
剛造はしばらく黙っていた。
「……行けたらな」
「行きましょう」美咲は言った。「約束してください」
剛造は美咲を見た。
その目が、かすかに揺れた。
「……約束する」
美咲は微笑んだ。
その約束が果たされるかどうか、この時点では誰も知らなかった。
しかし美咲は、信じていた。
田島剛造は、約束を守る人間だと。
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