セーラー服を脱がさないで
終業式の朝、鏡の前に立った私は、なんだか自分が自分でないみたいだった。
昨日と同じ、校則通りのセーラー服。
きちんと結ばれたスカーフ。
でも、そのすべてが昨日とは全く違って見える。
窮屈なだけだと思っていたこの服が、今はなんだか誇らしい。
駿太が「好きだ」と言ってくれた、私の一部だから。
昨日、彼が解いてくれたスカーフを、今朝はいつもより少しだけ丁寧に結んだ。
玄関のドアを開けると、そこにはいつもと同じように、東堂駿太が立っていた。
でも、その表情はいつもと違う。
目が合った瞬間、お互いに昨日の夕暮れの教室を思い出してしまって、少しだけ気まずそうに、そして照れくさそうに笑った。
「おはよ、結衣」
「……おはよ、駿太」
昨日までの私たちなら、ここで会話は終わっていたかもしれない。
でも、今日は違った。
駿太がおもむろに手を差し出してくる。その大きな手に、私は恐る恐る自分の手を重ねた。
バスケでできた硬いタコのある指が、私の指に絡み合い、ぎゅっと握られる。
それだけで、心臓が爆発しそうだった。
「……なんか、変な感じ」
「え?」
「いや……いつもと同じなのに、全然違うっていうか。……嬉しい」
駿太のまっすぐな言葉に、私はもっと顔を赤くして俯いてしまった。
二人並んで歩く通学路。
世界が、昨日よりもずっと色鮮やかに見える。
隣を歩く駿太の制服の匂い。
繋いだ手から伝わる体温。
すべてが愛おしい。
学校に着くと、私たちは示し合わせたように、昇降口の前でそっと手を離した。
まだ、誰にも言えない、二人だけの秘密。
教室に入ると、きらきらした女の子たちの輪が、いつもと同じように駿太を囲んだ。
西野まどか先輩が、廊下から駿太に手を振っているのも見えた。
昨日までの私なら、きっと胸が苦しくなって、目を逸していただろう。
でも、今の私は違う。
だって、駿太が時々、私の方を盗み見て、困ったような顔で笑いかけてくるのを知っているから。
その視線だけで、私は最強になれた。
私の鎧だったセーラー服は、今はもっと強くて温かい、「自信」という名の鎧に変わっていた。
放課後、終業式を終えた教室は、どこか浮かれた空気に満ちていた。
夏休みの課題について教えてほしい、なんて言い訳をして、私は駿太と二人きりの時間を作っていた。
本当は、一秒でも長く、二人きりでいたかっただけ。
「……で、ここの公式が、こうなるわけ」
「へえ、なるほどな。サンキュ、結衣」
駿太はそう言うと、シャーペンを置いて、じっと私の顔を見つめてきた。
その熱っぽい視線に、頬が熱くなる。
「……なによ、ちゃんと聞いてる?」
「んーん。別に。結衣の横顔、綺麗だなって思ってただけ」
駿太はいたずらっぽく笑うと、すっと手を伸ばして、私のセーラー服のスカーフの結び目に触れた。
昨日、彼が解いた、始まりの場所。
「……っ!」
体がびくりと跳ねる。
その反応を見て、駿太はもっとからかいたくなったのか、楽しそうに目を細めた。
「昨日、この先、どうなるかと思った?」
「……な、思ってない!」
顔を真っ赤にしながら否定する私に、駿太は「そっかー?」なんて言いながら、隣に移動して肩を抱き寄せた。
腕の中にすっぽり収まる小さな体に、心臓がうるさく鳴る。
駿太の匂いがして、理性がぐらついた。
「じゃあ、今日も解いちゃおっかな」
耳元でわざと囁かれ、私の肩がまた跳ねた。
駿太は、そんな私の震える肩を抱きしめながら、楽しそうに私の反応を待っているようだった。
昨日までの私なら、きっとされるがままだっただろう。
でも、今の私は、少しだけ違う。
私は、その手をそっと、自分の手で押さえた。
「……ねえ、駿太」
「ん?」
私は、昨日からずっと考えていたことを、口にした。
「このセーラー服……私、ずっと嫌いだったの。地味で、真面目に見えて、私を縛り付けてるみたいで。でもね」
私は駿太の胸に顔を埋めながら、言葉を続ける。
「今は、好きなんだ。駿太が、この服を着てる私を『好きだ』って言ってくれたから。だから……」
顔を上げて、駿太の瞳をまっすぐに見つめる。
「もう、私のセーラー服、脱がさないでいいよ」
それは、昨日とは正反対の、でも、昨日よりもずっと素直な、私からのお願い。
私の鎧だったこの服は、もう鎧じゃない。駿太との始まりの証。大切な、宝物。
駿太は一瞬だけきょとんとした顔をしたけど、すぐにその意味を理解してくれたみたいだった。
期待に満ちていた彼の肩が、がっくりと落ちる。
「ええっ、そんなぁ……」
しょんぼりと子犬みたいになった駿太を見て、私はたまらなくなって、クスクスと笑い声を漏らした。
そして、彼の耳元にそっと唇を寄せる。
「……おうちでなら、いいよ」