第18話 御堂の影
翌朝、鎌倉の別荘に、林田誠司が訪ねてきた。
財務省を辞めてから一週間。林田は毎日、資料を集め続けていた。財務省に残った四人の仲間から、少しずつデータが届いていた。
「田島さん、新しい資料が揃いました」
林田はテーブルにファイルを広げた。
アーク・キャピタルの資金の流れ。御堂の政治資金との繋がり。ダミー会社のリスト。
田島剛造はそれを一枚ずつ確認した。
「よくやった」
「ありがとうございます」林田は言った。「ただ、一つ気になるものが混じっていました」
「何だ」
林田は少し間を置いてから、一枚の書類を取り出した。
「これは、財務省の記録ではありません。御堂の資金管理団体の古い書類の中に、混じっていたものです。十五年前の日付があります」
剛造はその書類を受け取った。
一行目を読んだ瞬間、剛造の目が、わずかに細くなった。
桐島美咲は、キッチンで朝食を作っていた。
林田は剛造の顔を見て、小声で言った。「田島さん、これは……」
「わかっとる」剛造は静かに言った。「美咲には、今は見せるな」
「はい」
林田は書類をファイルにしまった。
剛造は窓の外を見た。
冬の鎌倉。松の木が風に揺れている。
五郎。お前は知っていたのか。
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その書類には、こう書かれていた。
十五年前、御堂正一の指示のもと、ある人物の「口封じ」が行われた。
対象者の名前:桐島健二。
理由:プロジェクト・レガシーに関する機密情報を知り、外部への漏洩リスクがあると判断。
方法:交通事故に見せかけた工作。実行者:御堂正一の配下の人間。
備考:対象者の妻・桐島明子も同乗していたため、同時に処理。
書類の最後に、御堂正一のサインがあった。
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剛造は一人になったとき、その書類をもう一度読んだ。
読み終えて、静かに息を吐いた。
「……そういうことか」
美咲の父・桐島健二は、五郎からプロジェクトの一部を聞かされていた。
御堂正一はそれを知り、口封じをした。
美咲の両親は、事故で死んだのではなかった。
殺されたのだ。
御堂家によって。
剛造は書類を折りたたんだ。
これを美咲に伝えるべきか。
いや、今ではない。五郎の言葉通りだ。すべてが終わった後に伝えること。
それまでは、彼女の足を止めてはならない。
剛造は書類をコートの内ポケットにしまった。
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午後、三人で国会質問の準備を進めた。
中村誠から連絡が来ていた。質問の原稿が完成したという。
林田がデータを整理し、美咲が記事の最終稿を仕上げた。
剛造は全体を確認しながら、一つ一つ指示を出した。
「中村の質問は、この順番で行け。最初に数字で事実を積み上げて、最後に証拠を出す。感情は入れるな。数字だけで語れ」
「わかりました」と林田は言った。
「美咲の記事は、国会質問の二時間前に公開しろ。世論が動いてから、国会が動く。その順番を守れ」
「はい」と美咲は言った。
「それと」剛造は続けた。「橘総理に連絡しろ。質問の当日、総理は答弁に立つな」
林田は首をかしげた。「立たないんですか」
「御堂が総理を引きずり込もうとする。総理が答弁に立てば、御堂は話をすり替えて総理の責任にしようとする」
「じゃあ誰が答弁するんですか」
「担当大臣だ。御堂自身に答弁させる」
美咲は手帳に書きながら言った。「御堂自身に答えさせれば、逃げ場がなくなる」
「そうだ。自分の口で嘘をつかせる。嘘は必ず崩れる」
林田は深く頷いた。
「田島さん、一週間後でいいですか。データがあと少し足りない部分があって」
「一週間でいい。ただし一週間以上は待てん」
林田は剛造の顔を見た。「……田島さん、体は大丈夫ですか」
「問題ない」
「でも昨日、少し顔色が」
「問題ない」剛造は繰り返した。「やることが残っているうちは、倒れるわけにいかん」
林田は何も言えなかった。
美咲は手帳からペンを止めずに、しかし横目で剛造を見た。
昨日、一瞬だけ「誰だ」という顔をした、あの瞬間が頭から離れない。
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夕方、林田が帰った後。
剛造と美咲は、縁側で海を見ていた。
鎌倉の冬の海は、灰色だった。
しばらく無言だった。
「田島さん」と美咲は言った。
「なんだ」
「今日、林田さんが持ってきた書類の中に、何かありましたよね」
剛造は海を見たまま言った。「なぜそう思う」
「林田さんが渡したとき、田島さんの目が変わりました。一瞬だけ」
剛造は何も言わなかった。
「私に関係する話ですか」
「……今は言えん」
「また」
「今回だけは、時間をくれ」
美咲はしばらく剛造を見た。
「わかりました」
「信じてくれるか」
「信じています」美咲は言った。「田島さんが言えないことには、理由があると知っているから」
剛造は海を見続けた。
「……すまんな」
「謝らなくていいです」
「謝りたい」
美咲は少し笑った。「じゃあ受け取ります」
剛造は小さく息を吐いた。
海の音だけが続いた。
「田島さん」
「なんだ」
「田島さんと一緒に動いてきて、気づいたことがあります」
「なんだ」
「田島さんは、いつも人の痛みをわかってる。農家のおじいさんの話を聞くとき、林田さんが追い詰められたとき、黒岩さんが限界だって言ったとき。全部、ちゃんとわかってる」
剛造は何も言わなかった。
「それって、政治家としての能力じゃないと思うんです。人間としての力だと思う」
剛造はしばらく沈黙した。
「……五郎も、同じことを言っとった」
美咲は少し驚いた。「おじいちゃんが?」
「昔な。『田島さんは政治家として優秀だが、それより人間として優秀だ』と言った」
「おじいちゃんらしい言葉だ」
「俺はそのとき、どういう意味かわからんかった」剛造は言った。「しかし今はわかる」
「どういう意味だと思いますか」
「政治は技術だ。覚えれば誰でもできる。しかし人間の痛みを感じる力は、技術では身につかない。それを五郎は言いたかったんだろう」
美咲は手帳にそれを書いた。
「おじいちゃん、田島さんのことが好きだったんですね」
「どうだろうな」
「じゃなきゃ、こんな設計をしない」
剛造は小さく鼻を鳴らした。
「……そうかもしれんな」
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その夜。
剛造は一人で書類をもう一度読んだ。
御堂正一のサインがある、十五年前の書類。
桐島健二。桐島明子。処理。
その言葉が、剛造の頭に刻まれた。
怒りはあった。
しかしそれより大きなものが、胸の中にあった。
五郎。お前は娘夫婦を殺されて、それでもこのプロジェクトを続けたのか。
美咲一人を残して、それでも日本のためにやり続けたのか。
剛造は書類を折りたたんだ。
目が、かすかに光った。
「……お前は、本当に誠実な男だった」
剛造はコートのポケットに書類をしまい、窓の外を見た。
鎌倉の夜。遠くに海が光っている。
「御堂」剛造は静かにつぶやいた。「お前の父親がやったことを、俺はお前に伝える。それがお前への、最後の問いだ」
「引き返せるか。それだけだ」
夜の海が、静かに波を打ち続けていた。
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翌朝。
美咲が起きてくると、剛造はすでに机に向かっていた。
しかし今日は違った。
ノートに数字を書いているのではなく、便箋に何かを書いていた。
「田島さん、何を書いているんですか」
剛造はすぐに便箋を折りたたんだ。
「手紙だ」
「誰への」
「……まだ言えん」
美咲はため息をついた。「また」
「これだけは、時が来るまで待ってくれ」
美咲はコーヒーを淹れながら、剛造の背中を見た。
便箋は、三枚あった。
誰への手紙だろう。
その答えを、美咲はまだ知らない。
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