第16話 記事、公開
その日の正午。
桐島美咲は、パソコンの前に座っていた。
黒岩の事務所の一室を借りて、朝から書き続けた記事が、ようやく完成した。
タイトルはこうだった。
「日本の通信インフラが、外資に売られようとしている――その先に何が起きるか」
美咲は最後にもう一度、全文を読んだ。
数字がある。具体的な企業名がある。売却の仕組みがある。そして、それが国民の生活にどう影響するかが、平易な言葉で書いてある。
難しいことを、簡単に。
それが、美咲の書き方だった。
おじいちゃんから受け継いだ、唯一のものかもしれない。
「できましたか」
剛造が背後から声をかけた。
「できました」美咲は言った。「読みますか」
「ああ」
剛造はモニターを見た。
五分、読み続けた。
「……いい記事だ」
「本当に?」
「お世辞は言わん」
美咲は少し笑った。「じゃあ、出します」
「ああ。出せ」
美咲は投稿ボタンを押した。
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記事が公開されたのは、正午過ぎだった。
最初の一時間、反応は静かだった。
しかし午後二時を過ぎたあたりから、SNSが動き始めた。
「これ本当なのか」
「基地局が外資に買われたら、有事のときどうなる」
「なんでこんな話がニュースになってないんだ」
「この記者、前も拡散した人だ。信頼できる」
午後三時。シェア数が五万を超えた。
午後四時。テレビのニュース番組が取り上げ始めた。
午後五時。国会議員の複数が、SNSでコメントを出し始めた。
美咲はスマホの画面を見て、剛造に見せた。
「田島さん、見てください」
剛造はスマホを受け取り、数字を確認した。
「五万か」
「一時間でここまで来るのは異例です」
「内容が本物だからだ」
「これ、テレビも取り上げ始めました。夜のニュースでも出るかもしれない」
剛造はスマホをテーブルに置いた。「御堂が動くのは、今夜だ」
「どんな動きをしますか」
「記事の否定。美咲への圧力。そして」剛造は言った。「橘総理への揺さぶりだ」
「総理への揺さぶり?」
「橘が通信インフラを一時停止した。御堂はそれを、党内で問題にしようとするはずだ。『総理が独断で動いた』という形で」
「党内を使って総理を孤立させる、ということですか」
「そうだ。御堂のやり方だ。正面からではなく、周囲を崩して孤立させる」
美咲は手帳に書いた。「どう対処するんですか」
「橘に連絡する。今夜中に、もう一手打ってもらう」
「どんな一手ですか」
剛造はコートを羽織った。「橘が自分の口で、国民に話す」
「記者会見ですか」
「官邸からの発表でいい。通信インフラを一時停止した理由を、国民に直接説明してもらう。御堂が党内で動く前に、国民世論を味方につける」
美咲は目を丸くした。「それ、橘総理が動いてくれますか」
「動く」剛造は言った。「今朝の目が、そう言っていた」
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夕方、剛造は藤堂に電話した。
「橘に伝えてくれ。今夜、官邸から国民向けの発表をしてほしい。通信インフラの件だ」
藤堂はしばらく沈黙した。
「……先生、それは橘総理にとって大きなリスクです。御堂との全面対立になる」
「わかっとる。だが御堂が党内を動かす前に、橘が国民の前に出れば、御堂は動けなくなる。国民世論が盾になる」
「なるほど……」
「橘は動けるか」
「伝えてみます。ただ先生、一つだけ」
「なんだ」
「橘総理は、あなたのことを信じています。今朝の会談で、そう感じました。しかし同時に、あなたが言った『消える』という言葉を、ずっと気にしています」
剛造は少し間を置いた。
「……そうか」
「先生の時間が限られているなら、橘に話しておいた方がいいかもしれません。全部ではなくても」
「それは今夜考える」
「わかりました。橘に連絡します」
電話を切り、剛造は窓の外を見た。
夕暮れの東京。
「田島さん」美咲が言った。「橘総理に、自分の秘密を話しますか」
「一部はな」
「怖くないですか」
「政治家に秘密を話すのは、常に賭けだ」剛造は言った。「しかし賭けなければ、動かない」
「橘総理は信頼できますか」
「今朝の目は、本物だった」剛造は言った。「目を見れば、人間はわかる」
美咲はその言葉を手帳に書いた。
「田島さん、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「御堂の出生の秘密、御堂本人は知っているんですか」
剛造は少し考えた。
「……おそらく知っている」
「なんでそう思うんですか」
「御堂が俺の名前に反応した目を、覚えているか」
「はい。確認するような目でした」
「あれは、転写された人間の名前を聞いたときの目だ。自分が転写の器として育てられたことを知っている人間の目だ」
美咲は息をのんだ。
「御堂は……ずっと知っていたんだ」
「そうだ」
「だから不死化にこだわる」
「自分を器として育てた父親と同じことを、自分でもやろうとしている」剛造は言った。「悲しい話だ」
美咲はしばらく黙っていた。
「田島さん、御堂に会ったら、その話をしますか」
「……する」
「なんで」
「最後にもう一度だけ、引き返せる機会を与えたい」
「それが、政治家としての流儀ですか」
「人間としての流儀だ」
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夜八時。
橘総理の官邸からの発表が出た。
「通信インフラに関する外資への売却案件について、国家安全保障上の観点から精査が必要と判断し、一時停止を命じました。国民の皆様に、詳細は追って説明いたします」
たった三行だった。
しかしSNSが、また動いた。
「総理が動いた」
「御堂幹事長の案件に、総理が待ったをかけた?」
「これ、内閣が割れてるんじゃないか」
「橘総理、やるじゃないか」
美咲はその反応を見て、剛造に見せた。
「田島さん、総理が動きました」
「ああ」
「これで御堂は党内を動かしにくくなりましたね」
「しばらくはな。しかし御堂はまだ諦めない」
「次にどう動きますか」
「美咲の記事と総理の発表に対して、正面から否定するか、別の問題を起こして目を逸らすか」剛造は言った。「どちらにしても、動くのは明日以降だ。今夜は少し休め」
「休んで大丈夫ですか」
「動き続けるためには、休むことも必要だ」
美咲は少し笑った。「田島さんが休もうと言うのは珍しい」
「俺も疲れとる」
「え、そんなこと言うんですか」
「言ったらいかんか」
「いや、なんか……人間らしい」
「人間だ」
美咲は笑った。
剛造も、小さく笑った。
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その夜、御堂慎一郎は側近の報告を受けた。
「美咲の記事が拡散し、橘総理が発表を出しました」
御堂は黙っていた。
「党内への根回しを始めますか」
「……する必要がなくなった」
側近は首をかしげた。「どういう意味ですか」
「橘が国民向けに発表した。これを党内問題にすれば、国民から見て御堂側が悪者になる」御堂は静かに言った。「政治的な手は、しばらく使えない」
「では」
「別の手を使う」
側近は息をのんだ。「身柄確保、ですか」
「ああ」御堂は言った。「政治で動けないなら、政治以外で動く。田島の体内データを確保すれば、すべてが変わる」
「しかし昨夜は逃げられました」
「黒岩のところにいる。直接は動けない」御堂は少し間を置いた。「田島は必ず、黒岩の外に出る。その瞬間を待つ」
「いつ出ると思いますか」
「一週間後だ」
側近は首をかしげた。「なぜ一週間後と」
御堂は静かに言った。
「田島は一週間後に、国会で動こうとしている。中村誠を使った質問だ。そのために、必ず永田町に出てくる」
「……読んでいたんですか」
「田島剛造のやり方は、研究し尽くしている」御堂は言った。「問題は、その先だ」
「その先、とは」
御堂は窓の外を見た。
「田島が国会で動く前に、こちらが動けるか。それだけだ」
御堂の目に、静かな炎が宿った。
「一週間で、決着をつける」
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その夜、黒岩の事務所で。
剛造は一人、電気を消した部屋に座っていた。
月の光だけが、窓から差し込んでいる。
剛造は自分の手を見た。
傷が消えた掌。普通より速く治る体。
俺はあと、どれくらい持つ。
須藤の言葉が頭をよぎった。
最短で四ヶ月。最長で二年。
起動から、すでに二ヶ月が過ぎた。
残り、最短で二ヶ月。
「……足りるか」
剛造はつぶやいた。
御堂を国会で追い詰める。通信インフラを守る。若手議員を育てる。そして美咲に、残りの道筋を伝える。
やることは、まだある。
「足りんかもしれんな」
剛造は目を閉じた。
しかし次の瞬間、目を開けた。
前を向いた。
「やるしかない。それだけだ」
月の光が、昭和の怪物を静かに照らしていた。
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