第13話 迫る影
その日の夕方。
桐島美咲は、スーパーで夕飯の食材を買って帰ってきた。
中野のアパートまで、駅から徒歩七分。いつも通りの道だ。
しかし、マンションの入り口前に、男が立っていた。
四十代。地味なスーツ。目が鋭い。
美咲を見ると、男は静かに言った。
「桐島美咲さんですか」
「……そうですが」
「少し、よろしいですか」
美咲は男を見た。
警察ではない。記者でもない。何者だ。
「どちら様ですか」
「御堂幹事長の秘書をしております、岸本と申します」
美咲の体が、わずかに固まった。
しかし表情は変えなかった。
「御堂幹事長の秘書さんが、なぜここへ」
「少しお話を。中に入れていただけますか」
「外でいいです」美咲は言った。「何のご用件ですか」
岸本は少し間を置いた。
「美咲さん、田島剛造という人物と行動を共にしていますね」
「取材をしています」
「取材」岸本は静かに繰り返した。「その取材が、少々危険な方向に向かっているように見えます」
「危険、とは」
「田島という人物は、素性が不明です。財源も不明。何者かもわからない。そういう人物と行動を共にすることは、記者として、またあなた個人としてもリスクがある」
美咲は岸本を真っ直ぐ見た。
「それは私が判断することです」
「もちろん」岸本は頷いた。「ただ、幹事長は美咲さんのことを心配されています。桐島五郎博士の孫娘として、あなたには安全でいてほしいと」
美咲の目が、細くなった。
「御堂幹事長が、おじいちゃんの名前を」
「博士とは昔から知り合いでしたので」
「……そうですか」
「美咲さん」岸本は声を落とした。「田島という人物から、距離を置くことをお勧めします。それだけです」
美咲はしばらく岸本を見た。
「ご忠告、ありがとうございます」
美咲は踵を返し、マンションに入った。
エレベーターのボタンを押しながら、気づいた。
手が、震えている。
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アパートのドアを開けると、剛造が机に向かっていた。
「遅かったな」
「少し、用事がありまして」美咲は買い物袋をキッチンに置いた。「田島さん、御堂の秘書が来ました」
剛造の手が、止まった。
「岸本か」
「知ってるんですか」
「御堂の右腕だ。昭和から御堂家に仕えている」
美咲は剛造の隣に座った。「私に、あなたから距離を置けと言いました。おじいちゃんの名前も出して」
剛造は美咲を見た。
「怖かったか」
「……少し」
「正直だな」
「嘘をついても仕方ないので」美咲は言った。「田島さん、これは警告ですよね。次は、もっと直接的な圧力が来る」
「そうだ」
「どうしますか」
「お前はどうしたい」
美咲は少し考えた。
「続けます」
「理由は」
「おじいちゃんが設計したプロジェクトだから、というのもあります。でもそれだけじゃない」美咲は剛造を見た。「田島さんと一緒に動いていると、本当に日本が変わる気がする。それが理由です」
剛造はしばらく美咲を見た。
「わかった」
「田島さんは」
「俺は最初から続ける」
「怖くないんですか、御堂が本気で動いてきたら」
剛造は少し間を置いた。
「怖い」
美咲は少し笑った。「正直な人だ」
「お前に言われたくない」
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その夜、剛造は藤堂に電話した。
「総務省の件、動けるか」
藤堂の声が返ってきた。「実は先ほど、総務省の旧知から連絡がありました。御堂の圧力が来ているようです」
「間に合うか」
「……正直、厳しいです。御堂は三十年かけて霞が関に人脈を作っている。私の旧知だけでは」
剛造は黙った。
「ただ」藤堂は続けた。「一人だけ、動いてくれるかもしれない人間がいます」
「誰だ」
「現在の総務大臣です。橘総理の信頼が厚い。御堂の派閥とは距離を置いている」
「総務大臣に、直接話せるか」
「明日、試みます。ただし田島さん、一つお願いがあります」
「なんだ」
「総務大臣は、田島さんのことを知りたいと言うでしょう。あなたが何者か、ある程度話す必要があります」
剛造はしばらく黙った。
「……わかった。その時は話す」
電話を切り、剛造は窓の外を見た。
夜の中野。
美咲がコーヒーを持ってきた。
「藤堂さんとの話、聞こえました」美咲は言った。「総務大臣に話すということは、身元を明かすということですよね」
「ある程度はな」
「大丈夫ですか。信じてもらえると思いますか」
「信じてもらえるかどうかより」剛造は言った。「動いてもらえるかどうかだ」
「どう違うんですか」
「信じることと動くことは別だ。政治家は信じていなくても、利があれば動く」
美咲はそれを手帳に書いた。
「田島さん、一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「御堂は田島さんの政治スタイルを三十年研究したと言いましたよね。でも田島さんも、御堂を研究していますか」
剛造は少し考えた。
「研究というより、読んでいる」
「どう読んでいますか」
「御堂は賢い。だが一つだけ弱点がある」
「どんな弱点ですか」
「賢すぎることだ」剛造は言った。「賢い人間は、想定外を嫌う。計算通りに動こうとする。だから計算の外から動けば、必ず隙ができる」
「計算の外、とは」
「今まで俺がやってきたことは、全部御堂の想定内だったと思う。昨夜の先手も、ある程度は読まれていた」
「じゃあ、想定外の一手とは」
剛造は美咲を見た。
「それを考えている」
「いつ動くんですか」
「時が来たらな」
美咲はため息をついた。「また。その言葉、何回聞いたかわからない」
「大事な言葉だ」
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翌朝。
美咲がパソコンで記事の最終確認をしていると、スマホに通知が来た。
ニュースアプリからだ。
【速報】財務省主計局・林田誠司氏、依願退職
美咲は息をのんだ。
「田島さん」
剛造はすでに画面を見ていた。
「……林田が切られたか」
「依願退職って書いてあるけど、実質的には」
「追い出されたんだろう」
美咲は唇を噛んだ。
「林田さん、大丈夫ですか」
「連絡しろ。今どこにいるか確認する」
美咲はすぐに鈴木に連絡した。三分後、返信が来た。
「林田さんから連絡がありました。今は自宅にいます。ただ……かなり憔悴しているようです」
美咲は剛造を見た。
「会いに行きますか」
「ああ」剛造は立ち上がった。「林田は勇気を持って動いた。それを無駄にするわけにはいかん」
「でも、御堂の目がこちらを監視しているなら、林田に会いに行くのは」
「リスクがあるのはわかっとる」剛造は言った。「それでも行く。見捨てたら、次に動く人間がいなくなる」
美咲はコートを羽織った。
「行きます」
「お前も来るか」
「当たり前です」
剛造は小さく、口の端を曲げた。
「骨がある」
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林田誠司の自宅は、世田谷の静かな住宅街にあった。
インターホンを押すと、しばらくして林田が出てきた。
昨日会ったときより、顔色が悪かった。目が落ち窪んでいる。
「田島さん……来てくれたんですか」
「当たり前だ。上がっていいか」
「はい、どうぞ」
リビングに通された。質素な部屋だった。テーブルの上に、辞表のコピーが置いてある。
「林田」と剛造は言った。「USBのデータは大丈夫か」
「コピーをとってあります。三か所に分けて保管しました」
「賢い」
「田島さん」林田は剛造を見た。「私は、正しいことをしたと思っています。でも正直、怖いです。これからどうなるか」
「お前が怖いのは当然だ」剛造は言った。「しかし、お前は一人じゃない」
「でも財務省を辞めた私に、何ができるか」
「財務省の外からでも、できることがある」剛造は言った。「むしろ外の方が動きやすい場合もある。俺のそばで動け」
林田は剛造を見た。
「田島さんは、何者なんですか。本当に」
剛造はしばらく林田を見た。
「いつか話す。今は、俺を信じるかどうかだけ決めろ」
林田はしばらく考えた。
「……信じます」
「理由は」
「あなたと会った日から、ずっと悩んでいました」林田は言った。「でも昨日、会見を見て決めました。中村さんと鈴木さんが、あんなに堂々としていた。あれはあなたが動かしたんでしょう。あれを見て、信じようと思いました」
剛造は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
「よし」剛造は立ち上がった。「今日からお前にやってもらいたい仕事がある」
「何をすればいいですか」
「財務省に残っている四人を、動かせ。全員と連絡を取れ。USBのデータを補完する資料を集めてもらう。お前ならできるか」
林田は少し考えた。
「……できます。やります」
「無理はするな。危ないと思ったら引け」
「田島さんに言われると、説得力がないですけど」
剛造は小さく笑った。
「そうだな」
美咲は隣で、その様子を見ていた。
この人は、こうやって人を動かす。
命令じゃなく、気持ちを動かして、人を動かす。
昭和も令和も、変わらない。
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帰り道、二人は世田谷の住宅街を歩いた。
「田島さん」と美咲は言った。
「なんだ」
「御堂の想定外の一手、考えましたか」
剛造は少し間を置いた。
「ああ」
「どんな一手ですか」
剛造は歩きながら、前を向いたまま言った。
「御堂は俺が政治の外から動くと思っとる。裏から支援して、若手を動かして、メディアを使って、間接的に追い詰める。それが俺のスタイルだと思っとる」
「違うんですか」
「違う」
「じゃあ、どうするんですか」
剛造は立ち止まった。
振り返り、美咲を見た。
「俺が、表に出る」
美咲は目を丸くした。「表に?」
「永田町に、正面から入る」
「でも田島さんは議員じゃない。どうやって」
「橘総理に会う」剛造は言った。「直接、話をする」
美咲はしばらく呆然と剛造を見た。
「……総理に、直接?」
「御堂の想定外はそこだ。俺が表に出ることを、あいつは計算していない」
「でも総理に会うなんて、どうやって」
剛造は歩き始めた。
「藤堂に頼む。あいつにはまだ、切り札が一枚ある」
「切り札って」
「橘総理は、藤堂の教え子だ」
美咲は足を止めた。
「……そんな繋がりがあったんですか」
「政治は人と人だ」剛造は言った。「人脈は、使うためにある」
美咲は走って剛造に追いついた。
「田島さん、それが想定外の一手ですか」
「そうだ」
「御堂は、田島さんが総理に直接会いに行くとは思っていない」
「ああ。御堂は俺が裏から動くと信じとる。表に出るのが、一番の奇手だ」
美咲は手帳を取り出し、走り書きした。
「田島さん、これ、絶対に記事にしたいです。いつか」
「いつかな」
「またそれ」
剛造は前を向いたまま、小さく笑った。
冬の夕暮れが、世田谷の街を染めていた。
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その夜、御堂慎一郎は報告を受けた。
「田島が林田に会いに行きました。林田を取り込んだようです」
御堂は静かに聞いていた。
「それと、藤堂義雄が総務大臣に接触しようとしています」
「そうか」御堂は言った。「総務大臣か。田島らしい手だ」
「対策を打ちますか」
御堂は少し考えた。
「打て。ただし」御堂は窓の外を見た。「田島の次の一手を、よく考えろ。あの男は必ず、もう一つ別の手を打っている」
「どんな手でしょうか」
御堂は答えなかった。
しばらく考えた。
「……わからん」
側近は驚いた顔をした。御堂が「わからない」と言うのを、ほとんど聞いたことがなかった。
「田島剛造は」御堂はつぶやいた。「三十年研究しても、まだわからないことがある」
その声に、かすかな――本物の、緊張が混じっていた。
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