第17話 美咲の孤独
その日の夜。
黒岩の事務所から、別の場所へ移ることになった。
御堂の目が黒岩の周辺にも及んでいる。一か所に留まり続けるのは危険だった。
藤堂が手配した、鎌倉の古い別荘だ。
二人が荷物をまとめていると、美咲の荷物の中から、一冊のアルバムが落ちた。
床に落ちて、開いた。
写真が見えた。
若い夫婦と、小さな女の子。三人で笑っている、夏の写真だった。
「……すみません」美咲はすぐにアルバムを拾い上げた。
田島剛造はその写真を、一瞬だけ見た。
何も言わなかった。
しかし美咲が立ち上がったとき、剛造は静かに言った。
「ご両親か」
美咲は少し間を置いた。
「……はい」
「いつ亡くなった」
「私が十二歳のときです」
剛造は何も言わなかった。
美咲はアルバムをカバンにしまいながら、静かに続けた。
「交通事故でした。二人同時に。私は学校にいたので、無事で」
「……そうか」
「それからはおじいちゃんと二人でした」美咲は立ち上がり、窓の外を見た。「おじいちゃんが全部やってくれました。ご飯も、学校の手続きも、就職の相談も。文句一つ言わずに」
剛造はしばらく美咲の背中を見ていた。
「おじいちゃんが死んだとき」美咲は続けた。「本当に一人になったと思いました。家族が全員、いなくなった」
「……今も、そう思うか」
美咲は少し考えた。
「今は、少し違います」
「どう違う」
「田島さんと一緒に動いていると……一人じゃない気がするんです。うまく説明できないですけど」
剛造は何も言わなかった。
ただ、立ち上がりコートを羽織りながら、小さく言った。
「行くぞ」
「はい」
美咲はカバンを持った。
扉を開けながら、剛造は振り返らずに言った。
「……五郎は、いい祖父だったんだな」
美咲は少し驚いた。
「……はい。最高のおじいちゃんでした」
剛造は頷き、廊下へ出た。
美咲はその背中を見た。
この人の中に、おじいちゃんのかけらがある。
だから、一人じゃない気がするのかもしれない。
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鎌倉の別荘は、藤堂の屋敷から歩いて十分ほどの場所にあった。
古い木造の家だ。手入れはされているが、長く人が住んでいない匂いがする。
二人で荷物を置き、剛造はすぐに机に向かった。
美咲はキッチンで湯を沸かしながら、アルバムのことを考えていた。
両親が死んで、十五年が経つ。
悲しみは、今は静かになっていた。ただ、時々こうして写真を見ると、胸の奥の何かが疼く。
「美咲」
剛造が呼んだ。
「なんですか」
「一つ聞いていいか」
美咲は湯飲みを持って、剛造の隣に座った。
「はい」
「ご両親の事故は……どんな状況だったか、覚えているか」
美咲は少し眉をひそめた。「突然、なんですか」
「ただ聞いておきたかった」
美咲はしばらく考えた。
「夜の事故でした。父が車を運転していて、トラックに正面衝突した。即死だったと聞きました。母も同じ車に乗っていて……」
「どこでの事故だ」
「新潟から東京へ向かう途中の、長野の山道でした」
「なぜ夜中に、山道を」
美咲は首をかしげた。「急いでいたんじゃないかと。詳しいことは……警察の話では、居眠り運転のトラックが原因だったって」
「トラックの運転手は」
「逃げていました。ひき逃げです。結局捕まらなかったと」
剛造は黙っていた。
美咲は剛造の横顔を見た。
「田島さん、何か気になることがあるんですか」
「……いや」
「嘘をつくのが下手ですよ、田島さん」
剛造は少し間を置いた。
「今は言えん」
「また」
「時が来たら話す」
美咲はため息をついた。「その言葉、本当に何回聞いたかわからない」
「大事な言葉だ」
「……わかりました。待ちます」
美咲は湯飲みを両手で包んだ。
部屋に、沈黙が続いた。
やがて美咲が言った。
「田島さん」
「なんだ」
「聞いてもいいですか」
「なんだ」
「田島さんは……家族がいましたか。昭和に」
剛造は少し間を置いた。
「妻がいた。娘が二人いた」
「今は」
「妻は俺が逮捕されたあと、病気で死んだ。娘たちは……それぞれの人生を生きた。今頃はもう、この世にいないだろう」
美咲は静かに聞いていた。
「寂しくないですか」
「寂しいとかじゃない」剛造は言った。「俺がいなかった分、あいつらには申し訳ないと思っとる。国のことばかりで、家族を顧みなかった」
「後悔してますか」
「後悔はしていない。ただ……感謝が、言えなかった」
「言えなかった感謝」
「妻が死ぬとき、俺は裁判所にいた。会えなかった」
美咲は目を伏せた。
「……田島さん」
「なんだ」
「私のおじいちゃんは、田島さんのことをどう思っていたと思いますか」
剛造はしばらく考えた。
「さあな」
「私は、尊敬していたと思います。でも」美咲は顔を上げた。「同時に、心配していたと思う。田島さんが一人で全部抱えることを」
「……そうかもしれん」
「だから私に役目を与えたのかな。田島さんの傍にいるように、って」
剛造は美咲を見た。
「そうかもしれんな」
「おじいちゃんらしい」美咲は小さく笑った。「直接言わないで、設計に組み込む」
「科学者だからな」
「田島さんは、直接言うタイプですよね」
「そうか」
「はい。いつも、真正面から来る」
「それしかできん」
美咲は笑った。
剛造も、小さく口の端を曲げた。
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夜が深くなった。
剛造が眠りについた後、美咲は一人でアルバムを開いた。
両親の写真。
十二歳の美咲が知っている両親の顔は、このアルバムの中にしかない。
お父さん、お母さん。
私、ちゃんとやってます。
おじいちゃんが設計してくれた仕事を、やってます。
美咲は写真をそっと指でなぞった。
その時、ふと思った。
なぜお父さんとお母さんは、夜中に山道を走っていたんだろう。
急いでいた、というのは……何を急いでいたんだろう。
美咲はアルバムを閉じた。
その疑問を、手帳の端に小さく書いた。
「両親の事故——なぜ夜中の山道を? 急いでいた理由は?」
美咲はペンを置き、天井を見た。
令和の夜が、静かに続いていた。
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その夜、都内のある場所で。
須藤隆三は、古い書類を読んでいた。
十五年前の事故調査報告書。
須藤は静かにため息をついた。
「五郎さん……あなたは、美咲さんにこの真実を知らせるつもりでいましたか」
書類の最後に、一行だけ手書きのメモがあった。
五郎の字だった。
「美咲には、すべてが終わった後に伝えること。それまでは、彼女の足を止めてはならない」
須藤は書類を閉じた。
「……わかりました、五郎さん」
窓の外に、冬の星が見えた。
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