陽だまりの約束
三月三日。桃の節句。
私、藤崎沙希、二十九歳は、母が遺した七段飾りのお雛様の前に座っていた。
母は三年前に亡くなった。乳がんだった。
最期まで、このお雛様を大切にしていた。
「沙希。お雛様はね、女の子の幸せを願って飾るのよ」
母の声が、聞こえる気がする。
でも、私は幸せじゃない。
美大を出て、イラストレーターを目指したけれど、仕事は来ない。貯金は底をつき、実家の古いアパートで一人暮らし。
洗濯物を干しながら、ため息が出る。春の陽だまりが気持ちいい。柔らかな日差しが、シーツに染み込んでいく。洗剤の香り。布の感触。
母は、よくここで洗濯物を干していた。
「お日様の匂いがするでしょ」
そう言って、笑っていた。
母の絵が、部屋に飾ってある。
母が描いた、唯一の油絵。桜の木の下で、小さな女の子が笑っている絵。
その女の子は、私だ。
五歳の私。母と二人で花見に行った日。
「ママ、これ、上手?」
「とっても上手よ。沙希は、絵の才能があるわ」
母の言葉が、私をこの道に進ませた。
でも、才能なんてなかった。
スマホが鳴った。大学の同期、麻衣からのメッセージ。
「沙希、明日、駅前で待ち合わせしない? 久しぶりに会いたい」
麻衣は、今、大手広告代理店でアートディレクターをしている。成功している。
私とは、違う。
でも、断れなかった。
「分かった。何時?」
「午後二時。いつもの場所で」
翌日。駅前のカフェ。
麻衣は、相変わらず華やかだった。ブランドのバッグ。高そうなコート。
「沙希、久しぶり!」
「久しぶり」
席に着く。コーヒーの香りが鼻をくすぐる。
「沙希、最近どう? イラストの仕事、順調?」
笑顔で聞く麻衣。
「うん、まあまあ」
嘘だった。
「そう。良かった」
麻衣は、メニューを見ながら続けた。
「実はね、うちの会社で、絵本のプロジェクトがあって。イラストレーター探してるの」
心臓が跳ねた。
「沙希に、やってほしいんだけど」
「本当?」
「うん。でも、プロとして。納期も厳しいし、クオリティも求められる」
「大丈夫。やれる」
麻衣が、じっと私を見た。
「沙希。正直に言って。最近、ちゃんと仕事してる?」
ドキリとした。
「それは……」
「SNS見てるよ。最後の投稿、半年前でしょ。仕事がないんじゃない?」
言葉が出なかった。
麻衣が、ため息をついた。
「私ね、心配だったの。だから、今日呼んだの」
「心配?」
「沙希、本当はもう、絵を描いてないんじゃない?」
涙が出そうになった。
「描けないの。何を描いても、母には届かない。母みたいに、上手くなれない」
麻衣が、静かに言った。
「お母さんと比べてるの?」
「うん」
「でも、お母さんは、沙希に絵を描いてほしかったと思う?」
その言葉が、胸に刺さった。
家に帰った。
母の絵を見つめる。
桜の木。笑顔の私。
そして、絵の端に、小さな文字がある。
「沙希へ。ママより」
裏返してみた。
そこに、手紙が貼ってあった。
古い紙。母の字。
「沙希。もしこれを読んでいるなら、ママはもういないかもしれないわね。
でも、覚えていてほしいの。
ママが絵を描いたのは、才能があったからじゃない。
あなたの笑顔を、残したかったから。
大切なものは、上手く描くことじゃない。
誰かを想って、描くこと。
約束してね。
あなたは、あなたの絵を描いて。
誰かと比べないで。」
手紙を握りしめた。涙が溢れた。
私は、母の絵を超えようとしていた。
母と同じ土俵に立とうとしていた。
でも、母は、そんなこと望んでいなかった。
ただ、私に、私の絵を描いてほしかっただけだ。
スケッチブックを開く。
三年ぶりに、鉛筆を握る。
何を描こう。
窓の外を見る。陽だまり。洗濯物が揺れている。
シーツに、光が透けている。
その光景を、描き始めた。
手が震える。線がぶれる。
でも、止まらない。
これは、私の目に映った、私の陽だまり。
母の陽だまりじゃない。
一週間後。麻衣に連絡した。
「絵本の仕事、やっぱり断る」
「え? なんで?」
「私、まだ準備ができてない。プロとして、人前に出せるレベルじゃない」
麻衣が、残念そうな声を出した。
「そっか」
「でもね、約束する。一年後、必ず作品を持っていく」
「本当?」
「うん。今の私じゃダメだから。もう一度、ゼロから始める」
電話を切った。
それから、毎日、描いた。
朝、買い物に行く。スーパーの野菜売り場。トマトの赤。レタスの緑。手に取る感触。水滴の冷たさ。
それを描く。
昼、陽だまりで洗濯物を干す。風が頬を撫でる。布の匂い。ピンチの感触。
それを描く。
夜、お雛様を見つめる。お内裏様とお雛様の、静かな表情。金屏風の輝き。桃の花の柔らかさ。
それを描く。
上手くなくていい。
これは、私が感じた世界。
私の五感が捉えた、かけがえのない日常。
貯金は、完全に底をついた。
コンビニでバイトを始めた。
プライドは、もうない。
ただ、絵を描き続けるために、働く。
母が残してくれたアパート。母が描いた絵。母が大切にしたお雛様。
全部、私の糧になっている。
母は、自分の命を削って、私にこの環境を残してくれた。
だから、私も、何かを差し出す。
時間も、プライドも、全部。
ただ、絵を描くために。
一年後。
駅前のカフェ。麻衣との待ち合わせ。
「沙希!」
麻衣が、笑顔で手を振る。
私は、大きなファイルを持っていた。
「見て。これ」
ファイルを開く。
一年間で描いた絵。
陽だまりの洗濯物。スーパーの野菜。お雛様。母の部屋。古いアパートの階段。
どれも、日常の風景。
でも、光と影が丁寧に描かれている。布の質感。野菜の瑞々しさ。お雛様の衣装の繊細さ。
麻衣が、一枚一枚、じっくり見ている。
「すごい」
「え?」
「これ、すごくいい。温かい。優しい。見てると、ホッとする」
「でも、派手じゃないし、上手くもない」
「上手い下手じゃないの。これ、沙希にしか描けない絵だよ」
麻衣が、ある一枚を指差した。
お雛様の絵。
「これ、特にいい。このお雛様、生きてる感じがする」
「これは、母が大切にしてたお雛様」
「お母さん?」
「うん。母が遺してくれたもの。母の想いを、絵にした」
麻衣が、微笑んだ。
「分かった。沙希、絵本の仕事、まだやる気ある?」
「本当?」
「うん。この絵なら、自信を持って提案できる。テーマは『日常の宝物』。どう?」
一年前、私は何もなかった。
今、私にはある。
私だけが見た世界。私だけが感じた温もり。
それを、絵にする力。
母と比べる必要なんて、なかった。
母は母の絵を描いた。
私は私の絵を描けばいい。
それだけだった。
帰り道、買い物をする。
スーパーで、桃の花を買った。
部屋に飾る。お雛様の隣に。
窓から、春の光が差し込む。陽だまりが、部屋を満たす。
洗濯物を取り込む。太陽の匂いがする。
母が好きだった匂い。
「ママ。約束、守ったよ」
母の絵を見る。
桜の木の下で笑う、小さな私。
あの日、母は私を描いた。
今、私は母を描いている。
形は違うけれど、同じことをしている。
大切なものを、絵に残している。
お雛様の前に座る。
お内裏様とお雛様が、静かに微笑んでいる気がする。
三年前。母と交わした、最後の約束。
「沙希。絵を描き続けて」
「うん。約束する」
その約束を、やっと果たせた。
陽だまりの中で、新しいスケッチブックを開く。
次は、何を描こう。
この温かい光。柔らかい風。
全部、描きたい。
私にしか描けない世界を。
鉛筆を握る。手に馴染む感触。紙の匂い。
一本の線を引く。
それが、新しい物語の始まり。




