セーラー服を脱がせて side 駿太
宮原結衣は、いつも俺の少しだけ斜め後ろを歩く。
毎朝、玄関のドアを開けると、当たり前のように結衣がそこにいる。
校則をきっちり守ったセーラー服姿。
ピンと伸びた背筋。
俺はわざと大股で歩いて、結衣が小走りで追いついてくる。
その小さな歩幅の差が好きだった。
昼休み、俺の机の周りには、いつの間にか人だかりができている。
正直、誰が誰だかよくわからない。
適当に相槌を打って、笑って。
でも、俺の目はいつも、少し離れた席で静かに教科書を読んでいる結衣を探していた。
他の女子みたいに馴れ馴れしくしてこない。
その距離感が、俺を安心させ、同時にもどかしくさせた。
結衣のセーラー服は、あいつを守る鎧なんだと思う。
真面目で、少しだけ不器用で、本当はすごく優しい。
そんな結衣の本体を、あの紺色の制服が守っている。
俺は、その鎧ごと、結衣の全部が好きだった。
「結衣ー、これ、今日の分のプリント」
「あ、うん、ありがとう」
俺はわざと女の子たちの輪を抜けて、結衣の席まで行く。
それが、俺にできる唯一の意思表示だった。
「部活、今日長引くから、先に帰ってていいぞ」
「わかった。あんまり無理しないでね。はい、これ、あんたの分の麦茶」
結衣が差し出す水筒。
俺はそれを受け取ると、少しだけ反抗するように、結衣の頭をくしゃっと撫でた。
「わーってるって。世話焼きだな、お前は」
本当は、世話を焼かれるのが嬉しいなんて、口が裂けても言えない。
お前が俺のことを見てくれている、その事実だけで、俺はなんだって頑張れた。
でも、その言葉はいつだって、「幼馴染」という便利な言葉に飲み込まれて消えていく。
放課後、体育館の熱気の中でボールを追っていると、時々、視線を感じることがあった。
図書室の窓。そこに、結衣の姿が見える時がある。
その小さな人影を見つけるたびに、俺の心臓は馬鹿みたいに跳ね上がった。
見てくれている。
ただそれだけで、シュートの精度が格段に上がる気がした。
でも、そんな俺の気持ちをかき乱す存在もいた。
マネージャーの、西野まどか先輩。
「東堂くん、お疲れ様!」
休憩中、甲斐甲斐しくタオルやドリンクを渡してくる先輩に、俺はいつも曖昧に笑って会釈するだけだった。
先輩の好意には気づいていたけど、応える気は全くない。
むしろ、その積極的なアプローチが、図書室の窓から見ているかもしれない結衣の目にどう映るか、そればかりが気になって仕方がなかった。
結衣は、きっと誤解している。
俺が誰にでも優しいと。
誰にでも笑顔を振りまいていると。
違う。
俺の本当の笑顔は、結衣の前でしか出てこないのに。
このもどかしい関係を、どうにかして変えたい。
でも、もし今の関係を壊してしまったら?
結衣が俺の前からいなくなってしまったら?
そう思うと、足がすくんで動けなくなる。
夏休みを目前に控えた、ある日の放課後。
俺は決めていた。今日、結衣を夏祭りに誘う。
二人きりで、と、ちゃんと言葉にして。
部活を早めに切り上げて、教室に戻った。
でも、まだ図書委員の仕事をしているのか、結衣の姿はなかった。
あいつを待っているうちに、練習の疲れが一気に襲ってきて、俺は机に突っ伏したまま眠りに落ちてしまった。
ふと、スマホの着信音で目が覚める。姉ちゃんからだった。
「……うん。ああ、そうなんだ。へえ、すごいじゃん」
くだらない世間話に相槌を打ちながら、俺の頭は結衣のことでいっぱいだった。
どうやって誘おうか。
どんな顔で、言えばいいのか。
「夏祭りの日? ああ、うん。……楽しみにしてる」
姉ちゃんが、夏祭りの日に実家からこっちに来るという。
楽しみだ、と口では言いながら、俺が本当に楽しみにしているのは、結衣と行くつもりの夏祭りだった。
電話を切ると、入り口に結衣が立っていた。
泣きそうな顔で、俺を睨みつけている。
「おう。結衣、おつかれ。待ってた」
「え……?」
「一緒に帰ろうと思って」
俺の言葉は、あいつの心に届かなかった。
それどころか、結衣の瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちる。
「……なんでよ」
その冷たい声に、俺は心臓を掴まれたような衝撃を受けた。
「なんで、待ってるのよ……。夏祭り、西野先輩と約束したんでしょ!? 先輩と帰ればいいじゃない! きっと、その方が楽しいでしょ!?」
違う、と叫びたかった。
でも、結衣の勢いは止まらない。
「もう、嫌なの!」
結衣の叫びが、教室に響く。
「『いい子』でいるのも、『世話焼きな幼馴染』でいるのも、もう疲れた! 本当は、私も、あの子たちみたいになりたい! スカート短くして、駿太に『可愛い』って思われたい! でも、できないのよ、そんな勇気ないから……っ!」
俺は、なんて馬鹿だったんだろう。
結衣が、こんなにも苦しんでいたなんて。
俺の鈍感さが、あいつを追い詰めていたんだ。
「……馬鹿野郎」
俺は一歩、また一歩と結衣に近づき、震えるその体を力強く抱きしめた。
耳元で、俺はありったけの想いを込めて囁いた。
「俺が好きなのは、他の誰かみたいに着崩したお前じゃねえよ。毎朝、誰より早く来て勉強してて、俺の怪我に誰より先に気づいてくれて、きっちりセーラー服着てる……そんなお前が、ずっと、好きなんだよ」
「……え」
「さっきの電話は、姉ちゃんだよ。夏祭りの日、実家からこっちに来るから、楽しみにしてるって言ってただけだ。西野先輩の誘いは、断った。……お前と、二人で行きたかったから」
「……うそ」
「俺だって、怖かったんだ。部活しかねえ俺が、お前の隣にいていいのかって。お前が俺のこと、ただの世話が焼ける幼馴染としか思ってなかったらって……」
顔を上げると、夕日を浴びた結衣の瞳から、綺麗な涙がまた溢れてくる。
でも、それはさっきまでの悲しい涙とは違う、温かい涙だった。
「俺は、本当のお前が見たい。俺にしか見せない、結衣を」
俺は結衣の唇に、自分の唇を重ねた。
初めて触れた結衣の唇は、俺が思っていたよりもずっと柔らかくて、甘かった。
長いキスが終わると、お互いの額をこつんと合わせたまま、どちらからともなく笑い合った。
「……好きだ、結衣」
「……私も、好きだよ、駿太」
もう一度、今度は触れるだけの優しいキスをする。
夕日が沈みきって、教室が薄闇に包まれる中、結衣が俺の瞳をまっすぐに見つめてきた。
「……ねえ、駿太」
結衣は少しだけ勇気を出して、俺の制服の裾をきゅっと掴んだ。
「私の、このセーラー服を脱がせてくれる?」
その言葉の意味を、俺はすぐに理解した。
結衣がずっと着ていた、臆病な心の鎧を、俺に脱がしてほしいと、そう言っているんだ。
たまらなく愛おしくて、胸が張り裂けそうになる。
俺は何も言わずにこくりと頷くと、震える指で、結衣のセーラー服のスカーフにそっと触れた。
その結び目を、ゆっくりと解いていく。
するり、と紺色の布が首元から離れ、結衣の白い喉が露わになった。
俺は、そこで動きを止めた。
自分の顔に、一気に熱が集まるのがわかる。
これ以上は、ダメだ。今、ここでじゃない。
「……残りは、また今度な」
耳元でそう囁くと、俺は顔を真っ赤にしながら、もう一度、今度はさっきよりもずっと強く結衣を抱きしめた。
腕の中で、結衣が小さく頷くのがわかった。
スカーフを解かれただけのセーラー服。
でも、俺たちの間にある壁は、もうどこにもなかった。
二人だけの教室で始まった、新しい物語。
その最初のページの、甘い余韻に浸っていた。