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陽だまりの約束

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/21

三月三日。桃の節句。


私、藤崎沙希、二十九歳は、母が遺した七段飾りのお雛様の前に座っていた。


母は三年前に亡くなった。乳がんだった。


最期まで、このお雛様を大切にしていた。


「沙希。お雛様はね、女の子の幸せを願って飾るのよ」


母の声が、聞こえる気がする。


でも、私は幸せじゃない。


美大を出て、イラストレーターを目指したけれど、仕事は来ない。貯金は底をつき、実家の古いアパートで一人暮らし。


洗濯物を干しながら、ため息が出る。春の陽だまりが気持ちいい。柔らかな日差しが、シーツに染み込んでいく。洗剤の香り。布の感触。


母は、よくここで洗濯物を干していた。


「お日様の匂いがするでしょ」


そう言って、笑っていた。


母の絵が、部屋に飾ってある。


母が描いた、唯一の油絵。桜の木の下で、小さな女の子が笑っている絵。


その女の子は、私だ。


五歳の私。母と二人で花見に行った日。


「ママ、これ、上手?」


「とっても上手よ。沙希は、絵の才能があるわ」


母の言葉が、私をこの道に進ませた。


でも、才能なんてなかった。


スマホが鳴った。大学の同期、麻衣からのメッセージ。


「沙希、明日、駅前で待ち合わせしない? 久しぶりに会いたい」


麻衣は、今、大手広告代理店でアートディレクターをしている。成功している。


私とは、違う。


でも、断れなかった。


「分かった。何時?」


「午後二時。いつもの場所で」


翌日。駅前のカフェ。


麻衣は、相変わらず華やかだった。ブランドのバッグ。高そうなコート。


「沙希、久しぶり!」


「久しぶり」


席に着く。コーヒーの香りが鼻をくすぐる。


「沙希、最近どう? イラストの仕事、順調?」


笑顔で聞く麻衣。


「うん、まあまあ」


嘘だった。


「そう。良かった」


麻衣は、メニューを見ながら続けた。


「実はね、うちの会社で、絵本のプロジェクトがあって。イラストレーター探してるの」


心臓が跳ねた。


「沙希に、やってほしいんだけど」


「本当?」


「うん。でも、プロとして。納期も厳しいし、クオリティも求められる」


「大丈夫。やれる」


麻衣が、じっと私を見た。


「沙希。正直に言って。最近、ちゃんと仕事してる?」


ドキリとした。


「それは……」


「SNS見てるよ。最後の投稿、半年前でしょ。仕事がないんじゃない?」


言葉が出なかった。


麻衣が、ため息をついた。


「私ね、心配だったの。だから、今日呼んだの」


「心配?」


「沙希、本当はもう、絵を描いてないんじゃない?」


涙が出そうになった。


「描けないの。何を描いても、母には届かない。母みたいに、上手くなれない」


麻衣が、静かに言った。


「お母さんと比べてるの?」


「うん」


「でも、お母さんは、沙希に絵を描いてほしかったと思う?」


その言葉が、胸に刺さった。


家に帰った。


母の絵を見つめる。


桜の木。笑顔の私。


そして、絵の端に、小さな文字がある。


「沙希へ。ママより」


裏返してみた。


そこに、手紙が貼ってあった。


古い紙。母の字。


「沙希。もしこれを読んでいるなら、ママはもういないかもしれないわね。


でも、覚えていてほしいの。


ママが絵を描いたのは、才能があったからじゃない。


あなたの笑顔を、残したかったから。


大切なものは、上手く描くことじゃない。


誰かを想って、描くこと。


約束してね。


あなたは、あなたの絵を描いて。


誰かと比べないで。」


手紙を握りしめた。涙が溢れた。


私は、母の絵を超えようとしていた。


母と同じ土俵に立とうとしていた。


でも、母は、そんなこと望んでいなかった。


ただ、私に、私の絵を描いてほしかっただけだ。


スケッチブックを開く。


三年ぶりに、鉛筆を握る。


何を描こう。


窓の外を見る。陽だまり。洗濯物が揺れている。


シーツに、光が透けている。


その光景を、描き始めた。


手が震える。線がぶれる。


でも、止まらない。


これは、私の目に映った、私の陽だまり。


母の陽だまりじゃない。


一週間後。麻衣に連絡した。


「絵本の仕事、やっぱり断る」


「え? なんで?」


「私、まだ準備ができてない。プロとして、人前に出せるレベルじゃない」


麻衣が、残念そうな声を出した。


「そっか」


「でもね、約束する。一年後、必ず作品を持っていく」


「本当?」


「うん。今の私じゃダメだから。もう一度、ゼロから始める」


電話を切った。


それから、毎日、描いた。


朝、買い物に行く。スーパーの野菜売り場。トマトの赤。レタスの緑。手に取る感触。水滴の冷たさ。


それを描く。


昼、陽だまりで洗濯物を干す。風が頬を撫でる。布の匂い。ピンチの感触。


それを描く。


夜、お雛様を見つめる。お内裏様とお雛様の、静かな表情。金屏風の輝き。桃の花の柔らかさ。


それを描く。


上手くなくていい。


これは、私が感じた世界。


私の五感が捉えた、かけがえのない日常。


貯金は、完全に底をついた。


コンビニでバイトを始めた。


プライドは、もうない。


ただ、絵を描き続けるために、働く。


母が残してくれたアパート。母が描いた絵。母が大切にしたお雛様。


全部、私の糧になっている。


母は、自分の命を削って、私にこの環境を残してくれた。


だから、私も、何かを差し出す。


時間も、プライドも、全部。


ただ、絵を描くために。


一年後。


駅前のカフェ。麻衣との待ち合わせ。


「沙希!」


麻衣が、笑顔で手を振る。


私は、大きなファイルを持っていた。


「見て。これ」


ファイルを開く。


一年間で描いた絵。


陽だまりの洗濯物。スーパーの野菜。お雛様。母の部屋。古いアパートの階段。


どれも、日常の風景。


でも、光と影が丁寧に描かれている。布の質感。野菜の瑞々しさ。お雛様の衣装の繊細さ。


麻衣が、一枚一枚、じっくり見ている。


「すごい」


「え?」


「これ、すごくいい。温かい。優しい。見てると、ホッとする」


「でも、派手じゃないし、上手くもない」


「上手い下手じゃないの。これ、沙希にしか描けない絵だよ」


麻衣が、ある一枚を指差した。


お雛様の絵。


「これ、特にいい。このお雛様、生きてる感じがする」


「これは、母が大切にしてたお雛様」


「お母さん?」


「うん。母が遺してくれたもの。母の想いを、絵にした」


麻衣が、微笑んだ。


「分かった。沙希、絵本の仕事、まだやる気ある?」


「本当?」


「うん。この絵なら、自信を持って提案できる。テーマは『日常の宝物』。どう?」


一年前、私は何もなかった。


今、私にはある。


私だけが見た世界。私だけが感じた温もり。


それを、絵にする力。


母と比べる必要なんて、なかった。


母は母の絵を描いた。


私は私の絵を描けばいい。


それだけだった。


帰り道、買い物をする。


スーパーで、桃の花を買った。


部屋に飾る。お雛様の隣に。


窓から、春の光が差し込む。陽だまりが、部屋を満たす。


洗濯物を取り込む。太陽の匂いがする。


母が好きだった匂い。


「ママ。約束、守ったよ」


母の絵を見る。


桜の木の下で笑う、小さな私。


あの日、母は私を描いた。


今、私は母を描いている。


形は違うけれど、同じことをしている。


大切なものを、絵に残している。


お雛様の前に座る。


お内裏様とお雛様が、静かに微笑んでいる気がする。


三年前。母と交わした、最後の約束。


「沙希。絵を描き続けて」


「うん。約束する」


その約束を、やっと果たせた。


陽だまりの中で、新しいスケッチブックを開く。


次は、何を描こう。


この温かい光。柔らかい風。


全部、描きたい。


私にしか描けない世界を。


鉛筆を握る。手に馴染む感触。紙の匂い。


一本の線を引く。


それが、新しい物語の始まり。


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