第14話 総理への道
翌朝。
藤堂義雄から電話が来たのは、朝八時だった。
「先生、橘総理への接触を試みました」
田島剛造は電話を耳に当てながら、美咲にメモを取るよう目で示した。美咲はすぐに手帳を開いた。
「結果は」
「……官邸の秘書官から、断られました」
「御堂が手を回したか」
「おそらく。ただし」藤堂は少し間を置いた。「一つ、抜け道があります」
「言え」
「橘総理は、毎週木曜日の朝、赤坂の料亭で朝食をとります。随行は最小限。公式な予定ではないため、御堂の目も届きにくい」
「今日は何曜日だ」
美咲がすかさず言った。「木曜日です」
剛造は時計を見た。午前八時十五分。
「料亭はどこだ」
「赤坂の『山乃』です。朝七時から八時半が多い」
「間に合うか」
「今から向かえば、ギリギリ。ただし先生、一つだけお願いがあります」
「なんだ」
「今日だけは……私も連れて行ってください」
剛造は少し間を置いた。
「体は動くか」
「杖があれば大丈夫です。先生が橘に会うとき、私の顔を見れば、あの子は無視できません」
「わかった。今すぐ来い」
電話を切り、剛造はコートを羽織った。
美咲はすでに準備を始めていた。
「田島さん、本当に今から行くんですか」
「ああ」
「橘総理が来ているとは限らないですよ」
「来ていなければ、また手を考える」
「来ていたとして、話を聞いてもらえるとは限らない」
「聞かせる」
美咲はため息をついた。「田島さんって、なんでそんなに自信があるんですか」
「自信じゃない」剛造は言った。「やるしかないから、やる。それだけだ」
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赤坂の料亭「山乃」は、古い路地の奥にあった。
表に看板はない。知る人ぞ知る店だ。
剛造、美咲、そして藤堂の三人が路地の入り口に着いたのは、午前八時四十分だった。
「間に合ったか」と剛造は言った。
藤堂が料亭の引き戸をそっと見た。履物が並んでいる。
「……いるようです」
「何人いる」
「随行が二人。秘書官が一人。総理本人」
「四人か」
「先生、無理に入れば騒ぎになります」
「騒ぎにならないように入る」
「どうやって」
剛造は藤堂を見た。「お前が先に入れ」
「私が?」
「お前の顔なら、女将が通す。昔から通っとる店だろう」
藤堂はしばらく考えた。「……確かに。女将の田鶴子さんとは昔なじみです」
「頼む」
藤堂は杖をつきながら、引き戸へ歩いた。
美咲は剛造の隣で小声で言った。「うまくいくと思いますか」
「藤堂を信じろ」
二分後、引き戸が静かに開いた。
藤堂が手招きした。
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通された部屋は、小さな個室だった。
床の間に掛け軸。窓から中庭が見える。
橘哲也は、一人で朝食をとっていた。
六十代、がっしりした体格。温和な顔だが、目は鋭い。藤堂の顔を見て、次に剛造の顔を見た。
その目が、わずかに動いた。
「藤堂先生」橘は言った。「突然、どうされましたか」
「総理、少しだけお時間をいただけますか」藤堂は言った。「この方を、紹介したかった」
橘は剛造を見た。値踏みをする目ではなかった。ただ、何かを確認するような目だった。
「どちら様ですか」
「田島と申します」剛造は言った。「昔の政治家です」
橘はしばらく剛造を見た。
「……田島、剛造さんですか」
部屋の空気が、かすかに変わった。
美咲は息をのんだ。
橘は剛造を知っている。それだけではない。まるで、会うことを予期していたような反応だった。
「なぜ俺を知っとる」と剛造は言った。
「父から、よく話を聞きました」橘は静かに言った。「田島剛造という政治家は、日本で一番国民のことを考えていた人だと。ただ……田島先生はとっくに」
「死んだ。だが戻ってきた」
橘はしばらく沈黙した。
それから、箸を置いた。
「……座ってください」
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橘が随行と秘書官を部屋の外に出した。
四人だけになった。
剛造、美咲、藤堂、そして橘。
「何の用件ですか」橘は言った。声が、少し低くなっていた。
「御堂慎一郎のことを話したい」
橘の目が、細くなった。
「御堂幹事長の、何を」
「通信インフラの外資売却を止めてほしい。今日中に」
橘はしばらく剛造を見た。
「……それは難しい。正規の手続きを経て進んでいる案件です。私が止めるには」
「難しいのはわかっとる」剛造は言った。「だが、これを見てくれ」
剛造はコートのポケットから、薄い封筒を取り出した。
林田から受け取ったUSBのデータを、要点だけ紙に印刷したものだ。
橘は受け取り、読んだ。
一枚目。二枚目。三枚目。
読むにつれ、橘の顔色が変わっていった。
「……これは」
「御堂の資金の流れだ。アーク・キャピタルとの直接口座。通信インフラの売却益の一部が、御堂個人の口座に流れていく仕組みだ」
「どこからこれを」
「財務省の人間が持ってきた。命をかけて」
橘はしばらく紙を見ていた。
「総理」と剛造は言った。「あなたは御堂を信頼していますか」
橘は答えなかった。
「信頼しているなら、俺の話を信じなくていい。ただ一つだけ聞く。この国の水と土と空気を、外資に売っていいと思いますか」
橘は顔を上げた。
「思いません」
「なら動いてください」
橘はしばらく剛造を見た。
その目に、様々なものが渦巻いていた。
政治家としての計算。総理としての責任。そして――
「田島先生」橘は言った。「あなたは本当に、田島剛造なんですか」
「そうだ」
「なぜ令和に」
「それは長い話だ。今は関係ない。関係あるのは、この国をどうするかだ」
橘はしばらく沈黙した。
部屋に、中庭の風の音だけが聞こえた。
「……わかりました」橘はやがて言った。「今日、確認します。通信インフラの件は、一時停止を命じます」
「一時停止だけでは」
「今日のところは、それが限界です」橘は言った。「ただし。この資料を精査して、事実であれば……御堂の件も、考えます」
剛造は橘を見た。
その目に、嘘はなかった。
「ありがとうございます」
「礼はまだいい」橘は言った。「田島先生、一つだけ聞かせてください」
「なんだ」
「あなたは、これからどうするつもりですか」
剛造は少し間を置いた。
「やることをやって、消える」
橘は息をのんだ。
「消える、とは」
「長い話だ。今は聞かなくていい」
橘はしばらく剛造を見た。
それから、静かに頷いた。
「……わかりました。また連絡します」
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料亭を出ると、冬の朝日が差していた。
三人は路地に立ち、しばらく無言だった。
藤堂が先に言った。「……うまくいきましたね、先生」
「まだわからん」剛造は言った。「橘が動くかどうかは、御堂との力関係による」
「でも手応えはありましたよね」と美咲は言った。
「ああ。あの男は本物だ」
「どんなところが」
「俺が御堂の話をしたとき、驚かなかった。驚かないということは、ある程度知っていたということだ。知っていながら動けなかった。今日、動く理由ができた」
藤堂が言った。「橘総理は、御堂を恐れていた部分がありました。あの男の人脈と情報収集能力は、総理でも無視できない」
「しかし今日、天秤が動いた」剛造は言った。「御堂への恐れより、国への責任の方が重くなった。そういう目をしていた」
美咲は手帳を取り出した。「田島さん、これ記事にしていいですか」
「まだ駄目だ」
「やっぱり」
「橘が動いてから書け。動く前に書いたら、御堂に潰される」
「わかりました」
藤堂が剛造を見た。「先生、一つだけ」
「なんだ」
「先生が『消える』と言ったとき、橘総理の顔が変わりました」
「ああ」
「……先生の時間は、どれくらい残っていますか」
剛造はしばらく黙った。
「わからん」
「わからない、とは」
「須藤に聞いたが、正確にはわからんと言っていた」剛造は言った。「ただ」
「ただ?」
剛造は冬の空を見上げた。
「やることが終わるまでは、消えるわけにいかん」
藤堂は目を閉じた。
「……先生」
「泣くな」
「泣いていません」
「目が光っとる」
藤堂は袖で目を拭った。
美咲は二人のやりとりを見ながら、手帳に何かを書いた。
それから、空を見上げた。
おじいちゃん、あなたが設計したことが、動いています。
田島さんが、動かしています。
だから私も、動き続けます。
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その日の午後。
御堂慎一郎は、官邸からの電話を受けた。
「通信インフラの件、一時停止の命令が出ました」
御堂の目が、細くなった。
「……橘が動いたか」
「はい。今朝、赤坂の料亭で田島と会っていたようです」
御堂はしばらく沈黙した。
「田島が、表に出た」
「はい」
御堂は窓の外を見た。
「……やられた」
その声は、静かだった。怒りではなかった。
「三十年研究して、まだ読めないことがある」御堂はつぶやいた。「田島剛造という男は」
御堂は引き出しを開けた。
「Project Legacy」の封筒。
「転写実行プロトコル」の書類。
「急ぐ必要がある」御堂は静かに言った。「政治で負けても、別の手がある」
御堂は電話を取り、番号を押した。
相手が出ると、静かに言った。
「準備を始めろ。田島剛造の身柄を、確保する」
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