第15話 逃げない男
黒岩から電話が来たのは、夜の十時だった。
「先生、今すぐ動いてください」
田島剛造は電話を耳に当てたまま、美咲に目で合図した。美咲はすぐにコートを取った。
「何があった」
「御堂が人を動かしました。先生の身柄を確保しようとしています。今夜中に動く気です」
「場所は特定されとるか」
「中野のアパートは知られています。今すぐ出てください」
「わかった」
電話を切り、剛造は立ち上がった。
美咲はすでにカバンを持っていた。「聞こえました。行きますか」
「ああ」
「どこへ」
「黒岩のところだ。あそこなら御堂の手は届かん」
二人はアパートを出た。
エレベーターを使わず、階段を降りた。
一階の扉を開ける前に、剛造が美咲の腕を止めた。
「待て」
「何ですか」
剛造は扉の隙間から、外を見た。
マンションの前に、車が一台停まっていた。エンジンがかかっている。人影が中にいる。
「裏口はあるか」
「駐輪場の奥に、非常口があります」
「そっちから出る」
二人は静かに非常口へ向かった。
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黒岩の事務所に着いたのは、夜の十一時過ぎだった。
黒岩は待っていた。
「先生、無事で」
「ああ。情報の速さに助けられた」
「御堂の動きは、うちの人間が把握しています。今夜、中野に五人送り込んでいました」
「五人か」剛造は言った。「本気だな」
「そうです。ただし」黒岩は少し間を置いた。「先生、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「先生の身柄を確保して、御堂は何をしようとしているんですか。政治的に潰すだけなら、こんな手を使う必要はない。もっとスマートな方法がある」
剛造はしばらく黙った。
美咲が代わりに言った。「御堂は、田島さんの体内にあるデータを抽出しようとしています」
黒岩の目が、細くなった。
「……どういうことですか」
美咲は簡単に説明した。プロジェクト・レガシー。転写。残留データ。御堂の不死化計画。
黒岩はすべてを聞き、しばらく沈黙した。
「……先生の体の中に、そんなものが」
「ああ」剛造は言った。「俺もまだ、自分のことがよくわかっとらん」
「先生は、怖くないんですか」
剛造は少し間を置いた。
「怖い」
黒岩は目を閉じた。
「……そうですか」黒岩はやがて言った。「ならば私が守ります。先生が怖いと言うなら、私が怖くない代わりをします」
「黒岩」
「先生に何かあってからでは遅い。今夜は私のところにいてください」
剛造はしばらく黒岩を見た。
「……世話になる」
「当たり前です」
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その夜、黒岩の事務所の一室に、剛造と美咲は泊まった。
質素な部屋だった。布団が二組、用意されていた。
美咲は布団の上に座り、手帳を開いていた。
「田島さん」
「なんだ」
「御堂が本格的に動いてきた。これからどうするんですか」
剛造は壁にもたれて座っていた。
「逃げない」
「でも、今夜も追われていた」
「逃げることと、動き続けることは別だ」剛造は言った。「逃げるのは、やめること。動き続けるのは、戦うことだ」
「どう違うんですか」
「逃げる人間は後ろを向く。動き続ける人間は前を向く。俺は前を向いとる」
美咲はその言葉を手帳に書いた。
「田島さん、手紙の残りを話してもらえますか。五郎の手紙の、まだ話していない部分」
剛造はしばらく黙った。
「……今夜話す」
美咲は顔を上げた。「本当に?」
「お前には話しておかないといかん。時間がなくなってきた」
美咲は手帳を閉じた。
「聞きます」
剛造は少し間を置いた。
「五郎の手紙には、三つのことが書いてあった」
「三つ」
「一つ目は、美咲についてだ。さっき話した。お前は道具じゃなく、一緒に未来を見るために生まれた、という部分だ」
「はい」
「二つ目は、御堂についてだ」
美咲は少し身を乗り出した。「御堂についてのことが書いてあったんですか」
「ああ」剛造は言った。「五郎は御堂の父・御堂正一とプロジェクトで関わった。その時に知った、御堂家の秘密が書いてあった」
「どんな秘密ですか」
剛造はしばらく間を置いた。
「御堂慎一郎は……御堂正一の本当の息子ではない」
美咲は息をのんだ。
「どういうことですか」
「御堂正一には後継ぎがいなかった。だから自分の意識を転写するための肉体として、孤児院から引き取った子供を育てた。それが慎一郎だ」
美咲は目を丸くした。「慎一郎は……最初から転写の器として育てられたんですか」
「そうだ」剛造は静かに言った。「御堂慎一郎は、自分が転写の器として生まれてきたことを、どこかで知っている。だから彼は自分でも転写を実行しようとしている。自分の意識を、新しい器に移して、永遠に生き続けようとしている」
「……かわいそうだ」
剛造は美咲を見た。
「そう思うか」
「だって、最初から自分の人生じゃなかったんですよね。器として育てられた。それで御堂になった。そりゃ、普通じゃなくなる」
「俺も同じことを思った」剛造は言った。「御堂は悪人だ。だが、悪人になった理由がある」
「だから『まだ引き返せる』と言ったんですか。最初に会ったとき」
「ああ」
美咲はしばらく沈黙した。
「三つ目は何ですか」
剛造は少し間を置いた。
「三つ目は、俺へのメッセージだ」
「どんな」
剛造は窓の外を見た。
「『田島さん、あなたに謝らなければならないことがあります。同意なく転写したことだけではない。もう一つ、あなたに隠していたことがあります』と書いてあった」
「隠していたこと?」
「『あなたの意識を転写した肉体は、私が用意しました。しかしその肉体には、私の意識のかけらも入っています。つまりあなたは今、私のかけらを一緒に持って生きています。それがあなたの記憶を時折、乱すことがあるかもしれない。本当に申し訳ない』」
美咲は目を細めた。
「桐島博士の……かけら」
「ああ」
「じゃあ田島さんの中に、おじいちゃんが」
「少しだけな」
美咲は口を開けたまま、しばらく言葉が出なかった。
やがて、静かに言った。
「……だから田島さんは、私のことを最初から気にかけてくれたのかな」
「それは俺の意志だ」剛造は言った。「五郎のかけらのせいじゃない」
美咲は目の奥が熱くなるのを感じた。
「田島さん」
「なんだ」
「おじいちゃんに、会いたい」
「そうか」
「おじいちゃんに、直接、ありがとうって言いたい」
剛造はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「少しなら、聞こえるかもしれんぞ」
美咲は剛造を見た。「え」
「俺の中に、五郎のかけらがある。お前が俺に話しかければ、あいつにも届くかもしれん。そういうものかどうかはわからんが」
美咲はしばらく剛造の顔を見た。
それから、剛造に向かって言った。
「おじいちゃん」
「……」
「私、ちゃんとやってます。田島さんと一緒に、ちゃんと動いてます」
剛造は何も言わなかった。
ただ、その目が、かすかに揺れた。
「おじいちゃんが選んでくれた仕事を、最後までやります。だから、見ていてください」
部屋に、静寂が続いた。
剛造はしばらく窓の外を見ていた。
それから、美咲を見た。
「五郎が笑っとる気がする」
美咲は笑った。涙が一筋、頬を流れた。
「そうですか」
「ああ」
「よかった」
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翌朝。
黒岩の事務所で朝を迎えた剛造は、テーブルに向かって一枚の紙を書いていた。
美咲が起きてきたとき、剛造は紙を折りたたんだ。
「何を書いていたんですか」
「次の手だ」
「どんな手ですか」
「御堂を国会で追い詰める最終段階だ」
「中村さんを使うんですか」
「ああ。林田が集めているデータが揃えば、国会質問ができる。そこに美咲の記事を合わせる。メディアと国会を同時に動かす」
「同時に動かすのは、難しくないですか」
「難しい」剛造は言った。「だからこそ、御堂の想定外になる」
美咲は手帳を取り出した。
「タイミングはいつですか」
「一週間後だ」
「一週間」
「それまでに、全部揃える」剛造は立ち上がった。「美咲、お前に頼みたいことがある」
「なんですか」
「通信インフラの記事を、今日中に完成させろ。橘が動いた今が、出すタイミングだ。世論を先に動かす」
「わかりました」美咲はパソコンを開いた。
「それと」剛造は言った。「一つだけ聞いていいか」
「なんですか」
「怖いか」
美咲は少し考えた。
「怖いです」
「そうか」
「でも」美咲はパソコンの画面を見た。「田島さんが言ったんですよ。前を向いている人間は、動き続けている人間だって。私も前を向きます」
剛造はしばらく美咲を見た。
「……よく覚えとるな」
「全部手帳に書いてますから」
剛造は小さく、口の端を曲げた。
「骨がある」
美咲はキーボードを叩き始めた。
令和の朝が、静かに動き始めていた。
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